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内気な私があなたのためにできる、たった一つのこと

作者: ぷよ猫

 人に声をかけることは勇気だ。

 それが日常生活で当たり前のように交わされる、ただの挨拶であったとしても。


「お、おおお、おはようございますっ」


「おはようございます。バートンさん」


 今朝も、どもってしまった。それだけで子爵令嬢ルイーズ・バートンは、もうすでに一日が台無しになってしまったような暗い気分になる。

 挨拶をしたクラスメイトの令嬢が、すれ違いざまにクスッと笑う。

 別の女生徒がその令嬢に近づき、一言、二言、言葉を交わした。それからルイーズのほうをチラッと見て嘲笑を浮かべる。

 ルイーズは恥ずかしさのあまり、真っ赤になった顔を隠すように下を向く。

 いつもそうだ。

 王立学園に入学してからというもの、次こそは上手くやろうと頑張っても、結局は同じ登校風景の繰り返しだった。


 ルイーズには幼い頃からどもる癖がある。七年前に兄のノエルを流行病で亡くして以来、より一層ひどくなってしまい、卒業まであと数か月だというのに一人も友人がいない。

 話しかけても嗤われて距離を置かれてしまうため、ルイーズは自信をなくし、どんどん内気な性格になっていった。けれども長女なので、兄の代わりにいずれ家督を継がなければならない。今後を考えれば、この学園生活で人脈を広げたいところなのだが――。


「彼女、跡取りらしいですわよ」


「妹のユーフェミア嬢は、生徒会の仕事もなさっていて才色兼備ですのに。あれじゃ、バートン子爵家も前途多難ですわね」


 二歳違いの妹ユーフェミアが入学してからは、こんな声がチラホラと囁かれるようになり、ルイーズはますます肩身が狭い。

 ユーフェミアは成績優秀、性格も明るく朗らかで皆から慕われている。そのうえ、美人だ。くるくるとカールしたハニーブロンドと長いまつ毛に縁どられたスカイブルーの瞳、手足もすらっとしている。

 片やルイーズは、どんよりしたグレーの瞳と祖父譲りの黒髪だ。成績は中の上、とはいえ勉強に手を抜いているわけではない。ペーパーテストの点はいいのだが、実技になるととたんに頭の中が真っ白になって、いつも失敗してしまうのだ。つまりコミュ障で、容姿も成績もパッとしない地味な令嬢なのだった。

 成長とともに快活になっていくだろうと大らかに見守っていたルイーズの両親も、学園に入学すると「バートン家の跡継ぎなのだから、もっとしっかりしなさい」と厳しく接するようになった。

『もっと明るく』

『もっと、にこやかに』

『もっと積極的に』

 指摘されればされるほど、ルイーズは期待に応えられない自分を責め、追いつめられていった。

 

(同じ親から生まれたのに、どうして私はユーフェミアのようにできないの? きっと卒業まで独りぼっちね。友達がいたら、毎日がどんなに楽しいかしら……せめて皆から名前で呼ばれてみたかったわ)


 妹はいつも友達に囲まれ「ユフィ」と愛称で呼ばれている。けれど、自分はずっと『バートンさん』か『バートン嬢』だ。名前を覚えられているのかどうかさえ怪しい……と、ルイーズは肩を落とした。


「今日は、イザベル様のお茶会に招待されているの」


「んまあっ、あのギャロウェイ公爵家の?」


「ええ、お母様。生徒会でご一緒しているのよ」


 休日、決まってユーフェミアは母親とこんな会話を交わしてから慌ただしく馬車に乗り込む。

 黙り込んだまま見送るもっさりとしたルイーズに焦れた母親が「あなたもユフィを見習いなさい」とチクリと言うのも毎度のことだ。

 

「は、はっ、はい」


 返事をするとき、またしても、どもってしまう。 

 母親は呆れたように「もういいわ」とため息を吐いた。

 咄嗟に「ごめんなさい」と口にしそうになって、ルイーズはゴクリと言葉を呑み込む。


「し、しっ、失礼しますっ」


 謝ると小言が返ってくるだけだとわかっているので、この場はすごすごと退散するしかないのだ。

 それからルイーズは、父親の執務室へと向かう。人と接することは苦手でもできる限りのことはしようと、空き時間に書類や帳簿の処理を手伝っているからだ。

 彼女にとって、一人静かに父親から託された仕事に没頭する時間だけが安らぎだった。


 そんなルイーズにも婚約者がいる。

 相手は伯爵家の三男アルバート・ノックスだ。彼女が十二歳のとき、当主としての適性に不安を覚えた両親が、同い年の優秀な令息を探してきたのである。


「は、ははは初めましてっ、ルイーズです」


「僕はアルバート。これからよろしく、ルイーズ嬢」


 お見合いの日、ルイーズはアルバートのペリドットのような美しい瞳に目が釘付けになった。澄んだ眼差しでまっすぐに見つめ返され、頬が朱に染まる。恋に落ちた瞬間だった。

 

「こ、こ、こんな私が婚約者で失望しませんか?」


「いや、全然。お互いの足りないところを補い合うのが夫婦なんだと、常々父上がおっしゃっているよ。君の苦手なことは僕がやればいいんだから。その代わり、僕ができないことは君に頼ろうかな」


