第1話 お父さん!謎の女性になれ!
新東京第三区、朝七時三十分。
藤原誠一郎はグランドビュー・アパート2388号室のバルコニーに立ち、十年来変わらぬ習慣として、真摯に太極拳の朝練習を行っていた。それは亡き妻、林玉華が生前教えてくれたもので、彼が今でも続けている数少ない「東洋の習慣」の一つだった。
朝焼けの中、この背筋の伸びた中年男性の一挙手一投足には、独特のリズムが漂っていた。四十六歳という年齢ながら、自己管理の行き届いた彼は実年齢よりもずっと若々しく見えた。唯一、目尻のわずかな皺と、やや疲れの見える瞳だけが、時の流れが彼に残した痕跡を物語っていた。
「行ってきます」
娘の美玲の冷ややかな声が玄関から聞こえてきた。藤原誠一郎が動きを止めて振り向いた時には、既にドアが閉まる背中しか見えなかった。
「待って、朝ご飯…」
言葉が終わる前に、ドアは完全に閉まってしまった。彼は溜息をつき、視線を戻して最後の収める動作を続けた。
このような朝のやり取り、というよりもむしろ「独白」は、この一年でほぼ日課となっていた。妻が亡くなった以後、父娘の会話は徐々に減っていった。十七歳の反抗期真っ只中の娘と、この父親との間には、目に見えない壁が立ちはだかっていた。
八時きっかり、藤原誠一郎はきちんとしたダークグレーのスーツに着替え、ネクタイを締めた。最後の身だしなみチェックという習慣は、父親の厳格な教えによるものだった——「一流の社会人は、常に最高の状態を保つべきだ」。
第五建設株式会社。二十一年間勤めてきたこの会社は、今、かつてない危機に直面していた。入札部長として、誰よりも会社の現状を理解していた。
八時二十五分、彼は時間通りに新東京中心地区にある第五建設本社ビルに到着した。三十階のオフィスには、既に数人の部下が早めに出社していた。部長の到着を見て、皆一斉に立ち上がって会釈した。
「おはようございます、藤原部長」
先頭に立っていたのは副課長の水野千夏、優秀なキャリアウーマンだった(優秀の社会人)。彼女はいつも一番早く出社し、最後まで残る社員でもあり、同時に、彼の右腕的存在だった。
「おはよう。八時の朝会の資料は準備できているかな?」
「はい、全て整っております。それと、アメリカのフォーブス・グループに関する資料もまとめておきました」
藤原誠一郎は軽く頷いた。これこそが彼が水野を評価する理由だった——常に人より先を読む能力。
しかしその時、総務部の城田が近づいてきた。
「藤原部長、社長がお呼びです。今、会議室Aにて」
藤原誠一郎は眉をわずかに寄せた。会議室Aは取締役会専用の会議室で、通常の会議には決して使用されない場所だった。彼は腕時計を見た:八時四十五分。この時間の緊急会議は、良い知らせのはずがなかった。
会議室Aの空気は息苦しいほど重かった。
藤原誠一郎が重厚な木製のドアを開けると、会議室には既に五人が座っていた。渡辺社長と二人の常務取締役の他に、見知らぬ外国人が二人。スーツに身を包み、金髪碧眼の彼らは、明らかにアメリカのフォーブス・グループの代表者だった。
「ああ、藤原君が来たか。座りたまえ」
藤原誠一郎は黙って頷き、最後の空席に着いた。彼は渡辺社長のネクタイが歪んでいることに気付いた。明らかに慌ただしく整えたものだった。会社に四十年も勤めてきたこのベテランは、この時異常なほど疲れた様子を見せていた。
「率直に言おう。フォーブス・グループは先日の交渉で全ての詳細を決定し、我々も…同意した…。今、彼らから最終的な買収条件が提示される」
会議室の空気が一瞬凍りついたかのようだった。
外国人の一人が流暢な日本語で口を開いた。
「ジョン・スミスと申します。フォーブス・グループアジア太平洋地域副執行役員です。お目にかかれて光栄です。我々の条件は単純です:完全買収、現経営陣は維持、ただし30%の人員最適化が必要となります」
