5日目
結局、昨日は自宅に戻ることなく就寝した。
他人のベッドを使うのは少し躊躇したが、沈み込むような高級マットレスの寝心地で安眠できた。
そして翌朝。
まず初めに気付いたのは片腕の異変だった。
腫れは治まったものの、腕全体が真っ黒に染まっている。
皮膚はぶにぶにとした質感でゴムのようである。
所々に出来た小さな亀裂は、奥に目のような物体が見え隠れしていた。
ひとしきり観察した私は、腕を服の袖で隠して手袋をはめる。
腕の状態は間違いなく悪化した。
しかし、今のところ痛みはなく、むしろ力が漲っている気さえする。
特に不自由なく動かせるようだし、見た目以外は問題なかった。
こういう場合、本当は切り落とすべきなのだろう。
だけど今回は腕一本が範囲なので、そういった荒療治はできない。
仮にちゃんとした設備があったとしても実行する勇気はない。
そんなわけで腕の異変は放置することにした。
症状が進行して全身が黒くなるのなら仕方ない。
運が尽きたのだと思えばいい。
とりあえず意識があるうちはこの生活を満喫するつもりだった。
気持ちを切り替えた私は、荷物を持って自宅へと戻る。
昨日は扉の前にレインコートの怪異がいたが、今は誰もいなかった。
諦めた立ち去ったらしい。
部屋に戻ったらすぐにシャワーを浴びる。
黒くなった腕を洗ってみるも、期待とは裏腹に何も変わらない。
表面だけ汚れているなんて都合の良い展開はなかった。
お湯に反応したのか、複数の亀裂が開いて目玉がこっちを見ていた。
私がシャンプーをかけるとすぐに亀裂は閉じる。
風呂場を出た後は、持ち帰ってきた食糧で料理を作った。
カレーは大量に余ったので冷凍しておく。
これで当分は食事に困らない。
カレーは二日目以降が美味しいと言うが、果たしてあれは本当なのか。
何度か試したものの、違いが分からず結論は出ていなかった。
できたての料理を食べていると、唐突にインターホンが鳴った。
ほぼ同時に玄関の扉をノックする音と「開けてくれー」という声が聞こえてくる。
その声は木村さんのものだった。
私はインターホンのカメラ映像を確認する。
玄関前を映す画面は真っ暗で何も見えなかった。
こんな時に故障したのか。
ノックと声が止まる気配はない。
なぜ木村さんがいるのか。
ベランダで怪異に襲われて死んだと思っていた。
いや、そもそも玄関前にいるのは本当に木村さんなのか。
インターホンが真っ暗なのは、密着されて何も見えないだけでは。
判断に迷っていると、玄関から水音がした。
扉のポストが揺れて肉塊が室内に溢れてくる。
その肉塊は床に積み上がると、徐々に人型を形成していった。
出来上がったのは不機嫌そうな表情の木村さんだった。
皮膚がめくれて筋繊維が露出したり、片目が異様に飛び出してたり、破れた腹から臓物がはみ出ていたり、割れた頭部に脳が存在しないが、間違いなく木村さんである。
木村さんは「居留守すんなよ」と文句を言うと、いきなり跳びかかってきた。
私は反応できずに押し倒された。
後頭部を床に打ちつつ、たまたま持っていたスタンガンを押し付ける。
木村さんは「おうっ」と言って怯むが、平然と殴り返してきた。
木村さんは大笑いしながら容赦なく拳を振り下ろしてくる。
このままでは殺されてしまう。
私は咄嗟に黒い手で木村さんの攻撃を遮る。
黒い手に触れた木村さんが硬直した。
接触面がドロドロに溶けたと思えば、そのまま腕に吸い込まれていく。
木村さんは仰天して逃れようとするが、抵抗できずどんどん吸い込まれて小さくなっていった。
そうして最終的には何も残さずに消えてしまった。
私の腕が、怪異化した木村さんを捕食した。
その事実を認識したと同時に、私は自らの意識を手放した。