「ア、ア、ア、アルバート様は、ゆっ、優秀だと伺っております。に、苦手なことなどあるのですか?」


「あるよ、たくさん。これから僕のことを、ゆっくりと知ってもらえたら嬉しい」


 彼はルイーズを嗤ったりしなかった。それどころか優しく微笑み、自信なさげに振る舞うルイーズのことを気遣ってくれたのだ。

 二人の様子を見ていたルイーズの両親は心から安堵し、正式に婚約が結ばれたのである。


「アルバートお義兄さまのように、わたしもお姉さまを支えられるように頑張るわ!」


 姉の婚約を知ったユーフェミアが殊勝に宣言する微笑ましい場面も見受けられ、その後のルイーズとアルバートの仲は順調であった。


『君は字がキレイだね』

『計算も早い!』

『書類の細かいミスによく気がつく』


 アルバートがよいところを次々に見つけて褒めてくれたので、ルイーズは、自分が細かな事務作業に向いているのだと気づくことができた。

 だからきっと、結婚したら社交面はアルバートが、家の中の仕事を自分が受け持つのだろう。これといってアルバートの“苦手なこと”を発見できなかったけれど、ルイーズはそんなふうに漠然と考えている。だから、何も問題はないはずだった。


 ところが王立学園に入学してから、二人はなかなか会えなくなった。成績トップのアルバートが生徒会に所属することになり、急に忙しくなったからである。

 頻繁だったお茶会も、月に一度、二か月に一度と減っていき、一学年が終わるころには次の約束すら交わされなくなっていた。

 生徒会副会長に就任した今では、学園内でもほとんど会えない。おそらく婚約者のルイーズよりも、生徒会に籍を置くユーフェミアのほうが一緒にいる時間は長いだろう。

 ルイーズは寂しかったけれど、仕方がないと思っていた。まだ一年生のユーフェミアですら、自分より早く家を出て遅く帰ってくる。副会長ともなれば、重責も忙しさもそれ以上のはずだ。

 不安を感じることもなかった。なぜなら、これは事業提携のための政略結婚も兼ねていて、絶対に覆らないのだと教えられていたから。


 決して離れない人――。


 その安心感からか、アルバートの来訪が途切れても、両親がルイーズにうるさく言うことはなかった。

 週に一度したためる彼への手紙だけが、辛うじて二人の間を繋いでいるのだとしても。



***



 この日、ルイーズはめずらしく舞い上がっていた。

 生まれて初めてお茶会に招待されたからである。カーラ・マレット伯爵令嬢とは知り合いではないが、学生名簿を暗記していたため、すぐに顔を思い浮かべることができた。アルバートと同じクラスの生徒だった。


(どんな方かしら? きっと優しい人ね。クラスメイトの婚約者というだけの縁で、わざわざ招待してくださったのだから)


 これをきっかけに、友達ができるのではないか。もしかしたら自分にも「ルー」と呼んでくれる仲間ができるのではないかと期待で胸を膨らませていた。

 特に母親は娘の初めての招待状に大喜びして、着て行くドレスを一緒に選んでくれた。淡いピンク色の美しいドレスを。

 父親も「そうか、よかったな。カーラ嬢を我が家の聖夜パーティに招待したらどうだろうか」と早くも年末の予定を思案し始めている。

 浮き立つ両親を横目に「お姉様、無理に話そうとしなくても、微笑んで相槌を打つだけでいいんですからね」と冷静にアドバイスをくれる妹であった。


 しかし、このお茶会は楽しいものとはならなかった。

 メンバーは六名、ルイーズ以外はいずれも伯爵家以上の令嬢たちだ。

 テーブルの末席に案内されたルイーズは、隠そうともしない彼女たちの敵意にあてられ、手のひらにじっとりと嫌な汗をかく。


「あなたがアルバート様の婚約者だと知って、心底びっくりしましたわ。ねえ、皆さま?」


「ええ、そのとおりですわ」


「わたくしも驚きました。あの優秀なアルバート様がバートン家の婿に入ると聞いて、てっきりユフィのことだと思っていたのですもの」


「わたくしもですわ」


「わたくしも」


 第一声を発したのは主催者のカーラではなく、その隣のイザベル・ギャロウェイ公爵令嬢だった。

 釣られるように、ほかの令嬢たちも口々に賛同する。


(ユーフェミアはイザベル様のお茶会に出席していたわ……)


 おそらく、そこでアルバートの婚約者の話になったのだろう。けれどルイーズは、なぜ敵意を向けられているのかわからずにいた。

 それに婿入りするのに結婚相手が跡継ぎの自分ではなく、妹のユーフェミアだなんてあり得ない。何か誤解があるのかもしれないと、おずおずと口を開く。


「あ、あっ、あのっ、カーラ様、こ、これは……」


 助けを求めるように視線を移すと、カーラが嫌悪感を露わにして顔を歪ませた。


「わたくし、バートンさんに名前を呼ぶことを許しておりませんっ!」


 ぴしゃりと告げられ、ルイーズは慌てて「も、も、申し訳ございません」と謝罪する。

 緊張で喉はカラカラだが、カップの中は空っぽだ。明らかな嫌がらせだった。仮にお茶が入っていたとしても、今飲んだら何を言われるかわからない恐々とした雰囲気ではあるが。


「バートン嬢、あなたご存じ? アルバート様とユフィは想い合っているのよ」


 カーラが落ち着くのを見計らって、イザベルはおもむろに話し始めた。

 生徒会のメンバーを中心に、そういう噂が広まっているのだという。実際に二人で居残りをする姿を見かけた者も多く、その親密ぶりは疑いようもないのだ、と。


「えっ……」


 初耳だった。家でのユーフェミアに変わった様子はなく、アルバートへ送った手紙の返事がないのもいつものことだ。気にならないと言えば嘘になるが、もともと筆まめな人ではないので、ルイーズはそんなものだと自分を納得させていた。

