境界で見た夢
月満ちて陣痛が始まった。
大変な難産で、私は三日間、生死の境をさまよった。
その間、時間の感覚をなくし、もうろうとする意識の中で、私はずっとふしぎな夢を見ていた。
子どもはすでに生まれている。
ルドガーが子どもを見にやってきた。
私の寝台の横のベビーベッドをちらりと見て、「男か。魔力はあるようだな」と言った。
黒髪に赤い瞳で、父親そっくりの顔立ちをした赤ん坊。
すやすやと眠っている。
「これで公爵家の跡継ぎの心配はなくなったな。
しっかり育てろ。わかったな」
子を産んだ妻へのねぎらいの言葉もなく、子どもに名前さえつけようとしない夫に、言い知れぬ失望感が広がっていく。
そんな私を振り向きもせず、ルドガーは、言いたいことだけ言って部屋を出ていった。
義父により息子はセドリックと名づけられた。
神話の時代を終わらせた、フレイザー家の始祖の名だ。
名前が決まったことを、ルドガーが暮らす平民街の家へ手紙で報告したが、今まで同様何の返事もなかったし、その後セドリックが12歳になって騎士団の入団資格を得るまで、彼が妻子のもとへ来ることもなかった。
夢は時間軸を自在に前後して続いていく。
夢の中のセドリックは身体が弱いようだ。
しょっちゅう熱を出して寝込んでいる。
なのに、幼いセドリックのそばには誰もいない。
父親は愛人の家から帰ってこないし、母親の私は、公爵家の領地運営や邸宅の管理で手いっぱいで、なにかと周囲に当たり、わめき散らしている。
(ナタリーはどうしたのかしら?)
私の頭に湧き出た疑問にこたえるように、ナタリーのいる光景が見えてきた。
忠義者のナタリーは、私に苦言を呈している。
「エリナさまは、セドリック坊ちゃまに厳しすぎます。まだお小さいのに…」
「セドリックはフレイザー公爵家の跡取りなのよ。
甘やかしてはあの子のためにならないわ」
ナタリーの忠言を突っぱねる私の表情は、目がつり上がりどこか病的だ。
「優秀な子に育てるために必要な教育なのよ。
早すぎるということはない。
ルドガーさまは子どもの頃から、学問も武術も人一倍優秀だったのだから、あの子もそうなるよう育てるのが私のつとめよ…そうならなければ私もあの子も、この家にいる価値があると認めてもらえない…」
がり、と爪を噛んで私はつぶやく。ナタリーは痛ましげな顔で私を見ている。
「エリナさま、セドリック坊ちゃまには、良いところがたくさんあるのですよ。
誰が認めなくても、お母さまが認めてくださればきっとうれしくお思いになります。
坊ちゃまをもっとよく見てあげてください。
お小さい頃のエリナさまによく似た、優しいお子さまです。
お母さまの愛情を求めていらっしゃるのですよ」
ナタリーの真摯な忠告に、しかし私はかんしゃくを起こした。
「私が母親失格だとでもいうの!?
