第六話タイトル 《顔を返す場所は、ここだった》
走って家に戻ったあと、私はしばらく玄関先でうずくまっていた。
身体は震え、息は浅く、手足の感覚がうまく戻らない。
足裏に残るのは、泥ではなく、ぬるりとした水の冷たさだった。
池に触れていないはずなのに、どこか濡れていた。
祖母は何も言わず、ただ静かにタオルを差し出してくれた。
池の中に、何かがいる
それは、私の顔を持っていた
でも、あれは私じゃない
言葉にしようとするたび、喉の奥が塞がった。
夢と現実の境目があいまいになり、自分の存在がゆらいでいく。
この家に帰ってきたのは、本当に私だったのか。
あるいは、私の顔を借りた“なにか”がここにいるのか。
夜になり、祖母がようやく口を開いた。
水鏡の池には、もともと別の名があったんだよ
むかしむかし、そこは“かえしの井”と呼ばれていた
返しの井
言葉の響きだけで、心がざわついた
誰かが迷い込んだとき
顔を失ったとき
名前を呼ばれたとき
その水に映して返す場所だったんだよ
返すって、何を
顔さ
水に奪われた顔を、そっと戻す
ただしね、戻された顔は、もう“前のまま”じゃないのさ
祖母の話は、まるで民話のようだった。
けれど今の私には、それが現実の記録にしか思えなかった。
澄は呼ばれた
私は呼ばれている
そして私の顔も、名前も、誰かのものになりかけている
その夜は眠れなかった
家中の鏡をすべて覆った
スマートフォンのフロントカメラにもテープを貼った
もう、自分の顔すら信じられなかった
朝が来て、私は再び例の古地図を取り出した
昭和三十二年の記録とともに残されていた、池の周辺図
その一角に、もう一つの水源のような印があった
今はもう誰も通らない山道の奥
小さく、薄く、「旧井戸」とだけ記されていた
私はそこへ行くことを決めた
返すという行為があるなら、それをする場所があるはずだ
自分の顔も、澄の声も
あの池に引きずられたすべてを、終わらせるために
祖母には何も言わず、朝のうちに家を出た
地図を頼りに、山の中へと足を踏み入れる
獣道のように細い道を、枯れ葉を踏みながら進んでいくと
木々の切れ間に、ぽっかりと開いた暗がりが現れた
それは井戸だった
崩れかけた石積みの中に、黒く深い穴が口を開けていた
水は見えなかったが、濡れた空気が確かに漂っていた
私は井戸の縁に立ち、自分の名前を口にした
ゆうか
すると、井戸の奥から水音が聞こえた
ぽつり
ぽつり
ゆっくりと、水面が現れる
真っ黒な鏡のように、何も映さない水面
けれど、見つめているうちに、少しずつ何かが浮かび上がってきた
顔だった
私の顔
けれど、それはずっと泣いていた
目が、口が、沈黙の中で苦しんでいた
私はそれを見ながら、再び名前を呼んだ
ゆうか
それは、私にしかできないことだと思った
そのとき、背後から誰かの手が肩に触れた
振り返ると、そこに澄が立っていた
笑っていた
けれど、その笑顔が歪んで見えた
返して
その声は、私の口から漏れたのか、澄の声だったのか分からなかった
井戸の水面が揺れた
顔が滲んで、消えた
代わりに浮かんできたのは、もう一つの顔
目の位置が少し違う
口元の動きが異なる
でも、それもまた、私だった
私は足を一歩踏み出した
返すために
あるいは、受け取るために
井戸の縁に触れたその瞬間、水が跳ねた
視界が暗転する
世界が裏返るような感覚
音も光も、すべてが消えた
そして私は、水の中にいた