4日目
昨晩は黒いゼリーの怪異を撃退した後、気が付いたらソファで眠っていた。
思ったより精神を擦り減らしたらしい。
おかげで身体がバキバキに凝り固まっている。
ゼリーが付いた右腕は、紫色に腫れていた。
触れても感覚が無い。
原因が原因なだけに心配だ。
ここからどうなってしまうのか。
まあ、怪異と遭遇してこれだけの傷で済んだのは幸運かもしれない。
他の住民は無惨に殺されているのだから。
右腕の腫れについては、とりあえず消毒して包帯を巻いておく。
ついでに鎮痛剤と解熱剤を飲んだ。
怪異由来の症状にどこまで有効か不明だが、やって損はないと思いたい。
本当は抗生物質も使いたかったが、生憎と家にはなかった。
この腫れが悪化しないことを祈ろう。
身体をほぐしたかったので私は風呂に入った。
入浴中に黒いゼリーが再来する光景を想像したが、そんなことにはならなかった。
目玉を刺したり、パイプ洗浄剤で嫌がらせしたのが良かったのか。
風呂はなるべく毎日入りたいので、もう出てこないでほしい。
風呂でさっぱりした私は朝食のために冷蔵庫を開けた。
そして眉間に皺を寄せる。
食糧が尽きそうだった。
まだ少し余裕はあるものの、節約したとしても数日分だろう。
食べ切る前になんとかしたいところだ。
そんなわけで私はスマホで宅配サービスのアプリを開いた。
ネットで弁当を注文し、バラエティー番組を観ながら待機する。
数十分後、配達員がマンションに着いた段階で急に連絡が途絶えた。
しばらく待ってみても弁当は届かない。
注文する店を変えて何度か試してみるが、結果は同じだった。
敷地に踏み込んだ配達員に何かあったらしい。
単に逃げ出したのか、それとも怪異に殺されたのかは定かではない。
どちらにしても私の弁当が届かないのは間違いなかった。
これは参った。
食糧問題が解決しなければ、いずれ餓死してしまう。
せっかく素晴らしい日々が訪れたのに、そんな終わり方は避けたかった。
一時間ほど悩んだ末、私は槍とスタンガンで武装してリュックサックを背負った。
食糧が無ければ調達するしかない。
敷地外まで移動するのはリスクが高いので、近くの部屋から拝借するつもりだ。
立派な犯罪行為だが、状況的にやむを得ない。
住人と鉢合わせたら食糧を分けてもらおうと思う。
私は玄関のバリケードを退けて外に出た。
すぐには動かず、その場で屈んで耳を澄ませる。
廊下には誰もいなかった。
何かが近付いてくるような音もしないし、上から人も降ってこない。
それでも遠くから悲鳴や絶叫が反響してくるので、マンションの異常は継続中のようだ。
では探索を始めよう。
右隣は木村さんの部屋だが、なんとなく汚そうなのでやめておく。
そうなると最初に調べたいのは左隣の部屋だ。
確か四人家族が暮らしていたと思う。
扉を開けようとするも、鍵がかかっていた。
仕方ないので木村さんの家も確認するが施錠されている。
初っ端から失敗続きだ。
でもここで焦ってはいけない。
怪異がいつどこから現れるか分からないのだ。
冷静に、迅速に行動しよう。
私は木村さんの部屋のさらに右隣に向かう。
ドアノブを動かすと、扉はあっけなく開いた。
私は滑り込むように室内へと侵入する。
本当は「お邪魔します」と言いたかったが、怪異に気付かれそうなのでやめておいた。
私は少し申し訳なくなりながらも土足で踏み込む。
ほどほどに整理された部屋には誰もいない。
住民はマンションの外にいるのだろうか。
もし敷地内にいるとしたら生存は絶望的だと思われる。
私はリュックサックを身体に前に持ってくると、腐りやすそうな食べ物からどんどん詰め込んでいく。
今後も近場で食糧調達をするなら、保存の利く物は後回しでいい。
こういう時こそ計画的に立ち回らねばならない。
バナナを齧りながら部屋を調べていると、処方箋の袋を見つけた。
中には数日分の抗生物質が入っている。
私はさっそく飲んでおく。
これで腕の腫れが治まればいいのだが。
数分ほどでリュックサックが容量いっぱいになった。
これで目標は達成だ。
足りなくなったらまた補充しに来ればいい。
そう考えて玄関扉を開けた瞬間、私は足を止める。
私の部屋の前に、黄色いレインコートを着た怪異がいた。
一日目に女性を食べていた奴だ。
ひょろりとした体躯で、じっとポストの隙間を覗き込んでいる。
怪異の巨大な口は、震える声で「たすけて」や「しにたくない」や「いたい」と呟いていた。
無感情なイントネーションから察するに、意味を理解せずに発しているのだろう。
これまで食い殺してきた人間の言葉を模倣しているに違いない。
向こうはまだ私に気付いていなかった。
私は自分の握る槍を一瞥し、戦うべきか考える。
結論は三秒で出た。
私は物色したばかりの部屋に戻ると、即座に施錠した。
そしてリビングまで移動し、ベランダのシャッターを閉じる。
率先して怪異と戦うなんて無理だ。
勝てる気がしない。
あの怪異がいつ立ち去るか分からないので、今日はこの部屋に泊まらせてもらおうと思う。
荷物を下ろした私は夕食を作り始める。
メイン料理は具材たっぷりの辛口カレーだ。
肉は牛、豚、鶏を一口サイズにして、軽く炒めてから入れた。
野菜は無難なものを大雑把に切って放り込む。
知らない家なので調理器具の場所が分からず苦戦したが、なんとか完成に漕ぎ付けた。
お米もレンチンではなく炊いたので完璧だ。
カレーライスを皿に盛った私は、ダイニングの異変に気付く。
テーブルと椅子に人型の焦げ跡が出来ていた。
さっきまでは無かったものだ。
焦げ跡はただ静かに蠢いている。
私は立ったままカレーを食べつつ、焦げ跡を観察する。
しばらく経っても攻撃してくる気配がなかったので、焦げ跡のない椅子に座って食事を続けた。
カレーは好みの辛さで、具材の味もよく出ている。
炊飯器が良かったのか、ご飯も普段より美味しい気がした。
結局、焦げ跡に何かされることもなく、夕食は平和に終わった。