私には、息子を立派に育てる責任がある。
子どものいないナタリーにはわからないのよ!」
長い年月を私とともにしてきたナタリーは、その日のうちに私の実家リズリー家へ送り返された。
(お義父さまとお義母さまはどうしているのだろう)
脳裏をかすめた疑問とともにその映像も見えてきた。
義両親は王都の社交界において、貧民上がりの娼婦を唯一の愛の相手とした息子の醜聞のせいで、非難されたり揶揄されたりしてずっと居たたまれない思いをしてきた。
なんとか息子を説得して、貴族令嬢の私を正妻に迎え跡継ぎをもうけさせたが、精神的に不安定な嫁と孫まで抱え込む心のゆとりは老夫婦にはなかった。
義母はストレスから体調を崩し、義父は妻の看病につきっきりとなった。
限界を悟った義父母は、義母の病を機に王都を離れ、領地のカントリーハウスで隠居生活を送っていた。
セドリックのことはかわいがってくれていたが、王都から遠く離れた公爵領からでは、孫息子の力になれることはほとんどなかった。
王都のフレイザー公爵邸では、私とセドリックの母子だけが、多くの使用人に囲まれて生活していた。
しかし、王都の社交界では私の居場所はなかった。
魔力がないことだけでも軽んじられるのに、嫁ぎ先で夫に見向きもされないで、子どもを産む道具とまで明言されている私は、ことあるごとに嫌がらせをされ、いじめられた。
貴族間のいじめは、先代公爵夫人の義母でさえ身体を壊したほど苛烈で陰湿だ。
義父母は領地に引きこもっていて、私の力にはなれない。
実家の父や兄は私をかばってくれるが、地方の公務が多くて王都の社交にはほとんど関わらない。
味方が誰もいない中、激しいいじめは続き、私は社交を忌避しはじめた。
その分、私は息子の教育に力を入れるようになった。
セドリックに最高の教育をほどこすために、私は報酬に糸目をつけず、王都でも指折りの教師陣をそろえた。
だが、朝早くから夜遅くまで勉強づけのセドリックは、もともと弱い身体がますます虚弱になっていった。
最高の剣士になるどころか、剣を振ることすらおぼつかないほど体力がなく、すぐに高熱を出して寝込んでしまう。
国民の英雄であり、王国の騎士団長である父とは似ても似つかない。
私はそんな息子に苛立ってばかりいたが、いくら「しっかりしなさい」と叱咤したからといって、生まれ持ったセドリックの虚弱体質が変わるわけでもなく、むしろ悪化していくようだった。
実家とは疎遠になっていた。
大好きな父や兄とずっと親しく付き合っていくために公爵家へ輿入れしたのに、私はいつの間にか、彼らの忠告がうっとうしくなっていたのだ。
私や息子のことを心から気にかけてくれている二人の言葉に耳が痛くて、私は父や兄を遠ざけた。
そうやって閉ざされた公爵邸の中で、母が息子を自分の理想にあてはめて矯正しようとする毎日が繰り返され、私の心は次第に陰鬱になっていった。
夢の中で、セドリックは騎士団の正式な入団年齢である12歳になった。
だが騎士団の入団試験当日、彼はまた熱を出した。試験は年に何度かあるので、受験は次回に持ち越すことになった。
私がセドリックの枕元で看病していると、部屋の外が急に何やら騒がしくなった。
何事かと思っていると、荒々しい足音が近づいてきて部屋の扉が音を立てて開かれ、ルドガーが現れた。
セドリックが生まれて以来、この邸へ一度も顔を見せなかった夫の突然の来訪に、戸惑いを通り越して恐怖を覚える。
すくんでいる私に目もくれず、ルドガーはセドリックの寝ているベッドへ大股で歩み寄ると、いきなり掛け布団をはぎ取り、怒鳴りつけた。
「何をしている! 今日は騎士団の入団試験だろう! 騎士団長の息子が来ないとは何事だ!」
激昂したルドガーは、ベッドからセドリックを引きずり出し、戸口へ引っ立てていく。
「や、やめてください! この子は熱を出して…」
「うるさい!」
引き止めようとすがりついた私を、ルドガーは振り払う。
強い力で、私は床にたたきつけられた。
「貴様、母親のくせに今まで何をしていた!
こいつのこのひ弱なざまはなんだ!
たった一人の子どもすらまともに育て上げられないのか、役立たずが!」
私は這いつくばったまま、ぼうぜんと夫の顔を見上げた。
すると、ルドガーに襟首をつかまれ引っ立てられていたセドリックが猛然と暴れだし、父の手を逃れて私のところへ駆け寄ってきた。
「母上、大丈夫ですか!?」
のぞき込んでくる表情に、私を心配している気持ちがありありと伝わってくる。
よく似た容貌をしていても、この子はあの父親とは違う。
「母上?」
もう私と背丈も変わらないほど大きくなったセドリックの、しっかりとした両腕にいたわるように抱き起こされて、ようやく私は自分の愚かさに気がついた。
英雄ルドガーの息子として。
次代の王国騎士団長として。
フレイザー公爵家の後継者として。
優秀な子どもを育て上げることが私のつとめ。
公爵夫人としての責任なのだ。
私はずっとそう思い込んでいた。
その思いに凝り固まった私の頭は、文武両道の完璧な公爵令息であるセドリックの姿しか受けつけられなくなっていたのだ。
そしてそんな私の周囲には、私のいびつな理想を矯正してくれる人も、いつしかいなくなっていた。
でも、誰のためのつとめ?
誰に対しての責任なの?
