第2話 お父さん！謎になれ！
「早く出ないと！」
前に踏み出すと、信じられないほど体が軽い。これまでの重い足取りが羽のように軽くなり、一歩一歩に力が満ちていた。
瓦礫に閉じ込められた水野を見て、本能的に跳躍した。驚くべきことに、その跳躍は軽々と三メートルの高さに達した。まるで重力に逆らうかのように、空中で美しい弧を描き、倒れた梁を蹴り飛ばした。
「この感覚…まるで夢の中で飛んでいるような」
再び跳躍し、軽やかに水野の傍らに着地すると、彼女の怪我を確認した。幸い、気を失っているだけで、命に別状はない。水野の膝の裏と肩に手を回し、軽々と抱き上げた。
「軽い…この体の力は想像以上だ」
水野を抱きかかえたまま、再び跳躍。今度は通りの向かいの衣料品店の前に着地した。着地の瞬間、店頭の姿見に自分の姿が映り込んだ。
その瞬間、彼女は凍りついた。
鏡に映る少女は十七、八歳ほど。驚くほどの美貌の持ち主だった。肩まで垂れる漆黒の髪、整った顔立ちは林玉華に七分通り似ている。だが妻の優しさとは異なり、この顔には若々しい生気が宿っていた。
「これは…玉華の若い頃？」
鏡の中の自分を呆然と見つめる。だぶだぶのスーツの下にかすかに見える曲線、すらりとした脚、そして亡き妻にそっくりな顔立ち。すべてが非現実的でありながら、確かに目の前で起きている現実だった。
腕の中の水野が小さく唸り、目覚めそうな様子を見せた。我に返った彼女は、今は水野の安全確保が最優先だと気付いた。
「病院に急がないと…でも、この姿で…」
鏡に映る見知らぬようで懐かしい自分を見つめ、初めて本当の戸惑いを感じた。しかし考えている暇はなく、水野を車に乗せ、最寄りの病院へと向かった。
病院の救急外来は蛍光灯が白々しく照らしていた。水野を抱えて待合室に入ると、たちまち周囲から奇異な視線が注がれた。
「お嬢さん、患者さんは…」看護師は目の前の不思議な組み合わせを見つめた——だぶだぶのスーツを着た美しい少女が、気を失った女性を抱えている。
「彼女は…友人です。火事で気を失って…」
思わず柔らかくなった声に、違和感を覚える。看護師は彼女の大きすぎるスーツと今にも落ちそうなズボンを怪訝そうに見つめ、何か言いかけては止めた。
「登録が必要ですが…」
不器用にスーツの内ポケットから現金を取り出す。「先に治療を。彼女の情報です。水野千夏、IDナンバーNYO4553120。費用は現金で支払います」
看護師は札束を受け取りながら、彼女の乱れた服装を見た。「お嬢さん、あなたも診察しましょうか？」
「結構です、大丈夫です」
だぶだぶのスーツを慌てて引き上げながら、水野が救急室に運ばれるのを見守った。適切な処置が始まったのを確認すると、駐車場へと足早に向かう。看護師と警備員が引き止めようとしたが、彼女の動きは素早く、数秒で姿を消した。行き交う患者や医療スタッフの視線が背中に突き刺さるようだった。
「この体…この姿…どう説明すれば…」
運転席に座り込むと、シートを大幅に前に出さなければならなかった。バックミラーに映る見知らぬようで懐かしい顔を見つめ、深いため息をつきながらエンジンをかけた。道中、監視カメラを避けるように運転する。まるで何かから逃げるかのように。
帰宅した時には深夜だった。車を通りの暗がりに停め、周囲を警戒する。幸い、この時間帯の通りには人影がない。
「美玲はもう寝ているはず…」
そっとアパートの下まで回り込み、上を見上げる。十八階の窗は自分の書斎だ。普段から換気用に少し開けておく隙間がある。今のこの身軽な体が、ちょうど役に立つ。
水道管を軽々と登っていく。その動きは意外なほど自然だった。三十秒もしないうちに、音も立てずに書斎に忍び込んだ。部屋は暗く、月明かりがカーテン越しに床を照らすだけだった。
