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怪奇! 山里なつやすみ

作者: 嬉野 巧

 昔々、とある村が一夜にして更地になっていました。何事かと近隣の人々が騒いでいると、村の境目に住んでいる人が青い顔をしてやってきました。

「鬼がいたんだ……」

 彼が言うには、夜中に三匹の鬼がやって来て村を丸ごと食べてしまったと。村人たちはあまりに怯える彼の姿と実際に無くなった村に恐れおののき、皆で一つ隣の村へ引っ越しました。

 それから、また一つまた一つと村が消えるたびに人々は住処を転々としていきました。ですが、鬼は留まることなく人々は山まで逃げることになりました。ふもとの村が消えたら次に行く場所はありません。人々は最後の祈りを山に捧げました。

「助けてください。どうか我々の住処をお守りください」

 皆で山のあちこちへ祈りながら山頂まで登り、人々は眠りにつきました。明日の朝起きてふもとを見下ろしたとき、我々は運命を受け入れなければならない。誰かの言葉を胸に、不安な夜を迎えました。

 その夜更け、寝付けずにいた人々は騒がしい物音に体を起こしました。

「おい! ふもとを見てみろ!」

 呼びかけに応じて皆が起き上がり、村を見下ろしました。そこでは何匹もの動物たちが巨大な鬼と争っていました。

「祈りが通じた!」

 動物たちは夜通し戦い続け、夜明けとともに鬼たちは消えました。その日から村が消えることはなくなり、村人たちは動物たちを英雄として称えることとしたのです。

 これが其ノ山に伝わる「妖怪伝説」です。

「んー」

 スマホの画面に映る文字を最後まで読み終えて画面を閉じた。車窓の外はすでに自然にまみれている。

「次は、其ノ山~其ノ山~」

 車内放送の声が次の行き先を告げた。


 カタンカタン。乗ってきた電車の音が遠ざかっていった。駅を背に広がる空、茂る樹々を眺める。蝉の声がうるさく、遮るものが無い日差しで額に汗が流れた。

 緩やかな上り坂の先に角ばった建物が見える。近くの案内板に日陰も求めて駆け寄った。

「あれかな」

 地図の脇に貼られた写真と比べて、建物の名前を特定する。リュックに引っ掛けておいたボトルから水を飲んで、少年・森内逞は歩き出した。

 ぼこぼこのアスファルトに並び立つ一軒家、軽トラックが横を走り抜けていく。タオルで汗をぬぐいながら坂を上り、逞は「市民交流センターぽっぽ」の看板が付いた建物に辿り着いた。

 ギイという音を立てて扉を開ける。パンフレットが並べられた入り口は静かだ。きょろきょろ、とあたりを見渡すが人の姿は無かった。スマホの表示は十一時、待ち合わせピッタリだ。

 空間の隅、かすかに薄暗いベンチに腰掛けて携帯を取り出した。「着いたよ」と文字を打ち込み送信すると、タオルで頭をガシガシと拭いて一息つく。

 チン! 高い音がして視線を向けると、エレベーターの扉が開いた。中からつなぎを着た女性が台車を押して降りてきた。パチッと目が合った瞬間、真っ赤なリップが視界に飛び込んできて逞はつい目を逸らした。

 彼女は台車をエレベーターから降ろすと、それを端に寄せてこちらにやってきた。逞はよそを向いていたが足音で近づいてきているのが分かる。

「森内さんとこのお孫さんかな?」

 声をかけられて、振り向く。その女性はしゃがみこんで逞を見上げていた。暗がりのせいか赤い色が目立たなくなって幾らか警戒も薄れた。

「はい。ここで待ち合わせしてます」

「そうだよね。おじいさんもおばあさんも、二階の図書室にいるから。行ってみて」

 それだけ言うと、つなぎの女性はサッと身を引いて台車と共に外へ出ていった。逞はその姿をぼーっと流し見ながら、エレベーターに乗り込んだ。

 扉が開くと、すぐ先に本棚がずらりと並んだ部屋があった。「開館中」と札があったので中へ入ると、ぽつんと置かれたテーブルで図鑑を開いている人がいた。逞はそこに早歩きで寄った。

