第3話 お父さん!日常に戻る?
カーテンの隙間から差し込む陽光に、藤原誠一郎は目を見開いた。反射的に自分の手を見る。その荒れた大きな手に安堵のため息をつく。
「戻った…」
だが枕元の目覚まし時計に息を呑む——午前七時四十分。何年もこんな時間まで寝たことはなかった。
「しまった!」
慌てて起き上がろうとした時、左手の指輪に触れてしまう。その感触に体が強張る。指輪が再び回り出すのではと恐れ、右手の人差し指と親指で慎重に固定する。
毎朝の太極拳は諦めざるを得ず、美玲の弁当作りも断念。急いでスーツに着替えながら、ネクタイを締めつつ娘の部屋へ向かう。
「美玲、父さん今日は…」
ノックしても返事はない。そっとドアを開けると、娘は熟睡していた。ベッドサイドには最近夢中になっている漫画が置かれ、表紙には女子高生二人のシルエットが描かれている。
財布から二千円を取り出し、ダイニングテーブルに置く。少し考えてから、メモを添える:
『急に用事があって、朝ご飯は作れなかった。これを使って朝ご飯はちゃんと食べて。
——父さん』
書き終えて娘の部屋に戻り、眠る娘を見つめながら、罪悪感が込み上げる。玉華が去ってから、父親としての役割を必死に演じてきた。こんな日常を崩したことは一度もなかった。
朝日が部屋を明るく照らし、娘の寝顔が柔らかく浮かび上がる。この光景は普段なら心を温めるはずだったが、今朝は複雑な思いを抱かせる。昨夜の出来事は夢だったのか、それとも…
「ごめんな…」
小声で謝り、そっと部屋を出る。玄関で靴を履く時も、指輪が回りそうな動作を慎重に避ける。一見普通の陰陽魚の指輪が、今や時限爆弾のように感じられた。
「会社で変身だけは…」
心の中で祈りながら、足早にエレベーターへ向かう。普段なら必ず会うはずの近所の人々に今朝は誰とも出会わず、少し安堵する。しかし同時に、普段は感じない妙な孤独感が忍び寄る。
エレベーターを待つ間、昨夜の出来事が意識に浮かぶ。あの見知らぬようで懐かしい感覚、玉華にそっくりなあの体…すべてが夢のようで、しかし心揺さぶるほど鮮明だった。
到着を告げるチャイムが現実に引き戻す。素早くエレベーターに乗り込み、手すりには触れないよう注意する。今の彼は、指輪が回りそうな行動すべてに警戒心を抱いていた。
マンションを出ると、朝の冷たい風が頬を撫でる。車の前で立ち止まり、躊躇う。ハンドル操作で指輪が回る可能性がある。だがこの時間の電車はもっと危険だ。
「慎重にいくしかない…」
右手で慎重にドアを開け、左手は不自然な姿勢のまま。運転席に座ってからも、シートベルトを締めるのに普段の三倍の時間をかける。左手の指輪に触れないよう細心の注意を払う。
エンジンをかけながら、ルームミラーに目をやる。映る自分は見慣れた中年男性のまま。しかし眉間には、かつてない疲れと戸惑いが刻まれている。昨夜の優雅な少女の姿が、まだ目の前でちらついているようだ。
「あれは本当に私だったのか…」
独り言を呟き、自分の声に驚く。低い男性の声に少し安心しながらも、現実の不条理さを痛感する。
朝のラッシュで道路は既に混み始めていた。減速を余儀なくされ、考える時間が増える。玉華が残したこの指輪には、どんな秘密が隠されているのか。妻によく似たあの少女の姿は、何を意味するのか。
信号待ちで、バイクが突然車線に割り込んでくる。反射的にハンドルを切ろうとしたが、最後の瞬間に右手だけで調整。危険な動作に冷や汗が流れる。
「指輪を固定する方法を考えないと…」
時計を見る。八時十五分。この異常な朝にも、正確な計算習慣は健在だった。九時の部署会議まであと四十五分、何とか間に合いそうだ。
だが、この状況がいつまで続くのか。会社で突然変身したら…考えるのも恐ろしい。