 しかし、このところまともに会うこともできず、手紙の返信さえない原因が彼の心変わりだとするなら……ルイーズの顔がサッと青くなる。


「それでね? わたくし、先日のお茶会でユフィに自分の将来について尋ねてみたの。彼女、健気にもアルバート様を支えるために子爵家に残るそうよ」


 イザベルはそう言って顔をしかめた。

 するとユーフェミアに同情するかのように、カーラも口を開く。


「それでしたら優秀な者同士、ユフィとアルバート様が結婚すればよいのではとアドバイスしたのですけど、『わたくしは次女ですから』なんておっしゃるのよ。その顔があまりにも悲しげで、見ていられませんでしたわ」

 

 その言葉に、ほかの令嬢たちが大きく頷いて同意した。

 

「でもね、いくら優秀でも我が国の爵位の継承は長子優先と決まっていますでしょう? よほどの理由がない限り、廃嫡は無理ですものねぇ」


「病気だとか」


「犯罪者だとか」


「あら、犯罪者では、家名に傷がつきますわ」


「わたくしでしたら、修道院へ入るかもしれません。なんといっても、愛する婚約者と可愛い妹のためですもの」


「それが家のためにもなるとあらば、貴族として当然の選択ですわね」


 令嬢たちにネチネチと言われながら、ルイーズはやっと気づいた。この人たちは、自分を吊るし上げるために呼んだのだ。


(邪魔者は身を引けと言いたいのね……)


 散々な言われように反論する気になれないのは、それが事実だったからだ。

 自分がいなくとも、ユーフェミアが跡継ぎになり政略結婚は履行される。そして相思相愛の二人が結ばれ、アルバートは妻の欠点を補う必要もなくなるのだ。優秀な者が跡を継げば、両親だって安心するだろう。いいことづくめではないか。

 覆らない婚約とは家同士のことであって、個人ではない……ルイーズは震える手で自身の薄ピンクのドレスをぎゅっと握った。


「そうねぇ、わたくしだったら……」


 イザベルが紅茶を一口飲んでから、考え込むように言う。


「『迷いの森』へ行くかもしれないわ」


『迷いの森』という言葉に場がどよめいた。

 その森は入ったら最後、出られないと言い伝えられているからだ。


「イザベル様、『迷いの森』だなんて……」


「だって修道院に入るにも持参金が必要ですもの。それに婚約者の幸せのために身を投げ打つなんて、まるで戯曲のようではなくて? ふふ、ロマンティックだわ」


「それもそうですわね」


 イザベルの屈託のない口調に、皆が笑った。

 その中でただ一人ルイーズだけが、呆然とティーカップに描かれた赤い薔薇を見つめていたのだった。


 家に帰ったルイーズは、お茶会はどうだったかと両親に尋ねられ「有意義だった」と答えた。あんなに喜んでくれていたのに嫌がらせをされただなんて、とても言えない。


(有意義だったのは嘘じゃないわ。だって……)


 自分がいないほうが皆が幸せになれるのだと、わかったのだから。



***



 あれからルイーズは、何度もアルバートに『大切な話があるので会いたい』と手紙を送っていたが、返ってくる答えはいずれも『多忙のため、もう少し待ってほしい』というものだった。

 年末まであと一か月を切り、間もなく学園は長期休暇に入る。そうしたら、聖夜に開かれるホームパーティまで顔を合わせることはないだろう。

 ルイーズは迷った末に、昼休みならアルバートも少しは時間が取れるのではないかと考え、思い切って生徒会室へ会いに行くことにした。

 彼に尋ねたいことはただ一つ、噂は本当なのかどうかだけ。

 ユーフェミアに訊かなかったのは、はぐらかされてしまうような気がしたからである。それに、やはりアルバートの本心を知りたかったのだ。


「副会長なら、資料室にいますよ」


 生徒会室から今まさに出て行こうとしている男子生徒に教えられ、ルイーズは資料室へと足を運んだ。

 扉の前でノックをしようとした手が止まったのは、中から男女の笑い声が聞こえたからだった。


「……ったよ。ユフィ、やっぱり君がいないとダメだ」


「ふふふ、まったくアルは調子がいいんだから。お姉様には内緒よ?」


「ああ、わかってる」


 まぎれもない婚約者と妹の楽しげな声に、『二人の親密ぶりは疑いようもない』というイザベルの言葉が、ルイーズの脳裏をよぎった。スーッと血の気が引く。


(あの二人はアル、ユフィと呼び合っているの? 君がいないとダメ? 私に内緒ですって? そう……アルバート様は私の大切な話を聞く時間はないのに、ユーフェミアとは笑顔で秘密を分かち合う余裕はあるのね)


 婚約者の自分でさえ、アルバート様と呼んでいるのだ。確かに親密だ。ルイーズは引き返したい衝動に駆られたが、このままではいけないという思いが彼女を押しとどめた。

 今逃げたところで、誰も幸せになれない――。

 グッとこぶしを握った。そして次の瞬間、意を決して勢いよく扉を開け放つ。

 バンッと大きな音とともに現れたルイーズに、二人は驚愕の顔で、反射的にパッと手を引っ込めた。


「お姉様? こんなところにまで、どうしたの?」


「そ、そうだよ。忙しいと伝えておいたのに、急に訪ねて来るなんて」


 目を丸くするユーフェミアの横で、あたふたしながらアルバートは言う。

 なんとなく何かを隠しているような、そんな雰囲気をルイーズは感じ取っていた。そしてそれは、訊くまでもなく二人が恋仲だということなのだ。


「か、か、か、確認したいことがあったのよ。で、でもっ、もういいの。う、噂が本当だとわかったから」


「噂だって? 君は、噂話をしにここへ来たのか」


 君――。

『ルー』でも『ルイーズ』でもない。君、なのだ。

 妹のことは『ユフィ』と親しげに呼ぶのに、自分は今、名前どころか蔑むような冷たい視線を向けられている。

 ルイーズの心がみしりと音を立てた。

 もういい。もうたくさんだ。全部、終わりにしよう。


「わっ、私はっ、『君』なんて名前じゃないわっ! う、浮気者の婚約者なんて、こ、こ、こちらからお断りです。いっ、妹とお幸せに。さ、さよなら、()()()()()()っ」