「じいちゃん……!」

 声を押さえて呼びかけると、じいちゃんは顔をあげた。

「おぉ逞。じいちゃんこの本戻してくるから、あっちに居るばあさんに声かけてきてくれ」

 図鑑をもってじいちゃんが席を立ったので、逞は言われた通り窓際に向かった。外を眺められるように設置されたソファに眼鏡をかけた女性が座っている。

「ばあちゃん、久しぶり」

 逞が声をかけると、ばあちゃんはこちらの顔を確認した。パタンと小さい本を閉じ、眼鏡をはずすと「いらっしゃい」と答えた。

 タッタと歩き始めたばあちゃんの背に着いて歩くと、じいちゃんもそれに加わった。

「逞、外暑かったろ~。家に行ったらな、冷たい飲み物あるからな。昼はそうめんか? スイカか?」

 ばあちゃんの道案内に従いながら、じいちゃんがひたすら話しかけてくる。屋外に出るとばあちゃんはパッと日傘を開き、じいちゃんはそのまま「後でこの辺の遊び場おしえるからの。あっちには水辺がある」とお喋りを続けた。

 じいちゃんがふぅと一息、汗をぬぐうために話が止まったタイミングで逞は質問をした。

「さっきの所で、じいちゃん達が上にいるって教えてくれた人がいたんだけど誰? つなぎで台車引いてた女の人」

「え? おーん」じいちゃんが唸っている。

「早輝ちゃんじゃないの」

 ばあちゃんがそう言うと、「そうね」とじいちゃんが頷いた。

「それ多分な、早輝ちゃんいう子で、さっきの図書館とかもっと奥にある資料館の管理しとる。歳はえ~と大学出て五、六年とか言ってたから、逞の十五くらい上か」

「へ~」

 逞は気の抜けた返事しながらもっと奥、交流センターの先に広がる森林を眺めた。見上げる角度では木しか見つけられない。

「明日じいちゃんが連れていくからの。一本道だから一度行けば迷わん」

 うん、と頷いて先を行くばあちゃんに視線を向けると、どこか見覚えのある一軒家が覗いていた。真っすぐ歩くばあちゃんに着いて、逞はその家の塀の中へ入った。

 翌朝。逞はじいちゃんと横並びで緩やかな傾斜の坂をグネグネと登っていた。日差しが眩しいが、ひんやりした風が肌を冷やしてくれている。

 半分ほどがツタに覆われたその建物は、周りに生えた木の影とギラギラの太陽光で妙なコントラストを有していた。入り口に「郷土資料館」と書かれた木の立て札が寄りかかっている。

 じいちゃんはガラスの扉を開けて中に入ると、空っぽの受付に置かれたベルをちーんと鳴らした。甲高い音がだだっ広い展示室に響き渡る。振動の余韻が収まる頃、階段の上からコツコツと足音がした。