会社の地下駐車場は普段より空いていた。B2階の角に専用スペースがある。バックで駐車する際、意識して右手だけでハンドルを操作し、異常なほどゆっくりとした駐車となった。
「申し訳ありません…」
後ろで待つ車に頭を下げる。財務部の山田主任だ。普段なら決してこんなもたつきはしない。部長として几帳面さと効率の良さで知られる彼が、今日は明らかに様子が違っていた。
駐車を終えても、すぐには車を降りない。ルームミラーに映る自分は少し疲れた表情で、ネクタイも普段ほど整っていない。直そうとして、すぐに動きを止める。
「触らない方がいい…」
エレベーターホールで、隅に立って他人との接触を避ける。この時間帯なら通常、業務報告を確認したりメールをチェックしたりするはずだ。しかし今は、左手薬指に意識が集中していた。
一見普通の陰陽魚の指輪が、まるで彼の緊張を嘲笑うかのように静かに横たわっている。エレベーターのガラスを通した陽光が指輪に当たり、かすかな輝きを放つ。
「ここだけは…」
小声で祈りながら、エレベーターの階数表示を見つめる。チャイムの音が鳴るたびに緊張が走る。昨夜の異変が再び起きないことを願いながら。
十七階で停止。入札部のフロアだ。藤原誠一郎は深く息を吸い、他の乗客が降りるのを待ってからゆっくりと続く。
ガラスドアの外では、部長補佐の山下が待っていた。普段ならファイルを受け取り、今日の会議スケジュールを確認しながら目を通すはずだ。しかし今日は…
「おはよう、山下君」
軽く頷くだけで、距離を保ち、書類に手を伸ばさない。この異常な対応に山下は一瞬戸惑ったが、すぐにプロフェッショナルな態度で取り繕った。
「部長、おはようございます。九時に人事部で全体会議があります。資料が届いていますが、今確認されますか?」
左手の指輪を見つめ、軽く首を振る。「机の上に置いておいてくれ。少し…整理が必要だ」
執務室に入ると、見慣れた環境なのに、かつてない不安を覚える。大きな机、一面の窓、壁に掛かった工事の表彰状。これまで人生の成功を象徴していたものが、今は頭上に吊るされた剣のように感じられた。
「ここで突然変身したら…」
考えを打ち切る。慎重に椅子を引き、左手が何にも触れないよう注意する。その動作が、昨夜の優雅な少女の姿を思い出させる。今とは全く異なる雰囲気。
机の上には会議資料が整然と並んでいるが、目を通す余裕はない。ガラス越しに、続々と出社する同僚たちが見える。皆が忙しく動き回る中、彼だけが針のむしろに座っているような気分だった。
「何か方法を…」
左手の指輪を見つめながら、昨夜の出来事を思い出す。突然の変化、制御できない感覚、そして亡き妻にそっくりな容姿…すべてが非現実的だった。
机の一番下の引き出しに、黒い絶縁テープが入っているはずだ。去年、現場検査の際に持ち帰ったものだ。左手が何にも触れないよう、慎重に引き出しを開ける。
「これで固定できるはず…」
テープを取り出し、躊躇う。指輪に触れずにテープを巻くにはどうすれば…簡単なはずの動作が、今は途方もなく難しい。まずは短く切ることにした。
「何も起きませんように…」
テープで指輪を固定しようとした瞬間、指先が指輪に触れる。その瞬間、心臓が止まりそうになった。しかし、予想した変化は起きなかった。
彼は固まった。
昨夜の不思議なエネルギーの波動は消え、指輪はただの銀の装飾品のように、静かに指に乗っている。回そうとしても、まるで指と一体化したかのように動かない。
「これは…」
近づいて観察すると、陰陽魚の模様は鮮明なままだが、あの神秘的な輝きは薄れているようだ。まるで引き潮後の浜辺のように、穏やかな砂面だけが残されている。
「玉華…これはいったい…」
小声で呟く。安堵と共に、どこか説明のつかない喪失感も感じていた。あの不思議な体験、妻によく似た少女の姿は、本当に夢だったのだろうか。