「人員最適化」、なんと冷たい言葉か。藤原誠一郎は心の中で冷笑した。これは従業員の約三分の一が職を失うことを意味していた。
「しかし、スミスさん、30%というのは余りにも…」
「これが最後の譲歩です。さもなければ、hostile takeover(敵対的買収)という手段を取らざるを得ません」
藤原誠一郎は拳を握りしめた。「敵対的買収」が何を意味するか分かっていた——社債と株式を買い集めて強制的に会社を乗っ取ること。そうなれば、人員削減の比率はさらに高くなり、現経営陣も全て入れ替えられることになる。
渡辺社長は椅子の背もたれに力なく寄りかかり、虚ろな目をしていた。彼は小さな声で言った。
「検討する時間を三日ください」
「承知しました。御社のご返答を待っております」
二人の外国人は立ち上がって退室した。スーツを払ったが、この会議室に埃が積もることは決してない。その後、会議室には日本側の人間だけが残され、長い沈黙が続いた。
「部長、私なりに…」
渡辺社長は手を振って遮った。
「もういい、藤原君。これは時代の流れだよ」
かつては意気揚々としていたこの老人の今や老いた背中を見て、藤原誠一郎は胸が痛んだ。第五建設は戦後の廃墟から立ち上がり、新東京の再建と繁栄を見届けてきた。そして今、この老舗建設会社は外資に飲み込まれようとしていた。
会議室を出る時、彼の左手薬指の陰陽魚の指輪が、急に重く感じられた。妻が臨終前に残した最後の遺品で、何か神秘的な力が宿っているという。この瞬間、彼はこの指輪が何か啓示を与えてくれることを、目の前の困難への対処法を教えてくれることを、どれほど願っただろう。
九時半、第五建設株式会社のオフィスは完全に活気づいていた。
藤原誠一郎が会議室から戻ってから、入札部全体の雰囲気が微妙に変化した。会議の内容を知る者はいなかったが、部長の並外れて深刻な表情に、誰もが何かを感じ取っていた。
「藤原部長、おはようございます!」
「部長、お早うございます!」
「おはようございます、部長!」
廊下で出会う社員たちは、皆恭しく会釈して挨拶した。第五建設の入札部で、藤原誠一郎の威厳は単なる地位からではなく、二十一年に渡る真摯な仕事ぶりと、人との接し方から来ていた。
「藤原部長、新宿区の地下鉄プロジェクトについて…」
「わかった、午後二時に私の執務室で詳しく話そう」
心配事が山積みでも、彼はいつもの専門家としての態度を保っていた。これこそが、会社全体から敬意を払われる理由だった——どんな状況でも、仕事を最優先する姿勢。
しかし、水野千夏の席を通り過ぎる時、普段は有能なこの副課長が呆然としているのに気付いた。彼女のパソコン画面には未完成の報告書が表示されたまま、机の上のコーヒーは完全に冷めていた。
水野千夏は朝から様子がおかしいと感じていた。普段は忙しい入札部が今日は異常に静かで、同僚たちの会話も意図的に小さな声に抑えられ、まるで何かを恐れているかのようだった。さらに異常なことに、彼女が手配していた二次入札の重要プロジェクトが突然「保留」を告げられた。
「水野課長、ご要望の資料です」
若手の研修生が書類の束を差し出し、水野は機械的にそれを受け取った。これらは全て彼女が過去五年間担当してきたプロジェクトの資料だった。無名の一般職員から会社最年少の女性副課長になるまで、彼女は人知れぬ努力を重ねてきた。
「ありがとう」
彼女の声はかすれていた。朝の緊急会議、突然保留になったプロジェクト、同僚たちの逃げるような視線…全ての兆候が、恐ろしい可能性を示唆していた。
入札部副課長として、彼女は誰よりも会社の最近の苦境を理解していた。米資本による買収の噂は既に数ヶ月前から流れており、彼女が担当する大型プロジェクトでも資金繰りの問題が発生していた。
「私のポジションは、最初の人員整理リストに入るだろうな...昇進するかしないかの微妙な立場だし、それに私のやり方は、あのゴマすり連中の気に障っていたしな」と彼女は苦々しく考えた。