「やっと戻れた…こんなに簡単に入れるなんて、窓は開けっ放しにできないな…」
書斎のソファに崩れ落ちるように座り、この見知らぬ体の感覚を味わう。この状態がいつまで続くのか、どう人に説明すればいいのか分からない。そして何より…
「明日は仕事が…」
鏡に映る亡き妻に似た顔を見つめ、深い困惑に陥る。
書斎の月明かりの中、左手薬指の陰陽魚の指輪に変化が起きているのに気付いた。これまで輝いていた青い光が徐々に弱まり、符文の光も薄れていく。
「早く戻ってくれ…頼む！…」
火事の時のように必死で指輪を回す。しかし今度は、どれだけ回そうとしても、指輪はびくともしない。あの不思議な力は消え失せ、ただの銀の指輪だけが残された。
「どうして？玉華…これは一体…」
更衣室に忍び込み、姿見の前に立つ。見知らぬようで懐かしいこの体を見つめる。肩までの黒髪、整った顔立ち、細身の体型、すべてが現状の不条理さを突きつけてくる。
「明日会社に行くのに…この姿をどう説明すれば…」
男性らしい立ち姿を試みるが、この体は自然と優雅な姿勢を取ってしまう。話し方まで柔らかくなり、まるでこの外見と一体化したかのよう。更衣室の籠もった暑さと湿気が、誠一郎の居心地の悪さをさらに増幅させた。
部屋の湿度が下がらないのを見て、誠一郎は除湿剤を手に取ったが、既に水を吸い切っていた。その時、指輪が一瞬光を放ったが、すぐに消えた。かすかなエネルギーの波動を感じたが、制御することはできない。
「新しいのを買わないと…でも…当分戻れそうにないか…」
ため息をつきながら携帯を取り出し、時刻を確認する。午前一時、夜明けまでまだ数時間ある。眠れば状況は変わるだろうか？
しかし、より大きな問題がある。明日もこの姿のままなら、同僚や部下にどう対応すればいいのか？自分の身元をどう説明すればいいのか？
そしてなにより…美玲にどう向き合えばいいのか？
更衣室の暖かな光の中、緩んだスーツをためらいがちに脱ぎ始める。最後の一枚が床に落ちた時、鏡に映る姿に思わず息を呑んだ。
「これは…あまりにも…」
認めざるを得なかった。この体のプロポーションは完璧と言えるほどだ。長い脚、細い腰、そして目を逸らさずにはいられない…慌てて顔を背けたが、また鏡を見てしまう。
「制服がきつかったわけだ…」
脇に掛かっていたバスローブを素早く羽織る。女性の体を見つめる行為は、たとえ今の自分であっても、罪悪感を覚えた。しかし、より大きな問題が待ち受けている——入浴すべきか？
「煙の臭いが付いているし…」
更衣室を行ったり来たりする。理性的に考えれば、確かに清潔にする必要がある。しかしその一方で…この体は恐らく…
「玉華…どんな試練を与えているんだ？」
携帯のロックを解除しながら、小さくつぶやく。待ち受け画面の家族写真で、林玉華がカメラに微笑みかけている。その顔は今の自分と七割方そっくりだった。
浴室から水道管のかすかな音が聞こえ、避けられない問題を思い出させる。バスローブの襟元を握りしめ、深いため息をつく。
浴室の明かりが柔らかく灯り、水蒸気がすぐに鏡面に細かな水滴となって付着する。そっとドアを閉め、確実にロックする。家には眠っている美玲しかいないが、この慎重な習慣が少しばかりの安心感をもたらした。
「落ち着け…怪我の確認だと…思えば…」
そう自分に言い聞かせようとする。しかしバスローブの紐に触れた指が、また止まってしまう。この見知らぬようで懐かしい感覚は、玉華との出会いの頃の緊張を思い出させた。だが妻の病床で体を拭いた経験が、今の状況への抵抗感を和らげてもいた。
「シャワーを出そう…」
蛇口をひねると、温かな水がバスタブを打ち、細かな水音を立てる。湯気が立ち込め、鏡に映る姿がぼやけていく。深く息を吸い、ようやくバスローブを脱ぐ勇気が出た。
「こんなの…信じられない…」
