第五話タイトル 《水面の奥に、私がいた》
木札に刻まれていたのは、間違いなく私の名前だった。
手に取った瞬間、湿った空気が肌にまとわりついたような感覚がした。
読み慣れた字なのに、見れば見るほどそれが自分のものではないような気がしてくる。
なぜ私の名前がここにあるのか。
どうして祖母は何も言わなかったのか。
そもそも、これは何のための札なのか。
ふと、棚の隅に置かれた紙の束が目に入った。
何枚かは古びて破れかけていたが、
一番上の紙には墨でこう書かれていた。
水鏡に映らぬ者 名前を返さず
ぞくりとした。
まるで、何かの戒めのように、文字が皮膚の下に入り込んでくる。
私は札を元の場所に戻し、倉を出た。
境内の空気が一気に重くなった気がして、思わず足早になった。
帰り道、村を歩いていると、小さな子どもたちが遊んでいるのが見えた。
水鉄砲を手に、楽しげに笑いながら走り回っている。
その中のひとりが、私のほうをじっと見つめた。
しばらくして、ぽつりとこう言った。
お姉ちゃん、もう帰ってきたんだね
何か言い返そうとしたが、子どもはすぐに他の友達のもとへ走って行った。
声のトーンも、言い方も、まるで澄のものだった。
私はその場に立ち尽くした。
祖母の家に戻ると、玄関先に封筒が置かれていた。
差出人の名はなかった。
封筒の中には、一枚の写真とメモ。
写真には、澄が写っていた。
笑っている。背景は池。
ただし、澄の隣にはもう一人、私にそっくりな誰かが立っていた。
顔が半分ほど影に隠れているが、服も髪も表情も私に酷似していた。
メモには、こう書かれていた。
水に映ったのは 本当にお前か
部屋に戻っても、その言葉が頭の中を回り続けた。
私が今ここにいるとして、それは本当に私自身なのか。
もし水面に映る自分が、自分ではないのだとしたら、私はいったい誰なのか。
夜が深まるにつれて、不安はじわじわと形を成していく。
窓の外から、かすかな水音が聞こえた。
雨は降っていない。風もない。
それでも、確かに水が揺れている音がする。
私はカーテンを開けた。
遠くに見える池の水面が、ゆっくりと脈打つように揺れていた。
まるで呼吸しているかのように。
次の瞬間、窓ガラスに人の手形が浮かんだ。
内側ではない。外側だ。
驚いて後ずさると、その手形はすっと消えた。
誰の姿も見えない。
けれど、私は確かに見た。
その手形の指は、私と同じ長さだった。
その夜、私は眠れなかった。
何度も鏡を確認した。
何度も自分の名前を口に出した。
声は震えていた。
名前が、他人のもののように響いた。
翌朝、池へ行く決心をした。
誰もいない早朝なら、何かが見える気がした。
池のほとりに立つと、水面は穏やかだった。
風もなく、鳥の声もない。
私はゆっくりと水面を覗き込んだ。
映ったのは、私の顔。
けれどその顔は、わずかに口角を上げていた。
私は笑っていないのに、鏡の中の私は笑っていた。
そして、口が動いた。
かえして
その言葉を見た瞬間、膝が崩れた。
息が止まりそうになった。
けれど目を逸らすことができなかった。
水面の中で、私の顔がさらに微笑んだ。
歯を見せて、ゆっくりと、楽しそうに。
かえして
あの子の顔を
あなたの名前を
私は立ち上がり、無意識に後ずさった。
そのとき、池の奥から水音がした。
ぼちゃん
何かが落ちた。
あるいは、何かが這い上がった。
私は振り返らずに、その場から走った。
池は、呼んでいる。
確かに、私の名前で。