藤原誠一郎は水野の異変に気付いていた。普段は手際よく仕事をこなすこの部下が、今は魂が抜けたようだった。彼女の気持ちは分かる——水野は彼が直接育てた人材で、若くして副課長になり、本来なら前途有望だったはずだ。
「水野」
水野千夏は我に返り、慌てて立ち上がった。「はい、部長!」
「新宿地下鉄プロジェクトの入札書類を、午後三時までに私の執務室へ」
水野千夏は一瞬戸惑った。新宿地下鉄プロジェクトは既に保留になったはずでは?しかし、すぐに部長の意図を理解した——会社が困難に直面していても、とにかく仕事は続けなければならない。
「分かりました!すぐに準備に取り掛かります!」
水野が再び活気を取り戻す様子を見て、藤原誠一郎は密かにため息をついた。これからの日々が困難になることは分かっていた。しかし部門責任者として、冷静さを保ち、チームをこの危機から導かなければならない。
しかし、彼は知らなかった。この時の水野千夏の心は、既に崩壊の縁にあったことを。表面上は何事もないように仕事を続けながら、実際には、最悪の事態への備えを考え始めていた。
「もし本当に解雇されたら...私はどうすればいい?」
「これまでの努力が...こんな形で終わるの?」
「どうして...どうして私が?」
昼休みの時間、彼女は一人で屋上に向かった。繁華な新東京を見下ろしながら、初めて深い無力感を覚えた。この止まることのない都市で、誰もが取り替えの利く歯車のような存在なのだ。
屋上の風は少し冷たかった。水野千夏は遠くの高層ビル群を見つめながら、ふと自分もこの都市のちっぽけな光の一つになったような気がした。
背後でドアの開く音がし、彼女は反射的に目頭を拭った。
「ここにいると思っていたよ」
水野が振り向くと、部長が二つの湯呑みに入った猴坑猴魁(お茶の種類の一つ)を持っているのを見て、思わず立ち尽くした。藤原誠一郎の執務室にある茶器で淹れたもので、部署全体が知るところの部長の秘蔵品だった。普段は重要な来客の接待にしか使わないものだ。
「少し体を温めなさい。ここは風が強いから」
「あ…ありがとうございます」
湯呑みを受け取った瞬間、彼女は温もりを感じた。お茶の温度だけでなく、この突然の思いやりにも。
藤原誠一郎は手すりに寄りかかり、遠くを見つめながら言った。「君が入社したばかりの頃も、よくここに来ていたね。その時君は言っていた。高いところに立てば、遠くが見えるって」
水野千夏は部長がそんなことまで覚えていたとは思わなかった。五年前、新入社員だった彼女は、仕事のプレッシャーに押しつぶされそうになると、よく屋上に逃げ込んでいた。
「部長、覚えていてくださったんですね…」
「もちろんさ。あの時から思っていた。この若者は只者じゃないと。案の定、君は私の期待を裏切らなかった」
その言葉を聞いて、水野の目が再び潤んだ。深く息を吸い、必死に感情を抑えながら尋ねた。「部長、私…解雇されるんでしょうか?」
藤原誠一郎は一瞬黙り、軽く首を振った。「今は具体的なことは言えない。でも水野、一つだけ覚えておいて:あなたの能力は、どんな環境の変化があっても、その価値は変わらない」
その言葉は、水野の凍えた心に温かな種子のように落ちていった。
「何が起きても、自分を信じなさい。君はまだ若い。可能性は無限にある」
水野千夏は猴魁茶を一口すすった。濃厚な香りの中に、かすかな希望の味がするような気がした。彼女の知らない所で、藤原誠一郎のスマートフォンには、全日本マイクロテクノロジー半導体からのメールが届いていた。
昨夜徹夜で書いた推薦状で、水野のための新しいチャンスを掴もうとしていたのだ。業界で名高い技術企業である彼らは、建設業界に詳しいマーケティング人材を必要としており、彼らの工業制御用半導体チップの販売を担当させたいと考えていた。水野の能力と経験は、まさに求められている条件に合致していた。