この体を見るのは二度目だが、こんなに近くで観察するとなると戸惑いを隠せない。すらりとした指が思わず滑らかな肌に触れ、その感触に慌てて手を引っ込める。
「ごめん、玉華…」
小さく謝る。まるで亡き妻に申し訳ないことをしたかのように。だが実際、この体は玉華の若かりし日の投影なのかもしれない。その推測が、さらに心を乱す。
お湯が徐々にバスタブを満たしていく。おずおずと足先を伸ばし、湯加減を確かめる。普段なら何気ない動作が、今は不慣れでぎこちない。浴槽の縁を掴みながら、慎重にお湯に浸かる。
「はぁ…滑らなくてよかった…」
温かな湯が体を包み込み、不思議な安らぎをもたらす。しかし、ある部分から感じる浮力に居心地の悪さを覚え、姿勢を変える。水面に浮かぶ曲線に目を向けないよう、必死に視線を保つ。
ボディソープを手に取り、また困惑する。今まで気にも留めなかった細部に、今は真剣に向き合わねばならない。できるだけ早く済ませようとするが、この体は生まれながらに優雅さを持ち合わせているようで、どの動作もゆっくりと上品になってしまう。
「玉華が『お風呂の入り方が雑』って言うわけだ…」
突然の思いつきに、苦笑いがこぼれる。妻の昔の不満が、今になってようやく理解できた。女性の体は、より丁寧なケアが必要なのだ。
最も手こずったのは髪だった。肩までの黑髪が濡れると一層しなやかになるが、洗うのは一苦労だ。不器用に髪をもみ洗いし、はね返る水滴に眉をひそめる。
「これくらいでいいか…」
体の泡と髪のシャンプーを手早くすすぐ。妻の介護と娘の髪を洗った経験が、なんとか役立った。それでも、この居心地の悪い時間を早く終わらせたかった。しかし立ち上がった時、タオルを用意し忘れていたことに気付く。
「しまった…」
ドアの外に掛かるタオルを見つめ、新たな困難に直面する。その距離は浴槽から完全に出なければならず、正面には鏡がある。部屋に自分しかいないと分かっていても、この露出した感覚は受け入れがたい。
結局、重要な部分を腕で隠しながら、素早くタオルを取ることにした。しかしその動作は予想以上に優美で、まるでルネサンス期の油絵のよう。
「この体は…完璧すぎだよ…」
急いでタオルを巻くが、いつもの巻き方が今は合わないことに気付く。正しい方法を見つけるまでしばらくかかり、やっとほっと息をつく。
体を拭いている時、この体には独自の「記憶」があることに気付いた。どの動作も自然と優雅なリズムを帯び、まるで骨の髄まで染み付いた習慣のようだった。
「この感覚…おかしいだよ…」
本来の動作を保とうとするが、体は意志と関係なく、より繊細な所作をしてしまう。髪を拭く仕草さえ柔らかくなり、いつもの荒々しさは影を潜めていた。
その違和感に戸惑っている時、足が滑った。その瞬間、長年の生活経験から体を無理に支えようとした。この年齢で転倒は決して軽い問題ではない。しかし、この体には別の考えがあった。
右手が優雅に洗面台の縁を掴み、左足を後ろに引く。まるでバレエのような姿勢を取っていた。この無意識の動きは転倒を防いだだけでなく、まるで計算された舞踊の一場面のようだった。
「こ…これは…」
こんな動作が自然にできることに驚く。さらに困ったことに、この姿勢で鏡の中の自分と向き合うことになった。タオルの端が緩み、垣間見える曲線に顔が赤くなる。
「だめ…見ちゃ…」
目を逸らそうとするが、鏡像は魔力のように視線を引き付ける。その優雅で魅惑的な姿は、本当に今の自分なのか。すらりとした首筋、繊細な鎖骨、そして目を逸らせない…
見知らぬ恥じらいが突然込み上げてくる。この感覚は元の藤原誠一郎のものでもなく、この体の本能でもない。二つの意識が不思議に融合し、羞恥と賞賛が入り混じる。
「玉華…これがあなたの感覚だったの？」