 ルイーズは思いっきり叫んでから、くるりと身をひるがえした。

 意表を突かれたアルバートは、ポカンと口を開けたまま微動だにしない。


「お、お姉様? ちょっと待って、お姉様っ……」


 ユーフェミアの呼び声を背に、ルイーズは全速力で廊下を駆け抜けていった。



 午後の授業がまだ残っているというのに、帰り支度をして教室を出て行くルイーズのことを誰も気に留めなかった。

 ルイーズは辻馬車を拾い、屋敷とは反対方向へ走り出す。帰りたくない、いや、帰れない。


『お父様、お母様。

 邪魔者は消えることにします。

 今まで、本当にありがとうございました。

 どうか、ユーフェミアとアルバート様が結ばれますように。――ルイーズ』


 馬車に揺られながら書いた文字はガタガタだったけれども、なんとかルイーズは破ったノートに走り書きのメッセージを残した。それをバートン家に届けてもらえるように御者の男に手配を頼んでから、別の辻馬車に乗り換えて目的地を目指す。


 迷いの森――。


 修道院に入るための金がなく、頼れる知り合いもいない今のルイーズにとって、行く当てはそこだけだった。

 両親があのメッセージを読む頃には、自分はもう森の中にいるはずだ。一度入ったら出られない場所へなど、誰も探しに来ないだろう。


(これでいいのよ、これで。私さえいなくなれば……)


 ルイーズの瞳から、とめどなく涙があふれた。


 夕暮れになり、雪がちらついてきた。

 馬車を降りたルイーズは、羽織ったコートの襟を立てて寒さを凌ぐ。そして一歩一歩踏みしめるように、鬱蒼とした森の中を分け入った。

 時折、ヒュゥと強風が吹きつける。冷たい雪粒が鼻先の肌に溶けて、チリチリと痛い。

 しばらく無心で足を動かしていたルイーズだったが、辺りが闇に包まれると一気に恐怖が襲ってきた。

 もうどれくらい歩いただろうか。右も左もわからない、一体どこへ行けばいいのだろう。しかしその直後、真っ暗な道なき道を手探りで進みながら、もう行くべき場所はないのだと、ふと気づいた。ここで、いいのだ。

 ルイーズは近くにあった巨木の根元にもたれかかるように腰を下ろす。もう恐怖はなかった。むしろ安堵していた。やっと楽になれるのだ、と。



***



「お嬢さん、お嬢さん」


「ん……」


「もしもーし、お嬢さん、こんなところで寝るとカゼひきますよ~」


 耳元で大きな声がして、意識が浮上する。どうやら眠っていたらしい。ルイーズがのっそりと身を起こすと、三人の若い男が焚火を囲んでいた。

 彼らはそれぞれ、木こり、狩人、羊飼いの格好をしていた。しかし、不思議なことに彼らの周りだけ雪が降っていないのである。

 ルイーズを起こしてくれたのは狩人だった。


「あああ、ありがとうございますっ」


「いえいえ、どういたしまして。もうちょっと火の近くにおいでよ。温まるから」


「は、はぁ」


 狩人がのほほんとした口調で誘うので、ルイーズは警戒することもなく三人の輪の中に入っていった。

 パチ、パチと火の爆ぜる音を聞きながら、改めて彼らの顔を見る。赤い髪をしたそばかす顔の狩人、青い髪に面長な顔の羊飼い、そして茶髪と深緑の瞳の……。


「ノ、ノノノッ、ノエルお兄様っ!?」


 そう呼ばれた木こりは、訝しげに眉を上げ、ずいっとルイーズの目前まで顔を寄せた。無遠慮にジロジロと観察したあと、にっこりと微笑む。


「やあ、誰かと思ったらルイーズじゃないか。ずいぶん大きくなったんだねぇ。わからなかったよ」


「も、も、も、もしかして、わっ、私は死んだのですかっ?」


 七年前に亡くなったはずの兄ノエルが、目の前にいるのである。あの頃と変わらぬ若さのままで。ルイーズは、てっきり自分もあの世とやらに足を踏み入れたのだと思った。

 すると三人は顔を見合わせ、ぷっと噴き出した。


「違うよ。ボクらは精霊なのさ。聖夜の前のひと月は、この森でこうして火を囲むのが習わしなんだよ」


 おっとりと羊飼いが言った。


「そうそう、人の姿でね。ちなみにボクは火の精。こっちの羊飼いは雪の精だよ」


 狩人ものんびりと言う。

 三人は焚火の前で、すっかりくつろいでいた。


「それでボクが、木の精というわけ」


 木こり姿のノエルはウインクするが、ルイーズはさっぱり理解できなかった。人間が精霊になるだなんて、常識はずれである。


「ノッ、ノエルお兄様は、な、な、亡くなったあと、せせせ、精霊に生まれ変わったのですか?」


 精いっぱい知恵を働かせて尋ねると意外な答えが返ってきた。


「う~ん、逆かな。人間として生活してみたくて、あの家にお世話になっていたのさ。まあ、学生が留学するようなものだよね。だから十五歳でこっち側に戻ってくることは予め決まっていたんだよ」

 