しかし、まだ彼女に告げる時ではない。藤原誠一郎は遠くの雲を見つめながら、タイミングを計っていた。相手から正式な確認が来てから伝えても遅くはない。
「部長、お茶をありがとうございました」
「味はどうだ?」
水野千夏は今日初めての心からの笑顔を見せた。「香り高くて、温かいです」
「そうか。午後は仕事がある。もう風に当たるのはやめなさい」
水野が再び活気を取り戻した様子を見て、藤原誠一郎は密かに頷いた。管理者として、時には問題を解決することよりも、信頼を与えることの方が重要なのだ。
水野が去った後、彼はスマートフォンを取り出し、そのメールを再確認した。画面には:「水野千夏様の面接日程について、来週水曜日午後2時に…」と表示されていた。
彼は小さくため息をついた。優秀な上司として、嵐が来る前に部下の避難先を確保することしかできない。その他のことは…彼は左手の指輪を見つめ、重い心持ちで屋上を後にした。
午後のオフィスで、藤原誠一郎は松本主任と小声で話していた。
「関東電力との話はまとまった。来週月曜日に行ってくれ」
松本は安堵の表情を見せた。「本当にありがとうございます…」
「表立っては言うな。他のメンバーの手配も考えているが、今は内密にしておく必要がある」
屋上から戻ってきてから、彼は日課の部署巡回を始めた。表向きは業務の進捗確認だが、実際は各社員の状態を観察するためだった。非常時には、社員の心理状態が業務効率より重要だということを、優秀な管理者として熟知していた。
山口は書類を整理しながら、目の下にクマを作っていた。藤原は彼が最近三人の子供の学費に頭を悩ませていることを知っていた。幸い先週金曜日に新横浜ユナイテッド工業建設との話がまとまり、あとは先方の人事部の確認を待つばかりだった。
原川の机の上には履歴書が置かれており、明らかに転職活動中だった。藤原は心の中で記録した:早く常連の会社に連絡を取らないと....そちら今、工事予算担当者が足りない。
しかし、水野千夏の席を通り過ぎる時、彼女の机の上で裏返しになっている書類に気付かなかった——それは彼女が昨夜、政府文書館から取り寄せた国境管理記録だった。
十年前、水野の両親はソビエト管理区の政治理念に共感し、新大阪への密入国を試みた。国境検問所で発見された後、取り調べのため連行され、以来音信不通となった。この真実を、水野が知ったのは最近のことだった。
水野はパソコンの画面を見つめながら、実際には昨夜見つけた内容について考えていた。その記録には「国家安全保障上の疑義により、特別調査部門へ移送」と記されていた。それが何を意味するのか、彼女には分かっていた。分断された日本で、「特別調査」とは、永遠の消失を意味することが多かった。
「水野、新宿地下鉄プロジェクトの入札書類の進捗は?」
水野は我に返った。「あ、80%完了しています。午後三時までには必ずお持ちします」
藤原は頷いたが、彼女の震える指に気付かなかった。彼の目には、水野は単に人員整理を心配しているように映った。全日本マイクロテクノロジーからの確認メールは届いていたが、まだ彼女に告げる時ではなかった。
オフィスでは、様々な噂が飛び交っていた。
「中村課長が新しい会社からオファーをもらったって…」
「本当?部長の紹介?」
「シーッ、声が大きいよ…」
これらの内密の会話は、水野の不安をさらに募らせた。忙しく立ち回る藤原誠一郎を見つめながら、彼女の胸中は複雑だった。この厳格だが責任感の強い上司は、黙々と皆の道を開いている。しかし、彼女の抱える問題は、単なる転職では解決できないものだった。
昼休み、水野は一人給湯室に座り、携帯電話に表示された番号を呆然と見つめていた。それは彼女が必死で探し当てた、行方不明者専門の私立探偵の連絡先だった。しかし、その番号を押す勇気が出なかった。
「もし...もし真実が自分の想像通りだったら...どう向き合えばいいの?」
