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第七話タイトル 《わたしの名前を持つ者》

 水の中には音がなかった。

 それなのに、私は自分の心臓の音だけをはっきりと聞いていた。

 目を開けても何も見えず、耳には自分の呼吸音すら届かない。

 ただ、深く、静かで、終わりのような静寂があった。


 そのなかで、ひとつの声だけがはっきりと響いた。


 かえして

 わたしの なまえ


 声はすぐ近くにあった。

 水に濁されたような低い声だったが、間違いなく私自身の声だった。


 ふと気づくと、目の前に誰かが立っていた。

 いや、浮かんでいた。

 私と同じ姿をした少女。

 表情も、髪型も、声も、完全に一致していた。


 ただひとつ違ったのは、その目だった。


 私の目ではなかった。

 誰かの、何かを奪った目だった。


 彼女は微笑んだ。


 ねえ、あなたがいなければ

 わたしはここにいなかった


 言葉が水中に溶けていく。

 その意味がすぐには理解できなかった。


 でも、思い出す。

 あの夏、澄と私が池で遊んだ日。

 そのとき、私だけが助かった。

 あの日、私は澄の名前を呼んだ

 何度も、何度も


 それがきっかけだったのか

 呼んだ名前が、水に落ちたのか


 そのとき、もうひとりのわたしが囁いた。


 あなたが呼ばなければ

 わたしは うまれなかった


 私は理解した

 この存在は、私が呼んでしまった影

 澄を呼ぶ声が水に沈み、それが形を持った

 そして、澄ではないなにかが

 私の顔と名前をまとうようになった


 返すには

 自分の名前を差し出すしかない


 でも、それは私の消失を意味するかもしれない


 それでも

 それでも、もう終わらせなければならなかった


 私は口を開いた

 はっきりと、自分の名前を告げた


 ゆうか

 それが、わたしの なまえ


 水の中で音が響いた

 世界が震えたような、深い共鳴音だった


 影のわたしは微笑んだ

 そして、涙を流した


 ありがとう

 これで もどれる


 身体が浮かび始めた

 水の中で、私は静かに上昇していた

 もう一人の私の手が、そっと私の指先から離れた


 そのとき、私は一瞬だけ

 澄の笑顔を見た気がした


 次に目を開けたとき

 私は祖母の家の布団の中にいた


 濡れていなかった

 手には何も握られていなかった


 けれど、鏡を見た瞬間、私は思わず固まった


 そこに映っていたのは、見慣れた私の顔

 でも、ほんのわずかに

 目元の奥に、澄の面影があった


 祖母は言った


 おかえり

 よく、もどってきたね


 私はただ、うなずいた


 外は蝉の声が響いていた

 夏は終わりかけていた

 池も、井戸も、何もなかったように静かだった


 だけど私は知っている

 あそこには、まだ誰かが残っている


 名前を待っている

 顔を欲している

 今も、水の奥で

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