 戻ること(イコール)死だ、と悪びれもせずにノエルはのたまう。精霊にとって命は自然の循環にすぎない、と。そこに寂しさも悲しみもないのだった。


「そ、そ、そんな。あ、あんなに泣いたのに……ひ、ひ、ひどい……」


 熱に浮かされ苦しそうにしていたノエルの姿が忘れられない。あのときを思い出すと今でも涙が出る。なのに、当人はケロッとしているなんて……と、ルイーズは鼻を啜った。


「あ~、泣かせちゃった」


「うん、今のは木の精が悪い」


 雪の精と火の精が揃ってルイーズの味方をして、ノエルは困り顔になる。


「ごめんよ。悲しまないように、軽~く忘却の魔法をかけたんだけど、ルイーズには効かなかったみたいだね。たまにいるんだよ、そういう体質の人が」


 皆はノエルのことを覚えてはいるが、忘却魔法の効果で『言われてみれば、こんなヤツがいたなぁ』と懐かしむ程度なのだという。だから兄を亡くした苦しみをさほど感じずに乗り越えられるはずだったと聞かされて、ルイーズは愕然となった。


「精霊が人間の世界に入り込むと(ひず)みが生じるから、いろいろ大変なんだよ。ボクがあの家に生まれたせいで、ルイーズの話し方もおかしくなっちゃったし」


「こ、こ、これは、ひっ、ひ、歪みのせいなんですかっ?」


「もともとボクはいないはずの存在だからね、次に生まれたルイーズに影響が出たのさ。キミの体内のエネルギーが、少~しだけ空回りして乱れちゃってるんだ。でも普通は成長とともに整うはずなんだよ? おかしいなぁ、ボクが去る前は、こんなにどもってなかったよねぇ」


「ノ、ノ、ノエルお兄様がいなくなってから、こ、こんなふうになって」


「ああ、なるほど、ルイーズはデリケートだからね。そういう人って、ボクらの影響を受けやすいから気をつけないと」


 ノエルは納得したように膝を打つ。


「気をつけろと言われても、困っちゃうよね~?」


「は、はい……きっ、気をつけようがないので」


 雪の精が、困惑しているルイーズに気づいて声をかける。

 火の精も「そうだ、そうだ。どうにかしてやれ」と加勢した。


「う~ん。それじゃあ、後ろを向いて力を抜いてごらん」


 火と雪の精から向けられる視線の圧に押されるように、ノエルがじりじりとルイーズの方へとにじり寄る。

 ルイーズは素直に背を向け、ノエルがその両肩をつかんだ。

 すると肩に置かれた手の平から、じんわりと温かいものが流れ込んできた。それはルイーズの体を満たしたあと、緩やかに循環し始める。ぐるり、ぐるり、と。長年の澱みがなくなっていくような、スッキリとした感覚だった。


「これでよし! どう?」


 ルイーズは「体が軽くなりました」と答えた瞬間、驚きの表情を浮かべ瞳を瞬かせた。


「え……? ノエルお兄様、私、しゃべれます。普通に……信じられない!」


 これまで何をやっても改善しなかったのに、言葉がスッと出てきた。ルイーズは感激のあまり、うわずった声になった。

 ノエルも満足げに微笑む。


「それはよかった。今日は成長したルイーズに会えて嬉しかったよ。だけど、そろそろ帰ったほうがいい。遅くならないうちにね。森の出口まで送っていくから」


 とたんにルイーズの顔が曇る。もう家には戻れないのだ。


「私、このままノエルお兄様と一緒にいたいわ」


 ノエルが何か言いかけたところで、火の精が「そもそもお嬢さんは、なんでこの森に来たのさ?」と割って入った。


「そうだよ。ここは常人が入り込めない惑わしの森さ。お嬢さんがひょっこりやって来るような場所じゃない」


 雪の精は心配そうに、元気のないルイーズの顔を覗き込む。

 ノエルも優しくルイーズの黒髪を撫でた。


「何があったか、話してごらんよ」


 ルイーズは兄に促され、ポツポツとこれまでの経緯を打ち明けた。

 跡継ぎとして両親の期待に応えられない罪悪感。

 王立学園に入学してから、婚約者と会えなくなったこと。

 友達ができないこと。

 お茶会での嫌がらせ。

 ユーフェミアとアルバートの恋の噂。

 その噂を確かめに行って、飛び出してきたこと。


「邪魔者の私なんて、いなくなったほうがいいんです……」


 ルイーズは話し終えると、いきなりノエルに頬をつねられた。


「痛っ!」


「それで飛び出してきちゃったの? まったくルイーズときたら、せっかちなんだから」


「でもっ、あの二人が寄り添っているのをこの目で見たんですよ?」


「本人からはっきり聞いたわけじゃないんだろう? そりゃあキミの婚約者の態度はよくないよ。ルイーズをこんなに傷つけたんだからね。だけど、何か事情があるのかもしれないし、誤解があるのかもしれない。相手をぶん殴って吐かせるくらいじゃないと、本当のことなんてわかりゃしないのさ」 


 ノエルに諭されて、ルイーズはしゅんとなる。

 確かに、あの二人の口から「愛し合っている」と言われたわけではない。その前にユーフェミアの制止も聞かずに走り去ってしまった。けれど、あのときのルイーズには二人は親密に見えたし、誤解などないように思えたのだ。


(それに、私には誰かをぶん殴る度胸なんてないわ……)


「まあまあ、もうここへ来ちゃったわけだしさぁ、ゆっくり心の整理をつければいいんじゃない?」


 火の精は、ルイーズの複雑な気持ちを見透かすように優しく取り成す。「なんだったら、ボクのお嫁さんになってもいいんだよ」と冗談めかして笑いながら。

 そのとき雪の精の鼻がぴくっと動いた。


「この森に誰か来たみたい。人の匂いがする」



***



「で、どうする?」


 雪の精に尋ねられたので、ルイーズは戸惑った。なぜ自分に訊くのだろう?


