2日目
翌朝は七時に目覚めた。
薬を使わずに十時間も眠れたのは本当に久々のことだ。
心身ともに調子が良く、自然と笑顔になる。
この狂った状況に感謝しなければならなかった。
起床した私は、ひとまずネットニュースを確認する。
いくつかのサイトを巡ってみるも、このマンションの異常事態に関する情報は載っていない。
そこには不自然なほどの日常があった。
どうやら異変が発生したのはこのマンションだけらしい。
しかし、何も報道されていないのはどういうことか。
住民が死にまくり、謎の怪物が敷地内を徘徊しているというのに。
ニュースとして取り上げれば、間違いなく話題性があるはずだ。
色々と考えてみたものの、私程度の頭脳では納得できる事情を思い付かなかった。
細かいことは気にしなくていいか。
どうせ私には関係ない。
仮に救助されたところで暗い日常が戻ってくる。
それなら狂気じみた地獄絵図の方が居心地が良い。
私にできることと言えば、この素晴らしい日々が少しでも続くよう祈るだけである。
そんなわけで朝食だ。
トーストにスクランブルエッグ、オレンジジュースを用意する。
以前はコーヒーを好んで飲んでいたが、一時期の過剰摂取で体調を崩してから控えている。
今でも習慣は変わらず、代わりに果汁100%のジュースを飲むようになった。
トーストを齧りつつ、私はテレビ番組をのんびりと観る。
顔も名前も知らないタレントの地方でロケをしている。
内容は大して面白くないが、こういう時間の使い方は嫌いじゃない。
何かと慌ただしい現在社会では贅沢な過ごし方だろう。
外の騒音はペースを落としながらも断続的に聞こえてくる。
悲鳴や断末魔のたびに誰かが死んでいるのだと思う。
マンション内は相変わらず危険地帯のようだ。
昨日見た謎の存在は、マンションの住民を食い殺していた。
あれの正体は何なのだろう。
地球を侵略しに来た宇宙人か。
はたまた魑魅魍魎の妖怪か。
或いは異世界の魔物か。
あの特徴的なビジュアルを手がかりにすれば、何か分かるかもしれない。
そう思った私はスマホで検索してみる。
ところが期待とは裏腹に何の情報もヒットしなかった。
ただ、検索の過程で"怪異"という表現が出てきた。
なんだかしっくり来たので、暫定的にそう呼ぼうと思う。
アレを表す言葉としては最適だろう。
怪異による被害は、マンションの全域で同時多発的に起きている。
おそらくは複数の怪異が徘徊しているに違いない。
暢気に眠っていたが、この部屋も安全ではないのかもしれない。
朝食の片付けをしていると、ベランダに人の気配を感じた。
カーテン越しに人影が透けて見える。
人影は慌てた様子で「中に入れてくれ!」と叫んでいた。
この声は隣人の木村さんだ。
木村さんは独り暮らしの中年サラリーマンである。
野球中継を観るのが趣味で、壁越しに聞こえてくるほどの声量でよくヤジを飛ばしている。
贔屓のチームが負けた翌日は特に機嫌が悪く、廊下にゴミを放置したり、なぜか私の部屋の扉を蹴ってくる。
ここまでのエピソードから分かる通り、木村さんはとにかく迷惑な人間であった。
木村さんと関わりたくない私は、部屋の端で息を殺す。
こんな状況で彼を招く義理はない。
居留守でやり過ごすのが無難だろう。
しばらく叫んでいた木村さんは、おもむろに何かを振りかぶる。
目を凝らすとそれがレンガブロックだと分かった。
まさか窓ガラスを割って侵入する気か。
さすがにそれは駄目だろう。
迷惑にもほどがある。
私が咄嗟に止めようとした時、外から甲高い笑い声がした。
途端に木村さんが怯え、頭上を見てパニックになる。
次の瞬間、窓ガラスに大量の血がべったりと付着した。
血のせいで木村さんの姿が見えなくなる。
一切声もせず、レンガブロックで窓ガラスを破壊されることもなかった。
私は数分ほど待ってから窓の外を確認しに行く。
ベランダには血痕だけあり、木村さんの姿はなかった。
甲高い笑い声はもう聞こえない。
たぶん怪異だったのだろう。
騒いだ木村さんは攫われたのだ。
私はベランダのシャッターを下ろし、外からの侵入を妨げる。
どこまで効果があるか不明だが、やらないよりマシだと思いたい。
部屋が一気に暗くなったので電気をつける。
嫌いな隣人だった木村さんが消えた。
これまでの迷惑行為を知る私にとっては朗報だった。
怪異が出現してから良いことばかり起きている。
不謹慎だが感謝せずにはいられない。
その後は気になっていた映画を何本か観た後、余韻に浸りながら寝た。