第6話 お父さん!日常は戻れない~
玄関を開けると、センサーライトが点灯する。娘の靴が珍しく整然と靴箱に並んでいるのに気付く。普段は適当に脱ぎ捨てていくのに。
「美玲?」夜の静けさを壊すまいと、小声で呼びかける。
リビングのフロアランプが灯り、その柔らかな光の中で美玲が膝を抱えてソファに丸くなっている。その姿、その横顔に、誠一郎は一瞬、林玉華の面影を見る。思い出の中で、玉華も何か悩みがある時は、こうしてソファに寄り添っていた。
美玲は何かを考え込んでいるようで、父の帰宅にも気付かない。テーブルの上の母の写真に目を向け、ぼんやりとしている。今夜出会った謎の女性は、なぜこれほど母を思い出させるのか。あの懐かしい温かさ、優雅な佇まい、そして優しい眼差し…
「お父さん…」やっと父の存在に気付いた美玲が振り向く。乱れたスーツと緩んだネクタイを見て、言葉を失う。いつもきちんとしている父が、今日はこんなにも取り乱している。
誠一郎の胸が締め付けられる。娘が何を経験し、どれほどの危険な目に遭い、今どれほどの慰めを必要としているか分かっている。しかし父娘の間には、見えない壁があり、最も単純な抱擁さえ難しくなっている。
「ごめんなさい」美玲が突然言う。「心配かけて」
その言葉が誠一郎の躊躇いを打ち砕く。大股でソファに向かい、娘を抱きしめる。突然の抱擁だが、それは自然なものだった。美玲は一瞬固まるが、すぐにリラックスして父の肩に頭を預ける。
「探しに来てくれたんでしょう?」美玲の声が詰まる。「お客様との約束じゃなくて…私を探してたんでしょう…」
誠一郎は腕に力を込め、黙ったまま抱きしめる。スーツには夜風の冷たさが残るが、抱擁は温かい。普段は反抗的な娘が、今は守られるべき少女のように肩を震わせている。
「ごめんなさい、お父さん…」美玲の声が次第に小さくなる。「もっと早く帰るべきだった…」
「もう大丈夫だ」誠一郎は珍しく優しい声で言う。「無事に帰って来てくれて良かった」
父娘は静かに寄り添ったまま、言葉を交わさない。窓から差し込む月明かりが、床に二つの影を重ねて映す。テーブルの上の林玉華の写真が、寄り添う父娘を見守るように微笑んでいるようだ。
「お父さん…」美玲が父の腕から静かに身を離し、乱れた髪を整える。「今日、すごく特別な人に会ったの」
誠一郎の心臓が一拍飛ばすが、表情は平静を保つ。ネクタイを緩め、娘の隣に座る。「特別な人?」
「うん…」美玲が両手で顎を支える。「とても優雅な女性で、私を助けてくれたの。でも…」一瞬止まり、「お母さんを思い出させる人だった」
誠一郎は何気なく袖を整えながら、「へぇ、どんなところが?」
「雰囲気とか、話し方とか…」美玲の目が遠くを見つめる。「あの優しくて強い眼差しが、本当にお母さんみたい」テーブルの写真に目を向ける。「お父さん、もしかして…お母さんが天国から私を守るために送ってくれた人かな?」
誠一郎は軽く咳払いをして、心の動揺を隠す。「美玲、似た人はいるものさ。でも…」優しく言う。「お母さんは唯一無二の人だろう?」
「そうだね…」美玲が俯く。「でも、あの人は本当に優しかった。見知らぬ人なのに、なんだか安心できた」
「無事だったことが何より大事だ」誠一郎が立ち上がる。「そういえば…」腕時計を見る。「こうして話すのも久しぶりだな」
美玲が一瞬驚き、そして微笑む。「そうだね、普段のお父さんはいつも真面目な顔してるもん」
「お腹すいてない?」誠一郎が突然尋ねる。「夜食でも作ろうか?」
「え?」美玲が目を丸くする。「お父さんが料理?今から?」
「何だ?私の料理の腕を疑ってるのか?」誠一郎が袖をまくる。「今まで作ってきただろう?」
美玲は袖をまくる父の姿を見て、可笑しくも愛おしくもなる。いつもスーツ姿できちんとしている父が、こんなにも親しみやすい姿になるなんて。