軽いノックの音が、思考を中断させる。
「部長、失礼します」
山下がドアを開け、書類を手に入ってくる。藤原誠一郎は即座に姿勢を正し、無意識に左手を机の下に隠す。
「水野主任の件ですが…病院から連絡がありました」
水野の名前に、心拍が少し早くなる。昨夜の不思議な救助の記憶が蘇る。
「ああ…状況は?」
「軽い脳震盪と擦り傷だけで、一晩の経過観察で大丈夫だそうです。ただ…」山下は言葉を躊躇う。「救助した人が分からないそうです。夜勤の医師と警備員の話では、若い女性だったような…」
その描写に、思わず指輪に触れそうになるが、現状を思い出して何事もなかったように手を下ろした。
「そうか…それは良かった。ゆっくり休ませて、仕事は他の者で対応しましょう」
「はい。それと…」山下は腕時計を見る。「九時の全体会議、人事部が催促してきています」
空気が一気に重くなる。この会議の内容は、互いに分かっていた。米国資本による買収後、最初の人員削減計画。部門責任者として、出席は避けられない。
「分かった」
立ち上がり、スーツを整える。これから発表される解雇リストには、十年以上共に働いてきた部下たちの名前がある。だがこれが現実だ。アメリカ管理下の新東京では、資本の意志が人情に優先される。
「部長…」山下の言葉が途切れる。
長年の部下を見つめ、軽くため息をつく。「行こう」
会議室は廊下の突き当たり。一歩一歩が綿を踏むように重く、非現実的だった。不思議なことに、指輪を回して女性に変身できれば、すべてを解決できる力を得られるような錯覚さえ覚えた。
会議室に入ると、空気が凍りついたようだった。人事部長が無表情で解雇リストを読み上げる。予想していたとはいえ、一つ一つの名前が、出席者全員の心に重く響く。
インテリア部の中村部長が資料を握りしめ、指が白くなっている。部門の三分の一が削減対象だ。多くが二十年以上勤続のベテランたち。だが米国本社からすれば、彼らの給与は高すぎ、インテリアデザイナーは過剰で、費用対効果が低い。これらはAIと本社リソースで代替可能という判断だった。
「第四四半期までに人員最適化を完了させ…」
人事部長の言葉が続く中、関連設計院の鈴木チーフデザイナーが俯いているのが目に入る。妻のがん治療中の鈴木を、解雇対象の部下たちが毎月募金で支援していることを、誠一郎は知っていた。
机の下で拳を握り締める。中間管理職として、上からの圧力と部下からの期待、その板挟みは解雇される以上に苦しい。
「法定通りの補償金を支払い…」
「三ヶ月分の補償では足りません!」財務部の山田主任が立ち上がり、顔を蒼白にする。「小村山の妻は出産したばかりで、中島の父は入院中、村島はローンを…」
「お座りください、山田主任」人事部長が冷たく言い放つ。「本社の決定事項です。議論の余地はありません」
廊下を行き交う社員たちを見つめる。彼らはまだ自分の運命が変わろうとしていることを知らない。昼食の話をする者、週末の家族計画を立てる者、結婚式の準備に励む者…
「各部長は本日退社までに、解雇通知書を直接手渡してください」
その言葉に、全ての管理職が体を強張らせる。朝夕を共にした部下に解雇通知を手渡す。これほど残酷な任務はない。
「もう少し時間を…年末まででも…」開発部の木村部長が震える声で訴える。
「できません」人事部長が遮る。「米国本社は今四半期中の成果を求めています。これが新東京の市場原理です」
左手薬指の指輪の温もりを感じる。変身すれば全てが解決するような奇妙な考えが浮かぶが、首を振って払い除ける。現実の中で、彼らのような中間管理職は、資本の波に揉まれる一粒の砂に過ぎない。
「解散します」人事部長が立ち上がる。「午後二時までに、全ての通知書の受領書を確認します」