藤原誠一郎が給湯室を通りかかり、一人で物思いにふける水野の姿を見て、声をかけようとした。しかしその時、松本が慌てて駆けてきた。「部長、アメリカ側から電話です!」
電話対応を終えて水野を探した時には、彼女は既に自席に戻り、仕事に没頭していた。彼には分からなかったが、その時の水野は仕事で自分を麻痺させ、永遠に答えの出ない問いから逃れようとしていたのだ。
夕暮れ時、オフィスから人々が徐々に去っていく。藤原は窓辺に立ち、帰宅する社員たちを見送っていた。彼のスマートフォンには十数通の推薦状が保存されており、それぞれが異なる部下のために書かれたものだった。しかし、水野のものだけは何度も書き直していた。
彼女が最も優秀だということを知っていたからだ。だが彼は気付いていなかった。彼女こそが、最も助けを必要としている一人だということに。
夜七時半、藤原誠一郎はキッチンに立ち、手慣れた様子で夕食の支度をしていた。
疲れていても、自ら料理を作ることは欠かさなかった。これは亡き妻の信念だった——「どんなに忙しくても、家族に温かい夕食を作ること」。まな板の上では、娘の大好きな玉子焼きを作っていた。
「美玲、ご飯できたよ」
リビングからはモダンな音楽が流れ、娘は聞こえないふりをしていた。彼はもう一度声をかけた。
「美玲、先に食べよう」
「分かったってば!」
いらだった返事。食卓で父娘が向かい合って座る。誠一郎は娘に玉子焼きを取り分けた。
「今日の学校はどうだった?」
「普通」短い返事。目は終始スマートフォンの画面から離れない。
「来週は運動会だろう?お父さん、見に行こうか?」
「いいよ」彼女は茶碗の米をつついた。「どうせ忙しいの」
その言葉が誠一郎の心を刺した。確かに、妻亡くなった以後、彼は多くの時間を仕事に費やしてきた。しかしそれは、空っぽの家から、娘との間に広がる溝から逃げるためだった。
「ご馳走様」美玲は突然立ち上がった。「宿題まだ終わってないし」
誠一郎は言葉もなく立ち去る娘を無力な目で見送った。何か言いかけたが、言葉は喉元で止まってしまった。溜息をつきながら、食卓の片付けを始めた。
書斎に戻った彼は、ノートパソコンを開き、水野への推薦状の修正に取り掛かろうとした。画面には全日本マイクロテクノロジーからの確認メールが表示されていた:
「水野千夏様の面接日程が確定いたしました。来週水曜日にお目にかかれることを楽しみにしております…」
藤原誠一郎は携帯電話を手に取り、水野にこの良い知らせを伝えようとした。しかし、呼び出し音が長く鳴り続けても、応答はなかった。
眉をひそめながら、もう一度かけ直す。それでも応答はない。
これは異常だった。水野はいつも彼からの電話にすぐに出るはずだ。直感が何かおかしいと告げていた。
その時、彼の目が机上の書類に留まった——午後に水野が提出した新宿地下鉄プロジェクトの入札書類だ。何かに突き動かされるように最初のページをめくると、彼は凍りついた。
書類の末尾には書かれていた:「藤原部長、この五年間大変お世話になりました」
これは業務報告の口調ではない。まるで…別れの言葉のような。
「まずい!」
彼は勢いよく立ち上がり、上着を掴んで飛び出そうとした。娘の部屋の前を通り過ぎる時に叫んだ。「美玲、お父さん急用で出かけるよ!」
「うん」素っ気ない返事。いつものことのように。
玄関を飛び出した時、左手薬指の陰陽魚の指輪が突然熱くなった。しかし今の彼には、そんな異変に気を配る余裕はなかった。頭の中にあるのは、ただ一つ——新東京第五区桜花庭園508棟の水野のマンションへ急ぐことだけだった。
夜の街を、藤原誠一郎の車が疾走していた。運転しながら、彼は執拗に水野の携帯電話に掛け続けた。長い呼び出し音の後、毎回ボイスメールに切り替わる。
「水野、電話に出てくれ!頼む…」
その声には、普段には見られない焦りが滲んでいた。職場で二十年以上もの経験を積んだベテランが、これほど動揺を見せることは稀だった。