「もう…」頬を膨らませながらも笑みを浮かべる。「お父さん、ダサい」キッチンに向かいながら、「でも…」立ち止まり、父に背を向けたまま小さな声で、「お父さんが作るなら、何でも食べる」
誠一郎は娘の後ろ姿を見つめ、思わず微笑む。これが美玲なりの愛情表現だと分かっている。母親と同じように、素直になれない態度の下に、最も優しい言葉を隠している。
「じゃあ、お母さんの得意だった玉子焼きにしようか」キッチンに向かいながら言う。
「え?お父さん、それ作れるの?」
「もちろんさ」誠一郎が笑う。「これはお母さんが最初に教えてくれた料理なんだ」
深夜のキッチンに、玉子焼きの香りが漂う。美玲は箸で皿の上の黄金色の卵焼きをつつく。卵の模様に、母がいた頃の朝食を思い出す。父の腕前は確かなもので、母の温もりには及ばないものの、その真心は伝わってくる。
「お父さん…」美玲は口の中の食べ物を飲み込み、言葉を躊躇う。こんな時にお小遣いの話を切り出すのは不適切だと分かっているが、来週の同人誌印刷費の締切が迫っている。
料理台を片付けていた誠一郎が振り向く。「どうした?」
「あの…」美玲がスカートの裾を弄る。「お小遣いをもらえないかな?」
キッチンが静まり返り、水道の滴る音だけが響く。誠一郎は手を拭き、娘の落ち着かない様子を見つめる。
「お父さん」美玲が突然顔を上げる。「どうしていつも忙しいの?お母さんが亡くなってから、まるで…何かから逃げてるみたい」声が震える。「私たちの距離は、お父さんの終わりのない残業の中で、どんどん離れていってる」
誠一郎の動きが止まる。娘の強情な眼差しには、非難と戸惑い、そして深い孤独が宿っている。
「美玲…」軽くため息をつき、スーツの内ポケットから財布を取り出す。長年使用した財布は、革が随分と剥げている。三万円を数えて、娘に差し出す。
「これが私の忙しさの結晶だ」疲れた声で言う。「お金が触れ合いの代わりにならないのは分かっているが…」
美玲はお金を受け取るが、いつものような嬉しさはない。手の中の札束を見つめ、まるで見えない壁を見るかのようだ。このお金で欲しいものは買える、創作費用も払える。でも、失われた父娘の時間は買い戻せない。
「お父さん…」囁くような声で、「知ってる?時々思うの。もっと小さな家に住んで、もっと質素な食事でもいいって…」
誠一郎はそこに立ち、娘の俯いた頭を見つめる。娘の気持ちが分からないわけではない。だが、口に出せない真実、妻の死の謎、追究すべき手掛かり、全てが今の立場を必要としている。
キッチンの時計が刻む音の中、父娘は黙り込む。玉子焼きの香りが薄れていき、言葉にできない苦さだけが残る。美玲はお金をスカートのポケットに入れ、小さく「ありがとう」と言う。
美玲は最後の一切れの玉子焼きを口に運び、その表情は言いようのない複雑さを浮かべていた。それは自分の言動の不一致に対する疑念なのか、それとももっと他の何かなのか、誠一郎にはわからなかった。食器を片付け、洗おうとした時、父に優しく押しのけられる。
「休みなさい」誠一郎が袖をまくる。「明日は学校だろう」
美玲は珍しく反論せず、頷いて「おやすみ」と言って部屋に戻る。娘の後ろ姿を見て、誠一郎は少し安堵する。今夜の会話で、二人の隔たりが少し溶けたように感じる。
キッチンの片付けを終え、誠一郎は一日の疲れを感じる。ネクタイを緩め、スーツには路地裏の埃の匂いが残っている。この服は今日の全ての変化を見届けた:父として、誠子として、守護者として。
軽くため息をつき、浴室へ向かう。熱い湯で、この混沌とした思いを整理できるかもしれない。
夜も更けて、誠一郎は広いダブルベッドに横たわる。濡れた髪はまだ乾ききっていない。ベッドの半分は永遠に空いたまま、心の埋められない空白のように。暗闇の中で携帯の画面が明るく灯る。水野千夏からのメッセージだ。
「藤原部長、本日、全日本半導体から正式なオファーを頂きました。ご推薦いただき、本当にありがとうございます。あの日、助けていただかなければ、私は…」