「キミの名を呼ぶ若い男の声がする。きっとルイーズの知り合いだよ」


 目を閉じて、じっと耳をすませていたノエルが言う。

 ルイーズには何も聞こえなかったけれど、木の精は木々を、雪の精は雪を通してこの森の様子を探ることができるらしい。その男は黒いフードから明るい緑色の瞳を覗かせている、そう告げられて思い当たる人物は一人だけだった。


「アルバート様……?」


 まさか、という思いが込み上げる。次に、なぜ? という疑問が。


「どうする? ここは、一度足を踏み入れたら二度と帰れないと人間に恐れられている『迷いの森』だよ。行きと帰りでは道が変わるし、時間の流れも違う。来た者を惑わせる場所なのさ」


「どうするって言われても……」


「じゃあ、見捨てる?」


 火の精に訊かれるが、ルイーズは頭が混乱してしまい、意味がすんなりと呑み込めないでいた。


(見捨てる? 見捨てるって……)

 

 動揺する妹を見かねたように、今度はノエルが口を開いた。


「あのね、ルイーズ。普通の人にボクらの姿は見えないんだよ。たまたまキミは精霊の影響を受けやすい体質だから、こうして一緒にいられるけどね。彼の場合は、迷子になって森を彷徨うことになる」


「アルバート様をここへ呼ぶことはできないんですね」


「そうさ。ボクが道案内できるのはルイーズだけ。放っておくか、彼と一緒に森を出るかはキミが選ぶしかない。たとえ自力で帰れたとしても、ここで三日も過ごせば外の世界は三十年後、四十年後ということもあるんだよ。その頃には誰も彼を覚えていない。二度と戻れないと言うのは、そういうことなのさ。つまり……」


 彼は命の危険を顧みずに、キミを探しに来たんだよ――。


 ルイーズは、ノエルが言い終わらないうちに立ち上がっていた。


「帰ります。アルバート様と一緒に。会って、ちゃんと彼の話を聞いてみます」 


「うん、それがいいよ。さあ、行こう」


 ノエルがルイーズの左手をしっかり握る。

 すると火の精が「もう少し一緒にいたかったんだけどなぁ」と残念そうな顔をして、ルイーズの右手にランタンを持たせた。

 雪の精が「さようなら、お嬢さん」と別れを告げたとたん、雪が降り止んだ。

 ルイーズが二人にお礼を言い、ノエルに手を引かれて一歩踏み出す直前、強風に煽られた草木がザワザワと音を鳴らした。ルイーズの長い黒髪が風に弄ばれて視界を遮る。しかし、それは一瞬のことで、気づけば木々が生い茂っていた場所に一本の道が開かれていたのだった。

 ルイーズはノエルの手とランタンの灯りを頼りに、その道をまっすぐに進んでいった。


「……ズ、ルイーズ…………ルイーズ……」


 しばらく行くとルイーズを呼ぶ声が途切れ途切れに聞こえてきた。


「アルバート様!」


 ルイーズは大きな声で応じた。だが、その声が届いた気配はない。


「ルイーズ……!」


 さらに歩きアルバートの声が、徐々にはっきりしてきた。

 すると、突然ノエルが握っていた手を解いた。


「このまま、まっすぐ行くんだ。もう、ここへ来てはいけないよ」


 背中をトンと押されて後ろを向くと、ノエルの姿は消えていた。


(ノエルお兄様……ありがとう……)


 ルイーズはもう振り返らなかった。「ルイーズ」と自分を呼ぶ声に導かれるように、ひたすらに進む。


「アルバート様……アルバート様!」


 前方から歩いてくる黒いマント姿の男が見えた。彼は被っていたフードを外して正面を向く。ルイーズが好きな、あのペリドット色の瞳が露わになる。そしてルイーズに気づくと小走りになった。


「ルイーズ!」


 アルバートは駆け寄りルイーズを抱きしめた。

 ルイーズはその拍子に手に持っていたランタンを放してしまったけれど、地面に落ちることも火が消えることもなく、ふわふわと宙を漂いながら辺りを照らしているのだった。


「よかった……無事で! 君がいなくなったら僕は生きていけない」


 ランタンがアルバートの顔を照らす。頬に一筋の涙が伝っていた。


「心配かけてごめんなさい。お茶会でユーフェミアと恋仲だと聞かされて、私がいなくなればすべて丸く収まるんだと思ったの。不出来な私よりも優秀なユーフェミアが跡を継いだほうがバートン家のためになるし、その……二人は親しげに愛称で呼び合っていたから、てっきり秘めた恋なんだと」


「恋仲なんて嘘だ! それにルイーズは不出来なんかじゃないよ。いや……僕が悪かったんだ。君は社交が苦手だろう? だから僕らの婚約披露パーティの準備をユーフェミアに頼んだんだ。どうせならサプライズにしようとルイーズに内緒で進めてた。あのあとすぐに僕とユーフェミアが噂になっていることを知って驚いたよ。僕が間違っていた。彼女に手伝わせた仕事は、本来は妻になる君の役目だと母上にも叱られて……。苦手なことをフォローするのは、代わりにやってあげることじゃないんだって、こんな事態になるまで気づけなかった。本当にすまない」


「え……え~っと、サプライズ? だったのね……」


 ルイーズは、アルバートの勢いに圧倒されそうになった。正直、まだいろいろと訊きたいことはある。けれど、今はここに彼がいるというだけで、胸がいっぱいなのだった。


「とにかく帰りましょう。全部聞くから」


「そうだね、話したいことがたくさんあるんだ」


「実は、私もあるのよ」


「その声のことかな」


 クスクスと笑いながら二人は手を繋いで歩き出す。その後ろをランタンがふわりとついて行った。


 

***



 知らぬ間に眠っていたらしい。ゆっくりと目を開けると、ルイーズは見慣れた自室のベッドにいた。


「ルイーズ……」


「お姉様!」


「ルイーズ! 気がついたか」


 涙目の母親、心配げな顔をした妹、ホッとした表情になる父親が、ルイーズを見下ろしている。


(あれ? アルバート様と一緒に森を出て、それからどうしたんだっけ?)