12年間私たちを放っておいて、今になって突然わが家へ怒鳴り込んできたこの人に、なぜ私は私の息子を引き渡さなければならないの?
そんなこと……許されていいはずがない。
私はセドリックの母親だ。
母親の本当のつとめは、誰でもなくこの子自身のために、いちばん良い道を探してあげること。
文武両道の優秀な子どもではないけれど、この子にはこうして、母親を思いやる優しい心がある。
身体が弱かろうが、騎士団に入団できなかろうが、それがいったいなんだと言うの?
夫や世間が認めてくれなくても、この子にはちゃんと生きる価値がある。
この子が……愛おしい。
私は初めて、心のまんなかに愛の灯がともるのを自覚した。
「何をしている、立て!」
ルドガーがセドリックを私から引きはがそうとする。
抵抗したセドリックは、父親に頬を張り飛ばされ、壁にたたきつけられた。
背中を強打したのか、呼吸をつまらせるセドリック。
それから体を折り曲げて、激しくせき込んだ。
私は急いでその背をさすってやった。
もともと高熱を出して寝込んでいたのに、さらに熱が上がったらしく、真っ赤な顔でぐったりしている。
そんな様子を見ても、父であるルドガーは容赦がなかった。
「情けないやつめ!
母親に甘やかされて、ろくに戦えもしない腰抜けに育ったな。
骨と皮ばかりで、筋肉がちっともついていない、その体つきは何だ!
貴様の母親は、息子にまともな食事も与えていないのか!」
「母上を悪く言うな!」
セドリックは私の頭越しに父親とにらみ合った。
「貴様、父親に対してその態度は何だ!」
「何が父親だ!
今まで僕にも母上にも一切かかわってこなかったくせに!」
セドリックのその一言に、父であるルドガーは目をむいた。
「この、不心得者がっ!」
鉄拳がセドリックに向かい、私はとっさに息子をかばった。
騎士団長の拳は止まった。
その代わり、私はものすごい力で引きずられ、息子から引きはがされた。
「母上っ!」
セドリックは私の方へ来ようとしたが、ルドガーはそれを引き戻し、息子を殴りつけた。
殴られた勢いでキャビネットまで吹っ飛ばされたセドリックの手に、そこに飾られていた宝剣が触れた。
とっさにその宝剣を手にしたセドリックは、敵意をあらわにして父に刃を向けた。
抜刀防止の革紐は、少年の手でもちぎれるくらいに劣化して弱くなっていた。
セドリックが低い声を出す。
「母上に手を出すな」
「ほう? 父に剣を向けるか」
ルドガーの全身から不穏な気配がたちのぼった。
王国の騎士団長を務め、比類なき剣士と言われるルドガーだ。
高熱を出した12歳の少年など、相手になるはずもない。
それなのにセドリックは引かなかった。
ひるむことなく父をにらみつけるセドリックには、少年らしからぬ高潔さがあった。
「武器を手にしているからには、それ相応の覚悟はあるんだろうな」
ゆらり、とルドガーが一歩足を踏み出した。
父子の情などまるでうかがえない獰猛な気迫に圧され、セドリックは小さくうめく。
「どうせろくな男に育ちそうもない。
出来そこないの息子など、いない方がましだ」
セドリックを見下ろして冷酷にそう言い放ち、ルドガーは腰の剣をすらりと抜いた。
(セドリックが、殺される)
雷に打たれたように閃いたその思いにはじかれて、私は二人の間に身を投げ出した。
「やめて!」
ぎゅっと目をつぶり、身体を固くする。
ルドガーの剣が振り下ろされたのだろうか、旋風が巻き起こり、身体がねじ切られるような感覚に襲われて悲鳴を上げた…ところで意識が途切れた。
ぐにゃりとゆがんだ空間に挟まれて、その後のことはわからない。
頭の中が真っ白で…ただ、激痛で身体中が灼けそうだ。
(私はどうなったのだろう…死んだのかしら…?)
身体の感覚はない。たゆたうような意識の中で、うっすらと浮かぶ景色。
薄暗い場所…せまい洞窟のような…。
誰かがその隅にうずくまっている。うしろ姿で、顔は見えない。
男か女かもわからないけれど、白髪の、老人のように見えた。
(あなたは誰…?)
たずねて、手を差し伸べようとした瞬間、すべてが暗転した。