表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

第三話《映っていたのは、私じゃない》

午後の陽が傾き始めたころ、私はあの箱をもう一度見つめていた。

押し入れの奥にあった、埃をかぶった古い木箱。

ふたには黒い筆文字で「水鏡祭・記録 昭和三十二年」と書かれていた。


開けるかどうか、一瞬だけ迷った。

けれど、何かがそこにある気がして、私は箱の蓋に手をかけた。


中には、紙がぎっしりと詰まっていた。

手書きの帳面。黒白の写真。新聞の切り抜き。

そして、一枚の古びた地図。池のまわりとその地下を示すような、奇妙な図面だった。


帳面の一番上には、こう記されていた。


昭和三十二年七月二十五日

水鏡祭にて、誤って少女が池に転落。遺体は見つからず。


事故、と書かれていた。

だが記録を読み進めていくと、どこかそれを疑っているような言葉が並んでいた。


目撃者が口を閉ざした

水に映った顔が別人だったと語る子供がいた

翌年から、水鏡祭の形式が変わった


帳面の最後のページには、こうあった。


村の記憶は、いつも水に沈められる


私は帳面を閉じ、ふと池の方向に目をやった。

祖母の家からでも、木々の隙間を通して池の端が見える。

真夏の光を受けた水面が、静かに波打っていた。


澄は、ここで何かを知ったのだ。

夢ではない。幻でもない。

この村の中に、明らかに何かがある。


その夜、私は再び夢を見た。


水の中を歩いている。

足元には何もないのに、確かに水の中だった。

髪がふわふわと揺れて、呼吸はできていた。


前方に、誰かが立っていた。

こちらに背を向けている。

その背中が、細くて、澄に似ていた。


私は声をかけようとしたが、口から音が出なかった。


代わりに、向こうの人物が振り返った。


顔が、私だった。


いや、私に似ていた。

目元が違う。口元の笑い方が違う。

それは、鏡の中でしか見たことのないような、自分の影だった。


目が覚めたとき、背中は冷たい汗で濡れていた。


時計を見ると、午前四時二十六分。

ふと、床の下から小さな水音が聞こえたような気がした。


翌朝、祖母が言った。


あんた、夢を見たろう

この家に戻った人間は、みんな最初に夢を見る

それで呼ばれるんだよ


私は問い返すように祖母を見た。

けれど祖母はそれ以上何も言わなかった。

ただ、仏壇の前で手を合わせながら、短くつぶやいた。


もう、池には近づかん方がいい


その言葉が頭の中に残ったまま、私は再び池へ向かった。


観光向けの案内板には、水鏡祭について簡単な説明が書かれていた。

古来、水神に感謝を捧げる祭り。

かつては雨乞いや五穀豊穣を願い、池に灯籠を流していた。


けれどそこには、昭和三十二年の事故についての記述はなかった。


地図で見た通り、池の裏手には人目につかない小道があった。

草が生い茂っていたが、道は確かに続いていた。

その先に、苔むした石段があり、小さな祠がぽつんと立っていた。


祠の中には、何もなかった。

ただ、湿った空気と古びた木のにおい。

そして、壁に残されたわずかな墨文字。


顔を返せ


その言葉だけが、はっきりと残されていた。


私はもう一度振り返り、池の方を見た。

草の隙間から、ちらりと水面が見えた。


そこには、何も映っていなかった。


風が吹いていたわけではない。

光が反射しているわけでもない。

ただ水面が、私の姿をまったく映していなかったのだ。


私はそこから一歩も動けなくなった。


まるで、私がここにいないことを、水だけが知っているようだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