 ルイーズは記憶が曖昧で、どうやって自宅に戻ったのかも思い出せない。


「昨夜、アルバート様が森の入口で倒れているあなたを発見して連れ帰ってくださったのよ」


 母親はくしゃりと顔を歪ませる。そして涙ながらにこれまでの経緯を話し始めた。


 曰く、ルイーズにメッセージを託された辻馬車の御者が、大急ぎで屋敷を訪れたということだった。彼は自分の客のただならぬ様子に、若い娘が何か事件に巻き込まれているのではないかと心配したのだった。娘の失踪に慌てふためいた両親は、ルイーズが乗り換えた辻馬車の行方を捜し始めた。

 一方で、ルイーズに去られて茫然自失となったアルバートは、我に返るとすぐにユーフェミアとともにあとを追いかけたという。しかし一足遅く、ルイーズは学園を出てしまっていた。家に帰ったのだろうと思い、ひとまず二人は、ルイーズの言う『噂』について調べることにした。何人もの生徒たちに尋ねて、初めて『副会長アルバートは婚約者の妹(ユーフェミア)と密かに想い合っている』というデタラメな醜聞が広まっていることを知る。その直後、バートン家からルイーズが行方不明であるとの連絡が入ったのだった。

 そして両親とアルバートたちの情報を整理した結果、カーラ嬢のお茶会のあとに『大切な話がある』という手紙が届いているので、お茶会で何かあったのではないかとの推論に至った。主催者カーラと同じ家格であるノックス伯爵家……アルバートの母親経由で問い合わせてもらったところ、令嬢たちのルイーズへの嫌がらせが判明したのである。

 そのとき両親は、ルイーズとアルバートがまともに会えていなかった現状に驚愕した。来訪がなくとも、学園で親睦を深めているものだと思い込んでいたのだ。

 どういうことかとアルバートを問い詰めて、生徒会の忙しさに加え婚約披露パーティのサプライズを計画していることが発覚した。そのためアルバートは、自分の母親に『サプライズなど、婚約者を蔑ろにしてまでやることではない』と大目玉を食らうことになってしまった。

 それからしばらくして、ルイーズを乗せた辻馬車が見つかった。お茶会での会話を鑑みても、行き先は『迷いの森』で間違いないとの確信を得ると、アルバートは捜索隊の協力を仰ぐ前に一人で屋敷を飛び出し、森へ向かったというのだった。


「す、すみませんでした。ご心配をおかけして……」


 まさか、こんな大騒動になっていたとは。自分の家族のみならず、未来の義母にまで迷惑をかけていたのかと思うと、ルイーズはいたたまれなかった。言葉を失っていると、そっとユーフェミアに手を握られる。

 

「ごめんなさい、お姉様。パーティの準備をぜーんぶやってあげたら、お姉様も楽だし喜ぶんじゃないかと思ったの。どうせなら内緒にしてびっくりさせちゃおうって、勝手に盛り上がってしまって。でも、よく考えれば、逆の立場だったら嫌だな、って。招待客は相手と相談して決めたいし、衣装も自分で選んだ特別なものを着たい。会場の飾りつけだって凝りたいもの。何より、自分の婚約を披露する大切なパーティを、ほかの女性が取り仕切るなんて耐えられない……」


 昨日は招待者リストをアルバートに手渡していたところに、突然ルイーズが現れたため咄嗟に隠したのだとユーフェミアは項垂れた。


「そうね……ショックだったわ。そして羨ましかった。アルバート様に『ユフィ』と呼ばれて、楽しそうに笑っているあなたが」


 ルイーズが本音を吐露すると、ユーフェミアが息を呑む。


「そう見えたのなら謝ります。でも、誓って私たちは親密な関係じゃないわ。もう二度とお義兄様を愛称で呼んだりしません。生徒会も辞めます!」


「いいのよ、許すわ。悪気なんてなかったのでしょう? ただ私のためを思ってしたことだったんだもの、生徒会は辞めなくていいのよ?」


「お姉様……ありがとう。でも、お互いを愛称で呼ぶのは、生徒会の方針なの。イザベル様が『学園内では愛称で呼び合って皆の連帯感を深めましょう』って。彼女は生徒会長の婚約者で筆頭公爵家の令嬢でしょう? 皆、逆らえないの。波風を立てないようにやり過ごすというか……」


 最初は不快感を露わにしていた者も、次第に何も言わなくなった。傍若無人に振る舞うイザベルを、侯爵子息の生徒会長は見て見ぬ振りだという。

 ルイーズは、よもや生徒会がそんな状態だとは想像もしていなかった。


「ということは、生徒会では皆が愛称で呼び合っているの?」


「ええ。イザベル様は連帯感なんておっしゃるけど、本当はお義兄様に『ベル』と呼ばれたいだけ。イザベル様は、優秀で見た目もよいお義兄様のことが好きなのよ。だから婚約者のお姉様のことをやっかんでいて、きっと仲違いさせるためにわざと噂を流したんだと思う。彼女が出席するのなら、お姉様をお茶会に行かせるべきじゃなかった」


 お茶会での会話も嘘ばかりだとユーフェミアは憤る。姉を支えたいという言葉をアルバートのためだと都合よく歪められ、子爵家に残るつもりもない、と。

  