誰も動かない。会議室の空気が一層重くなる。人事部長の足音が廊下の奥で消えるまで、深いため息すら漏れなかった。
誠一郎は会議室に残り、呆然と座る木村部長の肩に軽く手を置く。
「お疲れ様、木村君」
返ってきたのは、かすかなため息だけだった。
入札部に戻り、解雇対象の部下全員を集める。オフィスの空気は重いものの、予想したような絶望感はなかった。
「部長、関東電力からオファーを頂きました。ご推薦ありがとうございました」松本健一郎が最初に口を開く。
「ああ、松本君は予算管理の経験が豊富だ。新しい職場でも必ず活躍できるはずだ」誠一郎は頷き、他のメンバーを見渡す。
「来週から新東京建築設計院に勤務します。部長のご紹介に感謝します」佐藤美咲が書類を整理しながら告げる。
原川大介と中村境太が視線を交わし、安堵の笑みを浮かべる。「新東京港湾建設に決まりました。ポジションは一つ下がりますが、工事予算の経験が活かせます。待遇も悪くありません」
長年の部下たちを見つめる。会社の買収を察知した瞬間から、彼らの再就職先を探し始めていた。部長として、これが最後にできることだった。
「高橋君は新東京市政工程処の新東京電鉄へ、田中君は新東京海港建設へ。どちらも安定した職場だ。業界は厳しいが、皆の経験と実力があれば、必ず道は開ける」一人一人の行き先を確認する。
「これからも連絡を…」言葉を途切れさせる。退職が確定した瞬間から関係は薄れ、日々の忙しさに埋もれて他人のようになっていく。それは誠一郎にも止められない現実だった。
「部長はいつも私たちのことを…」山口真由美が目頭を押さえる。
「当然のことです」誠一郎は冷静さを保ったまま。「皆優秀な人材だ。ただ会社の戦略で…」
言葉が途切れる。最後の書類——水野千夏のものだった。
オフィスが静まり返る。水野の件を知る者もいれば、詳しく知らない者もいる。誠一郎にとって、彼女は昇進を控えた数少ない対象者であり、最も頼れる部下だった。昨夜の極端な行動、自殺未遂。救助はできたものの、今も病院のベッドで横たわっている。
長いため息をつく。全日本半導体でより良いポジションを用意するつもりだったが、彼女の現状では、仕事に戻るまでにかなりの時間がかかるだろう。水野の退職届にハンコを押す。
「水野の件は…」一瞬の間を置く。「私が直接病院に伝えます。補償金も、できる限り増額を交渉します」
その言葉に、出席者の何人かは水野の状況を察したようだ。全員が心配の表情を浮かべる。部長ほどの尊敬は集めていなかったものの、彼女はプロジェクト部の重要な存在だった。しかし今は病院のベッドで…彼女の日頃の過激な言動を思い出し、皆どこか納得したような表情を見せる。
「部長…」山下の言葉が途切れる。
「皆さん、仕事の整理を進めてください。何か助けが必要なら、いつでも声をかけてください」誠一郎は立ち上がり、会議の終了を告げる。
部下たちが去っていく様子を見つめながら、左手の指輪に目が留まる。あの姿に変身できれば、妻のように優しく控えめに水野を慰めることができるかもしれない。だが今の自分には、部長という立場で、この困難な時期を孤独に向き合うしかない。
オフィスが静まり返る中、新東京のスカイラインを眺める。午後の日差しがガラスの外壁に反射している。第五建設に入社した二十年前、このスカイラインはこれほど密集していなかった。
パソコンを開き、人員削減関連の書類処理に取り掛かる。第五建設の多くのプロジェクトと入札案件が、この買収で緊急停止となった。これがフォーブス・グループが買収と人員削減を急ぐ理由だ。長引く交渉は株主と市場の信頼を損なう。画面の冷たい数字と表を見つめながら、水野が初めて会社の面接に来た時のことを思い出す。まだ大学を卒業したばかりの彼女は、玉華が客員教授を務めていた時の学生だった。
