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第一話《帰郷 七月二十三日、水位124cm》

 七月二十三日。水位は一二四センチ。


 それは村の公式記録に残された数値だった。

 雨が降らなかった梅雨明けのあとで、池の水は例年より20センチほど減っていた。

 けれど村人たちは、誰もそのことを口にしなかった。


「ようこそ水鏡祭へ」と書かれた立て看板が、県道から分岐する細道の入口に立っていた。

 赤と白の布が風に揺れ、その向こうに続く木々の道を照らす夏の陽が、痛いほど眩しかった。


 私は助手席の窓をわずかに開けて、外の空気を吸い込んだ。

 草のにおい。濃く、湿って、記憶の底に絡みついていた匂いだ。


 運転していた父は無言だった。何も言わなくても分かる。

 この帰郷は、決して望んだものではない。


 妹のすみが、行方不明になった。


 二日前の夕方、彼女はひとりで“あの池”の近くを歩いていたという。

 目撃情報はそれきり。携帯電話も、バッグも見つかっていない。


「なにか事故か事件だと思ってるの?」

 出発前、母にそう訊いた。

 母は首を横に振りながら、こう言った。


「澄は、あの池に呼ばれたのよ」


 そのときは、冗談か、ただのショックによる錯乱かと思った。

 でも、車が村に近づくにつれて、その言葉の重さが妙に現実味を帯びてきた。


 村は、変わっていなかった。

 いや、正確には変わっていないように見せかけていた。


 神社の鳥居も、茅葺き屋根の家々も、昔と同じようにそこにある。

 けれど人の目だけが、少し違っていた。

 どの視線も、まるで「見てはいけないもの」を見てしまったように泳いでいる。


 集落の真ん中にある池水鏡みずかがみの池。

 澄が最後に目撃された場所であり、かつて“絶対に近づいてはいけない”と大人に言われていた場所。


 私が小学生だったころ、祖母がこう言っていた。


「水ってのはね、人の心を映すの。

 だけど、映したものが、本当に元の人間と同じかはわからないのよ」

 当時はただの迷信だと思っていた。

 けれど今は違う。

 鏡に映った自分を信じられない夜が、最近、何度もあった。


 部屋で髪を梳いているとき。風呂上がりに洗面台の鏡を覗いたとき。

 ふとした瞬間、自分の目線と違う場所を見ているような気配がするのだ。

 気のせいか、あるいは疲れているだけそう言い聞かせていた。


 でも、澄の失踪を聞いた瞬間に、私の中でその気のせいは壊れた。


 あの池には、何かがいる。

 そして、それは人の顔を“真似る”ことができる。


 車を降りたとき、蝉の声が耳に突き刺さるほど響いていた。

 舗装されていない道の土の感触も、子どもの頃の記憶と寸分違わない。

 ただひとつ違っていたのは、池から吹いてくる風が、まるで人肌のように生暖かかったことだ。


 水面を覗く勇気は、まだなかった。

 けれど視線の端で、確かに“何か”がこちらを見ていた。


 それは私に似ていて、私ではない顔だった。

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