旅立ち
突然の手紙で宣言してきた通り、ルドガーは4年ぶりにフレイザー公爵邸を訪れた。
夕刻を過ぎ、外はすでに暗い。
「ごきげんよう、旦那さま」
応接室で顔を合わせ、挨拶をした。
ナタリーはお茶を淹れて部屋の外へ出て行った。
二人きりになり、ルドガーはけげんな顔で私を見た。
短めの動きやすいスカートにブーツ、襟元までとまったボタン。
長袖の上着と、革手袋。
ルドガーの軽装とは対照的な、旅の出で立ちだ。
「その恰好はなんだ」
「これから出発するところですので」
「どこへ行くというんだ。閨の支度をしろと言ったはずだぞ。子づくりをする」
「お断りします」
私はきっぱりそう言うと、ことさらに微笑んでみせた。
「お手紙を拝見しましたが、生まれた子どもをルドガーさまの手元で育てるというのは、ルドガーさまがネリー嬢と暮らしておられるお宅で、お二人がお育てになるということですよね?
でしたら、ネリー嬢とお育てになるお子さまですもの、ネリー嬢に産んでもらってくださいませ。
私は、自分のお腹を痛めて産んだ子どもを手放して、赤の他人に渡すつもりはございません。
ネリー嬢は子どもが産めないわけではないのでしょう?
公爵家の侍医からも、健康なお身体だと聞いておりますわ。
ルドガーさまが避妊薬の服用を中止なされば、すぐにお子さまがおできになるはずです」
ルドガーが男性用避妊薬を常用していることは、侍医から聞いていた。
効果の高い薬だが、長期間使い続けると脾臓に負担がかかるらしい。
ルドガーは私と結婚する以前からその薬を服用しているので、妻である私からそろそろ服用を中止するよう進言してほしいと頼まれたのだった。
ルドガー本人は聞く耳を持たないという。
一応侍医の願いをいれて手紙をしたためはしたが、ルドガーが読んでいるかどうかわからない。
だがそもそも副作用については処方する時点で本人に告知してあるようだから、あとは夫の自己責任だろう。
「俺がネリーを抱くのは子どもを産ませるためではなく、愛の行為だ。
だから避妊薬を使っている。子どもを産むのはお前の役目だ」
傲然と言い放つルドガーは、自分とネリー嬢との性の営みは神聖なものだとでも言いたげだ。
妻に迎え子どもを産ませた私へは、うしろめたさなどまったく感じていないらしい。
とはいえ良い機会なので、私は以前から感じていた疑問を夫に投げかけてみた。
「ルドガーさま。避妊はネリー嬢のご希望なのですか?
真実の愛のお相手であるなら、ネリー嬢は愛するあなたの子どもを産みたいと望んでいらっしゃるのではありませんか? 」
ルドガーは肩をそびやかして答えた。
「ネリーは、子どもを産みたいとは思っていない。
俺も無理強いするつもりはない。
ネリーが産む子は嫡子ではなく庶子になり、お前の産んだ子と一生差をつけられて哀れだからな。
お前がもう一人、嫡子を産めばいいだけのことだ」
産めばいいだけとは、簡単に言うものだ。
セドリックを産むとき私は死にかけたというのに。
結局のところ、ルドガーにとってはネリー嬢だけが大切で、形ばかりの妻のことなどどうでもいいのだ。
あらためてそれを痛感し、私は夫との対話をあきらめた。
愛情で結ばれた間柄ではない。
それでも夫婦として、本来ならば、家庭内に問題があれば話し合ってお互いに歩み寄り、子どもや家族のためにより良い道を模索していくべきなのだろう。
けれど、ルドガーにはどうにも話が通じない。
魔力もない私の話など、神に近い英雄は聞く気も起こらないのだろうか。
でなければ、愛するネリー嬢の言葉しか、ルドガーの耳には届かないのだろう。
彼は彼の道を行けばいい。
私は私で、セドリックと自分の道を歩いていこう。
私は顔を上げた。
吹っ切れた気持ちでルドガーを見た。
「ネリー嬢の産んだ子どもが庶子になるのがご不満だというのなら、私がその子と養子縁組して嫡母となりましょう。
そうすればネリー嬢の産んだお子さまも、フレイザー公爵家の嫡子として認められることになりますわ。
嫡母と言ってももちろん名目上のことですから、お子さまはルドガーさまがネリー嬢とお育てください。
私はセドリックを連れて領地へ移りますので、ルドガーさまはネリー嬢をこの公爵邸に迎えて、ご一緒に暮らしていかれるとよろしいかと存じます」
「なにを勝手な…っ」
驚愕と苛立ちをにじませて、ルドガーは声を荒げる。
突然の通告だから無理もないが、私ももう引くつもりはないのだった。
セドリックは昨日のうちに祖父母とともに王都を出た。
父親に別れの挨拶をさせるべきかとも思ったが、義両親も挨拶などはいらないと言うし、ルドガーの反応が予測できなかったのでやめた。
ルドガーには私が一人で対峙すると決めたのだ。
今は、何かあったときのために、応接室の前でナタリーと数名の公爵家の騎士が控えている。
夢で見た騎士団入団試験の日、ルドガーが息子にした仕打ちが私の脳裏にこびりついていた。
幼いセドリックにあんな横暴な父親を近づけたくなかった。
「フレイザー公爵家の領地運営は、今後も引き続き私が行うつもりです。
セドリックが12歳になって騎士団に入団する際には、あらためてご挨拶にうかがいます。
それまでどうぞ、お健やかに。ごきげんよう」
淡々と事務的な連絡をした後、戸口に立ってゆるやかに礼をし、私は応接室を出て行こうとした。
だが、ルドガーはつかつかと大股に歩み寄ってきた。
バンッと大きな音を立てて扉をおさえ、私の退室を阻む。
腕を取られ、驚いて振り向くと、すぐ間近に夫の険しい顔があった。
「お前の思い通りになると思うなよ」
赤い両眼が鋭く私を見据えている。
「小賢しい策を弄して俺を手玉に取ったつもりか。
お前は俺の子どもを産むのが役目だろう。
公爵夫人として何不自由ない暮らしを送っているくせに、役目を果たさないなら、この家に置いてやる義理などないんだぞ。
離縁されたいのか」
「痛…っ」
腕を強くつかみ上げられ、前世の仕打ちを思い出す。
私がうめくと、ルドガーは舌打ちして手を離した。
解放された腕をさすりながら、私は夫に言うべき言葉を、今こそはっきりと口に出した。
「離縁するとおっしゃるのでしたら、受け入れます」
「なに?」
射殺すような視線を、私は正面切って受け止めた。
しばらく間をおいて、ルドガーが口を開く。
「離縁して、それからどうする。慰謝料でもよこせというのか」
「慰謝料などいりません」
「だったらどうやって生きていくつもりだ?