誠一郎はメッセージを読みながら、あの日の光景を思い出す。第五建設の屋上で、水野千夏が手すりの外に立っていた。背後には新東京の広大な空。彼女の目は絶望的で虚ろ、闇の深淵に落ちそうな迷蝶のように。
「仕事に復帰できて、本当に嬉しいです。以前より職位は下がりますが、ネットでは環境が良いと評判で、期待しています」
メッセージが続く。誠一郎は彼女を救った瞬間を思い出す。その光景は、五年前のあの夜を想起させる。そう、水野を救うため女性に変身できた。でも、あの日病院に駆けつけた時には、林玉華はもう…
「部長、お時間があれば、お会いできませんか?直接お礼を申し上げたいです。それに…私の気持ち、部長なら分かっていただけるかもしれません」
誠一郎は溜息をつき、簡単に「承知しました」と返信する。水野千夏の境遇を知っている:西日本への密航中に失踪した両親、残された巨額の借金、第五建設での昇進直前の突然の解雇。その背後には、何か秘密が隠されているはずだ。自分が調査している事件との関連を感じずにはいられない。
携帯を置き、左手を上げる。窓から差し込む月明かりが、陰陽魚の指輪に映る。銀色の魚の模様が闇の中でほのかに浮かび上がり、古い秘密を語りかけるよう。玉華が臨終の際、この指輪を薬指にはめてくれた時の情景が蘇る。
「これは林家の家宝よ」彼女の声は小さかったが、確かだった。「あなたを守り…真実を見つける手助けをしてくれるわ」
当時は終末の妄言だと思っていた。この不思議な変身が始まるまでは。女性になる感覚は奇妙だ。単なる肉体の変化ではなく、新しい視点を得て、今まで気付かなかった細部が見えるようになる。
今夜、誠子として美玲を救った時の母性本能の強さ。玉華がなぜ娘の感情の変化を敏感に察知できたのか、やっと理解できた。そして美玲が誠子を見つめる目、母への思慕と渇望、その眼差しが胸を刺す。
誠一郎は体を翻し、ベッドサイドの家族写真を見つめる。写真の中の玉華は眩しく笑い、幼い美玲を抱きしめている。その後ろに立つ自分の表情は、珍しく柔らかだ。あの頃の彼らは、なんて幸せな家族だったのだろう。
しかし今、全てが複雑になっている。会社では暗流が渦巻き、アメリカ資本による買収の噂が飛び交う。分断された日本の政治情勢は一層深刻化し、現在のソ連も大きすぎて倒れない衰退ぶりを見せ始めている。入札部で発見した新東京の地質環境の異常データは、五年前に玉華が調査していた中国から新日本への骨董品密輸事件と、何か微妙な繋がりがあるようだ。
月明かりに浮かぶ指輪が、彼の思考に呼応するように光を放つ。神宮寺の言葉が蘇る:「陰陽の力には陰陽の調和が必要です」。この指輪の力は、単に女性としての経験を与えるだけでなく、物事の別の側面を見せようとしているのかもしれない。
雲の流れとともに変化する天井の影。まるで今直面している状況のように。藤原誠一郎として、会社での地位を固め、真実を追究し続けなければならない。藤原誠子として、娘との距離を縮め、これまでの疎遠を埋めることができる。しかし、この二つの身分をどう調和させるべきか?水面下から浮かび上がろうとしている真実は、どんな衝撃をもたらすのか?
携帯が再び震える。美玲からのメッセージだ:「お父さん、今夜の玉子焼き、ありがとう。おやすみなさい」
シンプルな一言が、誠一郎の目を熱くする。どれだけの未知と危険が待ち受けていようと、前に進み続けなければならない。玉華の死の真相を突き止めるため、美玲を守るため、そして妻の果たせなかった使命を完遂するために。
誠一郎は指輪を外し、ベッドサイドに置く。月明かりが指輪の影を映し出し、銀色の陰陽魚が静かに回転する。まるで運命の歯車が動き出したことを予感させるように。明日も、父として、部長として、調査者としての役割を演じ続ける。そして指輪が再び呼びかける時、誠子として現れるだろう。
これが彼の宿命であり、選択なのだ。