車が第五区に入ると、ネオンの光が車窓に映り込んだ。この地域は旧東京で最も古い居住区の一つで、地下には江戸時代から続く数本の地脈が埋まっていた。そして水野のアパート、桜花庭園は、その主脈の一つの真上に建っていた。
これらの情報は、すべて亡き妻の手帳に記されていた。林玉華は生前、新東京の地脈の分布を研究していて、ここが「生門」の所在地だと言っていた。当時は、この東洋の神秘主義めいた話を気に留めていなかったが、今は何故か不安を感じていた。かつての彼なら、こんな知識を思い出すことはなかったはずだ。しかし今日は、まるで何かが、妻から聞いた玄学の知識を呼び覚ましているかのようだった。
「くそ、どうして今日なんだ…」
左手薬指の陰陽魚の指輪が、極めてゆっくりと、ほとんど気付かないほどの速度で緩んでいた。指輪の内側に刻まれた古い符文が、夜の闇の中で微かな光を放っていた。
また赤信号。いらだたしげにハンドルを叩きながら、ナビゲーションを見る:目的地まであと十分。何故か、今夜の道のりが特別に長く感じられた。
この時の彼には分からなかったが、「死門」から「生門」へと向かっているのだ。一見偶然に見えるこの深夜の救出劇は、実は長い間準備されていた陣法の完成に向かっていた。
水野に八度目の電話をかけた時、指輪がまた少し緩んだ。
藤原誠一郎はブレーキを強く踏み込んだ。タイヤと路面が耳障りな音を立て、ブレーキランプが新東京の夜に赤い軌跡を描いた。そして、桜花庭園508棟に到着した。この一戸建ての古い建物は、夜の中で特に不気味な姿を見せ、二階の窓からは黒い煙が漏れ出していた。
「まずい!」
彼はほとんど車から飛び出すように降り、ドアを閉めることも忘れて一戸建てに駆け寄った。強烈なアルコールの臭いが、焦げ臭さと混ざって押し寄せてきた。一階の窓から、室内で炎が揺らめき始めているのが見えた。
「水野!水野!水野千夏!」
防犯ドアを激しく叩くが、中からの反応はない。周囲を見回すと、隣の庭に園芸用のスコップが置かれているのが目に入った。考える間もなく、スコップを手に取り、ドアの鍵を叩き始めた。
バン!バン!バン!
三回の強打で、防犯ドアの錠前が変形した。全力で蹴り開けると、濃い煙が一気に噴き出してきた。
「水野!どこにいる?!」
スーツの上着を脱いで口と鼻を覆い、身を屈めて室内に突入した。リビングは真っ暗で、上階からかすかな炎の明かりだけが漏れていた。空気中に漂う刺激的なアルコールの臭いで、目から涙が止まらない。
上階からの光を頼りに、素早く階段を駆け上がった。二階の廊下の突き当たりの部屋で、炎が明滅している。中から抑えた啜り泣きが聞こえてきた。
「水野!私だ!藤原だ!開けてくれ!」
ドアは固く閉ざされていた。隙間から覗くと、床一面に液体が撒かれ、濃厚なアルコールの臭いが漂っていた。部屋の隅に人影が丸くなって座り、ライターを握りしめている。
「部長…すみません…」
か細い声が中から聞こえ、直後にライターの点火音が。
「やめろ!」
再びスコップを振り上げ、渾身の力でドアの錠を叩いた。木製のドアが開くと同時に、彼は部屋に飛び込み、自分に火を付けようとしていた水野を抱きとめた。落ちたライターの火が、床のアルコールに引火する。
「早く!」
暴れる水野を引きずるように外へ向かったが、炎は驚くべき速さで広がっていく。廊下は既に煙に包まれ、階段から木材の燃える音が聞こえてきた。
「離してください!死なせて!私なんか、私が…部長に…迷惑を…」
「黙れ!」
階段を駆け下りながら、ほとんど水野を引きずるような状態だった。煙の中で、藤原誠一郎は崩壊寸前の水野をしっかりと抱きしめた。
「いいか、水野…既に新しい仕事を手配してある」
水野千夏は涙目を上げ、信じられない様子で彼を見つめた。
「全日本マイクロテクノロジー半導体だ。建設業界に詳しいマーケティング人材を探している。来週水曜日の午後二時に面接が設定されている」
「部…部長…」