小さくつぶやく。妻もいつもこんなに優雅だった。当時は、この所作の美しさがどこから来るのか理解できなかったが、今は身をもって体験している。
慌てて姿勢を直そうとするが、体は最も優雅な方法でそれを行おうとする。ゆっくりと体を起こす自分を、まるで花が開くように見つめるしかない。
「この感覚…たまらない…」
急いでタオルを巻き直すが、今度は自然と上品な巻き方を選んでいた。胸元で丁寧な結び目を作り、緩まないよう確認する。一度も習ったことのない動作が、驚くほど自然に完成した。
鏡に映る姿はまだ湯気を帯びているが、その優雅さは一層際立っている。気付けば、自然と凛とした立ち姿になっており、普段の荒々しさは消えていた。
「この体が…私を変えていく…」
自分の手を見つめる。細い指が無意識に濡れた髪を整えている。この動作があまりに自然で、まるで何度も繰り返してきたかのよう。しかし、その自然さこそが、より深い戸惑いを呼び起こす。
寝室に戻り、ベッドの端に座って混乱した心を落ち着かせようとする。鏡に映る見知らぬようで懐かしい姿は、避けたいのに近づきたい、そんな矛盾した感情を呼び起こす。その感覚は、林玉華との出会いを思い出させた。
「玉華…これが試練なの？」
薬指の指輪に触れながら、上海のアンティークオークションでの出会いを思い出す。あの時の林玉華も、お茶を手に優雅にショーケースの前に立ち、この魅惑的な雰囲気を漂わせていた。
今の自分が、あの時の彼女にこれほど似ているなんて。
無意識に首筋に触れるが、すぐにその仕草の危うさに気付く。入浴後のこの体は、触れることに異常に敏感で、些細な接触さえも見知らぬ鼓動を呼び起こす。
「どうして…お風呂上がりがこんな…だめ…自制しないと…」
無理に横たわり、布団を引き寄せる。しかしその単純な動作さえ、敏感な体をさらに刺激する。布団が柔らかく体を包み、艶やかな曲線を描き出す。慌てて体を翻し、窓に背を向ける。
目を閉じても、その感覚は消えない。肌の一寸一寸が存在を主張し、この体がもたらす異質な感覚を無視できない。
「玉華…あなたもこうだったの？」
妻の見せた恥じらいを思い出す。当時は全く理解できなかったが、今はその感覚を痛いほど理解している。女性の体は、こんなにも敏感で脆いものなのだ。
ベッドサイドの林玉華の写真が微笑みかける。その懐かしい顔立ちは今の自分と七割方そっくりで、その発見に感動と戸惑いが入り混じる。
夜風が窓を揺らし、カーテンが静かに揺れる。その布地が放つ微かな音さえ、今の体には刺激的だった。玉華との思い出が、まるで走馬灯のように次々と蘇る。
二人で過ごした最初の夜。彼女の震える指先、上気した頬、そして恥じらいに満ちた瞳。当時は「可愛らしい仕草」としか思っていなかったそれらの仕草が、今になって深い意味を持ち始めていた。
「ごめんね…あの時、分かってあげられなくて…」
暗闇の中で囁く言葉に、思わず目頭が熱くなる。この体験は、単なる試練ではないのかもしれない。玉華からの最後の贈り物。彼女の人生を、その感覚を、深く理解するための機会なのかもしれない。
しかし、その理解は同時に新たな戸惑いをも生み出していく。明日という現実が、重たい影を落としていた。
「これは悪戯なの、それとも…何かの運命？」
夜が深まるにつれ、なかなか眠れない。体のわずかな変化も鮮明に感じ取れ、布団の感触さえ異常に鋭敏だった。困惑する感覚から意識を逸らそうと必死だった。
「早く寝なきゃ…明日は仕事だ…」
布団にさらに身を包むが、その動作でまた体の曲線を意識してしまう。見知らぬようで懐かしいその感覚に、思わず鼓動が早くなる。
やがて疲れが混乱した思考を打ち負かす。まどろみの中で、林玉華の微かな笑い声が聞こえ、かすかな言葉が耳に届く。
「これは始まりよ、あなた…」