「誠一郎、この子には可能性があるわ。しっかり育ててあげて」妻の言葉が蘇る。
玉華はいつもそうだった。人材を見出し、若者を助けることを楽しみにしていた。水野も彼女の強引な誘いで社交の輪に加わった。年末年始には、彼女の孤独を心配し、両親の事情を知ってからは、主な祝日には必ず水野を家に招いていた。美玲も小さい頃は「千夏お姉ちゃん」と慕っていた。
「時が経つのは早いな…」
引き出しを開けると、去年の忘年会の集合写真が出てくる。写真の中の水野は彼の隣で、明るい笑顔を見せている。たった一年で、彼女があんな極端な行動に出るとは、誰が想像しただろう。
こめかみを揉む。妻の死後、生活の中心を見つけようと仕事に没頭した。その間に、多くの古い友人との関係が疎遠になっていた。
以前は頻繁に会っていた大学の同級生の月島とは、今ではTikTokでいいねを押す程度。毎週必ず会っていた高校の親友の桐生は、去年の引っ越しの際も別れの挨拶もできなかった。隣の小野寺夫妻も、自分の早朝から深夜までの生活で、もう地域活動に誘われることもなくなった。
「お父さん、そんなに忙しくしないで…」
中学に入ったばかりの美玲の不満が思い出される。あの頃はまだ不満も口にしていたが、今ではそんな会話すら減っていた。毎朝、用意した朝食を黙って食べる美玲との会話は、簡単な挨拶だけになっていた。
「玉華、君ならもっとうまく対処できただろうな…」
左手の指輪を見つめる。妻の存在を感じられる唯一のもの。今思えば、玉華は何かを予見していたのかもしれない。水野を紹介したのも意図的だったのだろう。この冷たいビジネスの世界で、水野は数少ない心の通じ合う友人となっていた。
しかし今、その最後の絆も会社によって無情に断ち切られようとしている。米国資本による再編計画の中で、彼らは取り替え可能な数字に過ぎない。何年働いても、どれだけ尽くしても、結局は資本の冷酷さには勝てない。
「壊れた部品のようなものか…」
苦笑いを浮かべながら、書類処理を続ける。窓の外の陽光が西に傾き、新東京のスカイラインに点々と明かりが灯り始める。この眠らない街は、絶え間ない華やかさで内なる冷たさを覆い隠している。
疲れた一日の終わりに早めの退社を決めると、同僚たちは驚いた表情を見せる。「仕事中毒部長」がこんな時間に机を片付けるのは珍しい光景だった。
「部長、もう帰られるんですか?」山下が最後の書類を差し出す。
「ああ、家の用事が…」誠一郎は曖昧に答え、無意識に左手の指輪に触れる。昨夜の予期せぬ変身は、今でも心に残っている。*
エレベーターの中で冷たい金属の壁に寄りかかり、最近の不条理な出来事を振り返る。水野の件、会社の人員削減、そして一晩の変身。まるで運命に仕組まれた悪戯のようだ。
夕陽の名残りがフロアガラスを通して、リビングにオレンジ色の光を投げかける。玄関に立ち、空っぽのリビングを見つめると、説明のつかない疲労感が押し寄せる。
「美玲?」
返事はない。テーブルの上の食事代と朝の走り書きのメモは消えていた。娘の部屋に足早に向かい、そっとドアを開ける。相変わらず散らかった部屋には、フィギュアやグッズが溢れている。自分はいつから彼女の部屋に入らなくなったのだろう。
「今朝は…」
朝の慌ただしさを思い出し、後悔する。眠る美玲を起こしたくなかった。言うことを聞かない面はあるが、学業成績と学校の規律は常に優秀で守られている。今考えると、「急に用事があって、朝ご飯は作れなかった。これを使って朝ご飯はちゃんと食べて。」というメモを見て、お金を持って行ったのだろう。
携帯を取り出し、美玲に電話をかける。「お客様の電話は電源が入っていない状態です」という機械的な女性の声に、心が沈む。