「部下を見捨てるようなことは、私にはできない。君は最も優秀な人材だ、水野。まだまだ長い道のりが待っている」
その声は優しくも力強く、暗闇の中の一筋の光のようだった。水野は涙を溢れさせ、彼の袖をしっかりと掴んだ。
「すみません…部長…これだけじゃないんです…私が弱すぎて…」
「な…何?」
煙を吸い込んで細くなった水野の声。その時、一階のキッチンから鋭い「シューッ」という音が聞こえてきた。藤原誠一郎の表情が一変する。見習い時代に聞いたことのある音、天然ガス漏れの音だった。
「まずい!ガスだ!伏せろ!」
本能的に水野を玄関へ押し出そうとしたが、既に遅かった。轟音と共に爆発が起き、衝撃波で水野は庭の桜の木に叩きつけられ、意識を失った。藤原誠一郎は室内に押し戻され、周囲の火勢が一気に増した。
濃い煙で呼吸もままならない。周囲の温度が急激に上昇する。這って出口に向かおうとしたが、崩れ落ちた梁が通路を完全に塞いでいた。
「私は…ここまでか?」
この生死を分ける瞬間に、誠一郎は多くのことを思い出していた。骨董品のオークションで妻と初めて出会った時、二人で過ごした日々、美玲が生まれた時の幸せな生活、美玲が母親に贈った花冠、妻が病に倒れた日、病院に向かう妻の笑顔、病床で無力だった自分。そして林玉華の臨終の言葉が突然耳元に響いた:
「私に会いたくなったら、指輪を回して…」
左手薬指の陰陽魚の指輪を見つめた。妻の形見のこの指輪は、五年間どれだけ試しても回すことができなかった。しかし今、最後のチャンスかもしれない。
「玉華…」
全力で指輪を回す。驚くべきことに、これまで微動だにしなかった指輪が、ゆっくりと回り始めた。指輪の回転と共に、周囲の炎が不思議な変化を見せ始めた。
炎が歪み始め、まるで目に見えない力に引かれるように、次第に指輪に向かって集まっていく。陰陽魚の模様が青白い光を放ち始め、古い符文も輝きを増した。
藤原誠一郎は指輪から全身に清涼な気が流れ込むのを感じた。驚くべきことに、自分の体から白い煙が立ち昇り、周囲の炎が次々と指輪に吸い込まれていくのが分かった。
「これが…私への守りなのか?」
妻が生前研究していた神秘学、そして「陰陽相生、五行相克」の理を語っていたことを思い出す。今、すべての謎が解けた気がした。
指輪の回転が加速し、室内の炎が目に見えて弱まっていく。白い煙が彼を完全に包み込み、これまで経験したことのない不思議な感覚が全身を包んだ。
その瞬間、林玉華の微笑む声が聞こえ、優しい笑顔が見えたような気がした。この瞬間こそ、彼女が入念に準備していた陣法の完成する時だったのだ。
白い霧の中で、藤原誠一郎は異変を感じ始めた。清涼な感覚が次第に言い表せない痺れに変わり、指先から全身に広がっていく。さらに不気味なことに、周囲から微かな笑い声が聞こえ始めた。
「これは…玉華の声?」
いや、妻の声というより、少女の銀鈴のような清らかな声だった。白い霧は濃くなり、彼の体を完全に包み込んだ。骨格が再構築され、筋肉が組み替えられていくような、言葉では表現できない変化が起きていた。
「う…何が…」
突然、声が見知らぬものに変わった。反射的に喉に手を当てると、滑らかな肌触りを感じた。白い霧が晴れていくと、そこに立っていたのは、もはやあの体格のいい部長ではなく、しなやかな体つきの少女だった。
「これが…私?」
彼…いや、今は「彼女」は自分の体を見下ろした。細い手首、長い脚、そして胸の明らかな膨らみ。スーツは体に合わなくなり、ズボンは今にも落ちそうだった。
しかし、驚いている場合ではない。火の勢いが再び強まり始めていた。気を失った水野が庭に横たわっている。一刻の猶予もない。
最後まで見てくれてありがとう。今、流行している異世界ではないけれど、この物語の中の世界も一種の異世界と言えるかな(笑)。この物語には私が好きな要素がたくさん詰まっていますので、皆さんにも楽しんでもらえたら嬉しいです。
——風華岳岱 & 清風揽月