「わたくしも悪かったわ。ルイーズは一生懸命やっているのに、もっと頑張れなんて言ってしまって」

 

 母親は、そっとルイーズの頭を撫でた。


「お父さんも、もっと親身になるべきだった。イザベル嬢の件は、学園に抗議を入れよう。さすがに悪質だ」


 実際にバートン家を始めとする複数の貴族家が、イザベルの悪行に対する抗議を学園側に申し入れることとなるのは、もう少し先の話である。

 ルイーズ以外にも、多くの女生徒が被害に遭っていたのだ。

 この抗議により、淑女の手本となるべき筆頭公爵家の令嬢が、裏では数々の陰湿な嫌がらせを行っていたことが世間に知られ、彼女の婚約は白紙となった。

 醜聞を許さない父親のギャロウェイ公爵は、イザベルを修道院に入れた。その際、嫌がる娘に言った言葉は「それが家のためなのだから、貴族として当然の選択だろう」だったという。

 イザベルに加担していた取り巻きの令嬢たちも、相応の罰を受けた。



 数日後、ルイーズはアルバートに再会した。

 久しぶりのお茶会である。温かいミルクティー、焼き立てのクッキーはサクサクだ。

 時間が経って冷静になると、ノエルや精霊たちとのことは、夢だったような気がしてくる。

 両親はどもりが治ったルイーズのことを喜びつつも、森で相当な辛い思いをしたのだと考えているようだ。いわばショック療法のようなことが起こったのだと。

 それに対してルイーズは何も言わなかった。


「生徒会を辞めてきたよ」


 開口一番、アルバートが言った。

 

「卒業までもう少しなのに、よかったの?」


「もういいよ。空いた時間を、君と……ルーと過ごしたい。年明けは試験もあるし、婚約披露パーティの準備も一からやり直しだから、けっこう忙しいと思うよ? 僕たち」


 アルバートがルイーズを「ルー」と呼んだ瞬間、彼の顔がぶわっと赤くなった。

 ルイーズは紅茶が熱かったのかと思ったが、どうも様子がおかしい。


「アルバート様?」


「好きな子の愛称なんて照れくさくて……だから嫌だったんだよ。手紙もさ、返事をアレコレ考えているうちに次の手紙が届いて、その返事を書いているうちにまた次の手紙が届くんだ。だからつい、返事を出しそびれてしまった。お陰で僕は寂しくなかったけど、音沙汰なしの君は辛かったよね。ごめん」


 照れ屋で筆不精ということらしい。優秀な婚約者にも、苦手なことはあったのだ。だが、反省したのだろう。

 ルイーズはアルバートから『たくさん話したいこと』を手紙でもらっていた。長い長い手紙だった。

 母親やユーフェミアに説明された内容と重複する部分もあったけれど、生徒会長の仕事まで押しつけられていたことや、学園が休みになったら会いに行くつもりだったことなど、ルイーズは彼自身の言葉で綴られた真実を最後まで読んだ。 


「アル」


 ルイーズに呼ばれてアルバートの顔がさらに赤くなる。呼ぶことも呼ばれることも照れくさいらしい。だから、『君』だったのだ。

 そんなアルバートをルイーズは、改めて愛おしく思った。

 

「私、アルバート様を支えられるように頑張るね。これからは社交にも慣れていこうと思う」


 森の中でノエルや精霊たちに会ったことを話すと、彼は宙に浮くランタンを覚えていた。


「そりゃ、目の前で急に道が開けたんだからね。そうしたら、君が現れた。他人に言っても信じてもらえないだろうから、このことは秘密にしておこう」


「ええ。私たちだけの、ね」


 二人は、はにかむように微笑んだ。



 それからルイーズの生活は一変した……わけではなかった。

 ずっと内向的だった性格が、いきなり外交的にとは都合よくいかないものだ。

 それでもルイーズは、相変わらずの毎日を一歩一歩前に進んでいる。

 人に声をかけることは勇気だ。


「おはようございます、グレンダ様」


「おはようございます、バートン嬢」


 落ち込むこともあるけれど、続けていれば、ときに実を結ぶこともある。


「おはようございま――」


「ちょっと、()()()()さん! テスト結果、ご覧になりまして? なんと元副会長のアルバート様に次いで二位ですわよっ」


 クラスメイトの令嬢の声が呼び水となって、ルイーズの周りに人が集まった。

 今回は実技試験に失敗しなかったので、成績がぐんと上がったのである。

 ルイーズはこの日、初めてクラスメイトから話しかけられ、名前で呼ばれた。


 照れ屋のアルバートは、あれ以来ルイーズを「ルー」と呼ぶことはないし、愛を囁くこともない。しかし、二人で過ごす時間は格段に増えた。婚約披露パーティの準備も順調だ。


「待った? ルイーズ」


「ううん、今来たところよ。アルバート様」


「今日の予定は、洋品店でパーティの衣装の打ち合わせだったね」


「ふふ、楽しみ」


 人はすぐには変われないけれど、少しずつ少しずつ歩んだ先に「ルー」「アル」と呼び合う未来もあるのかもしれない。

 そのためにルイーズにできることがあるとすれば、たった一つ。

 この先もずーっとアルバートと一緒にいることだけである。


「あ、降ってきちゃった……」


 店先に馬車が停まり、扉が開くと粉雪が舞い込んだ。

 ルイーズはちらつく空を一瞬見上げたあと、アルバートに寄り添い店の中へと入っていった。



 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(12/27 最後のところ、繋がりが悪いので少し修正しています。すみません)

※誤字脱字報告ありがとうございます。とても助かっております。

※12/30 日間総合ランキング5位をいただきました。ありがとうございました。

皆さまが、明るい年を迎えられますように。

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