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第二話 本文《水の中から、私の声がする》

 その夜、私は夢を見た。

 耳の奥に、濡れた声が響いていた。


「……ねえ、お姉ちゃん」

「こっちに来て」


 水の中から、誰かが呼んでいる。

 けれど声の主は見えなかった。

 水面には私の顔だけが映っていた。

 そう、映っていたはずだった。


 その顔が、ふと笑った。

 私の意思とは関係なく。


 目が覚めたとき、私は全身汗まみれだった。

 窓を閉め切った部屋に、湿気がじっとりと溜まっている。

 風鈴がどこかで微かに鳴った。


 翌朝、村役場へ立ち寄った父と別れ、私はひとりで祖母の家を歩いた。

 澄が今も暮らしていた家。私が小学6年まで過ごしていた家。

 木造二階建ての小さな日本家屋は、今も昔のままだった。


 二階の一番奥、澄の部屋は、靴音ひとつ響かない静けさに包まれていた。

 入り口の障子をそっと開けると、畳の上に夏の光が静かに降りていた。


 部屋は整理整頓されていた。

 中学生らしいかわいらしい雑貨。読んでいた本。棚に並ぶ文房具。

 何一つ、急にいなくなった人間の気配はなかった。


 机の引き出しを開けると、一冊のノートが見つかった。

 ピンク色のカバーには、油性ペンで

「すみのひみつ」と書かれていた。


 私は少しだけ躊躇したあと、ノートを開いた。


 七月十日

 雨が全然降らないね。池の水も減ってるっておばあちゃんが言ってた。

 でも夢の中では、水がすごく冷たくて、いっぱいある。


 七月十四日

 夢の中で、私がもう一人いた。

 髪も服も同じなのに、声だけ違った。

 あれって、夢だよね?

「おいで」って言われて、ちょっとだけ怖かった。


 七月十九日

 今日も夢を見た。今度は池の近くだった。

 私が池に立ってて、水に映った私が笑ってた。

 でも、あれ、私じゃない。

 私の顔をしてたけど、目が違った。


 読んでいるうちに、背中がじっとりと汗ばんできた。

 ノートの言葉が、昨夜の夢と重なっていく。


 妹は、夢の中で誰かと会っていた。

 それは、彼女自身の姿をしていたもの。

 そしてその声が、「おいで」と言っていた。


 私は思わずノートを閉じた。


 あれは夢なんかじゃない。

 きっと澄は、何かに呼ばれていた。


 部屋の隅、古びた姿見の鏡が目に入った。

 私は思わず立ち上がり、そっとその前に立つ。

 そして、鏡の中の自分と目が合った。


 ……一瞬、ぞっとした。

 目が、自分の動きとわずかにずれていたように見えた。


 いや、気のせいだ。そう思いたかった。


 けれど、澄もきっと、こうやって何度も“気のせい”にしてきたのだ。

 自分の中で違和感を積み重ねながら、それを誰にも言えなかったのだ。


 その日の午後、池の周りを歩いてみた。

 村人に会えば挨拶は交わすが、誰も私を目の奥で見ていない気がする。

「可哀想に」

 そんな目ばかりが突き刺さる。


 池の水面は、風もないのに静かに波打っていた。

 陽の光を反射するその様は美しかった。

 けれど、私は知っている。その奥には、何かがいる。


 そして、それは澄を“知っている。


 それどころか、澄と同じ顔をしている。


 日が暮れかけるころ、祖母がふいにこんなことを言った。


「今夜あたり、また夢を見るかもしれないよ」

「水の夢は、向こうから来るからねぇ」


 私はその意味を問いただす前に、祖母は台所に立ってしまった。


 ふと、もう一度澄のノートを読み返したくなり、部屋に戻った。

 だが、ノートはどこにもなかった。

 机の引き出しにも、畳の上にも。


 代わりに見つけたのは、押し入れの奥に置かれた古い箱。

 埃をかぶったその箱の蓋には、墨でこう書かれていた。


「水鏡祭・記録 昭和三十二年」

 私は手を伸ばしかけて……止めた。

 背筋が、びしょ濡れの冷気に包まれた気がしたのだ

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