再婚するのか? もしや他に男がいるのか」
見当違いの非難を受けて私は「まさか」と一蹴した。
「私はセドリックから離れません。
せめてあの子が騎士団に入団するまではそばにいてやりたい。
旦那さま、離縁されるのなら、私をあの子の家庭教師として雇ってください」
「なんだと?」
思いがけない提案だったのだろう、ルドガーは目を見開いた。
「私はフレイザー家に嫁いでから、必死で領地運営のための勉強をしてきました。そしてこの5年間、まがりなりにも公爵領の運営をして経験を積んできました。
公爵子息の家庭教師としての資格は十分にあると思いますわ。
それに私はセドリックの実母です。決してあの子を裏切ったり、傷つけたりするようなことはいたしません。
その点、旦那さまもご安心なのではありませんか」
「……」
黙り込んだルドガーに、私は続けて言った。
「家庭教師としてでもセドリックのそばにいられるのなら、私は他に何もいりません。
離縁の慰謝料などもちろんいりませんし、公爵夫人としての品位保持費で購入したドレスや宝石などは、すべてお返しいたします。
もしよろしければ、私が嫁いだ時に持ってきた持参金や嫁入り道具なども全部差し上げますわ。
ですからどうか私を、あの子の家庭教師にしてください」
「お前は…」
困惑した表情でルドガーがつぶやいた。
「ネリーの産んだ子の嫡母になると言ったのではないのか。俺と離縁したいのか?」
「私はセドリックのそばにいられればそれでいいのです。私と離縁するかどうかは旦那さまがお決めになることですわ」
「俺がお前を離縁して、家庭教師にもしなかったらどうする?」
「私をあの子の家庭教師にしてくださるよう、お義父さまにお願いします。
でなければ実家から、国王陛下に嘆願してもらいます。
どんな手段を講じても、私はあの子のそばにいたいのです。ただ、旦那さまからお許しがいただければ、それがいちばん平和で無難な方法ですから」
「脅迫するつもりか」
「先に離縁を口にして、私を脅迫したのは旦那さまです」
「…そんなつもりはなかった」
私から目をそらし、視線を下に向けるルドガーの表情からは、傲慢さが消えていた。
少しだけ憐憫の情が湧いた。
「旦那さま。
私は結婚当初から、あなたに離縁されることは覚悟しているのです。
理由はわざわざ説明する必要もございませんわね?」
「…ああ」
「離縁状は領地の方へご送付ください。できれば、家庭教師の雇用契約書も一緒に」
「……」
「離縁なさらないのでしたら、ネリー嬢のお子さまと私の養子縁組は、セドリックが騎士団に入団してからでよろしいですわね? 廃嫡されても自分の力で生きていけるように」
「廃嫡だと? 誰がそんなことを言った」
怒ったようなルドガーの口調に笑ってしまう。
「誰に言われなくても私が一番わかっていますわ。真実の愛のお相手が産んだお子さまの方が、好きでもない女の産んだ子どもよりかわいいと思うのは当然ですもの。
廃嫡されようと、あの子が生きていてくれればそれでいいのです。
セドリックには、たとえ公爵家の後継者になれなくても、自立して生きていくだけの力を身につけてもらいたいと思っています。
私は、ふがいない母親であの子には苦労をかけますけれど、あの子のためなら何でもできる気がします。
これからもずっと、あの子のために生きていきますわ」
ルドガーはもはや何も言わなかった。
私は静かに彼から距離を取り、ふたたび淑女の礼をした。
「それではこれにて失礼いたします。ごきげんよう、旦那さま」
ドアを開けて退室する私を、今度はルドガーも止めなかった。
ロータリーから、ナタリーを伴って公爵家の馬車に乗り、領地のある北方へ向けて出発した。
窓から外を見ると、5年間住み慣れた王都の公爵邸が、だんだん遠くなっていった。
涙がこぼれそうになり、あわてて上を向く。するとそこには、満天の星がきらめいていた。