「あ、森内のおじいさん」

 顔を覗かせたのは少女だった。逞と同じか少し年下に見える。じいちゃんは手を挙げて「お、和歌ちゃん」と呼び掛けた。

「早輝ちゃんおらんの?」

「管理人さんは、出かけて行っちゃった。お昼には戻って来るって」

 そう答えた和歌は、チラチラと逞に視線を向けた。その視線に気が付いた逞と目が合うと、彼女は「はじめまして」と会釈をした。

「はじめましてー……」逞が返す。

「これ孫。あちらは近所の子」

 固い顔の二人の間にじいちゃんが入った。手招きを受けて和歌が階段を降りてくる。

「同い年じゃしこの辺で遊んどったら顔合わせるから、自己紹介しておき」

「四年生?」

 逞が尋ねると和歌は頷いた。

「加倉井和歌です。えっと、其ノ山小学校の。あなたは違うよね?」

「違う、他所から遊びに来たから。名前は森内逞。二週間ぐらいだけど」光で輝く目を見て手を差し出した。

「よろしく」

「うん。森内くん」

 和歌と握手を交わす。じいちゃんが「んじゃ、早輝ちゃん来るまで見て回るか」という後ろに二人で着いていった。

 展示に向かって「なんじゃっけ」というじいちゃんに、和歌が解説をしている。その笑顔から和歌がこの場所を好きなことが伝わってきた。

 大きく壁一面に広がる、巻き物だろうか。何体もの生物が描かれており、戦っているようだ。和歌は「妖怪伝説」と言っている。解説板では「聖獣と妖怪の対立図」とあった。

一階の展示室を見終え、休憩のためにソファへ腰掛ける。そこへ、ガタンと音がした。ガラガラと台車を転がして、つなぎを着た女性が入ってきた。

「あれ! 森内さんと、こんにちは。二回目ですね」

 和歌、じいちゃんから逞に彼女の視線が向く。ソファに座る逞に合わせてしゃがみこんでくれた。昨日に続き、絨毯の色と同じリップが塗られていた。

「こんにちは。森内逞です」

 鮮やかな展示室に鮮やかなメイク、今日は薄汚れたつなぎが浮いて見えた。

「孫。二週間おるから、よろしくの」

「任せてください」

 じいちゃんの頼みに、彼女はにっこりと笑って返した。

「アタシは花咲早輝。困ったことがあればいつでも頼ってね! このあたりだと一番体力有るから。もちろん、なーんにも無くてもウェルカムだから」

「今日はいなかったけどね」和歌が呟く。

「和歌ちゃ~ん。いないときは張り紙出してるから大目に見て」

 テヘ、と手を合わせて謝ると、早輝はスッと立ち上がり手招きした。

「逞くんはココ、初めてだよね。良いものがあるから上の資料室へどうぞ~」

 逞が言われるままに立ち上がると、和歌もそれに続いた。

「早輝さん、私も」

 早輝はそれに頷くと、じいちゃんに尋ねた。

「森内さんはどうする?」

「いい、いい」じいちゃんは手を振って断った。「逞、昼飯用意しとくからの。二人も腹減ったらおいで」

 そう言ってじいちゃんはのんびり出口へ歩き出した。早輝は「また来てくださいね」と呼び掛けると、逞と和歌を連れて階段を登った。

「良いものって……」逞が呟く。

「さっきの展示室にあった巻き物、覚えてる?」和歌が話に応じた。「あれ、妖怪伝説が書かれてるんだけど、ほかにもたくさんあるんだよ」

 うんうん、と早輝が頷いている。

「ギリ観光資源になってないけど、この辺りに伝わる小話。勇ましい話も怖い話もあるけど、頭の片隅に入れておいて欲しいの」

 早輝は二階へ着くと、鍵のかかった扉の前に立った。カチャカチャと形の異なるいくつかの錠を外していく。

「さぁ、どうぞ」

 早輝が扉を開いた。だが、部屋は薄暗く先を見通せない。逞が扉の前で様子を伺っていると、早輝はスタスタと入って行きカチッと明かりをつけた。

「そんなに明るくないけど、資料の為にわざとしてるんだって……行こうか」

 和歌がポツリとこちらに言い残して部屋に入った。続いてオレンジの光に包まれた資料室へ、逞も足を踏み入れた。

 本やメモの張られた箱が棚にずらずらと並んでいる。一人分の通路だけ開けてそそり立った棚を抜けていくと、部屋の隅にパッと開けたスペースがあった。

 机にパソコン、紙の束や鉛筆に照明。ごちゃごちゃしているが、作業スペースだろう。その横にはガラスケースが鎮座していた。

「妖怪伝説!」

 真っ先に声をあげたのは和歌だった。彼女の視線は散らかった机の上に向けられている。

「早輝さん、また散らかして」やれやれ、とゴミ箱片手に消しカスを掃いている。「せめて資料は箱に入れたほうがいいよ……」

「ナウで研究が佳境でさ~。この部屋自体整った環境だから、ついね。ゴメンゴメン」

早輝はそう答えながら積み重なった資料を薄い箱にしまい始めた。逞は手持無沙汰でボーっとガラスケースの中身を覗いた。

二冊の本が静かに置かれている。ケースの端には鍵がかけられていて、厳重という言葉が似合う。表紙に「聖獣・虎」「聖獣・亀」と記されていた。

「キミに見てほしかったのはコレなんだ」

 本をのぞき込む逞に早輝が話しかけた。鍵を開けて中の本を取り出して見せる。パラ、パラと一枚ずつ紙がめくられると虎の絵が現れた。

 そこからパラパラッと速度が上がる。絵の中の虎が颯爽と走っている。駆ける虎はぐるりと進路を変えてこちらに向かってきた。最後の場面で虎はこちらに大きな爪と手を向ける、そこで本は閉じた。

「すげぇ! パラパラ漫画? こんなに古そうな本なのに」

 逞は早輝が持つ本を受け取ってジッと眺めた。ざらついた感触、虫食いのある茶色の紙が紐でまとめられている。その中でシンプルな黒い筆書きだけの虎が存在していた。

「そう、すごく古くて凄い。宝物なの」

 早輝は少し眉を下げながら教えてくれた。逞からそっと本を返してもらい、彼女はガラスの中に戻した。

「綺麗に写した画像があるから、事務室に行こう。そこで私の話、聞いてくれる? お菓子とジュースがあるよ!」

 逞が頷くと、和歌と逞の二人を連れて早輝は資料室を出た。扉が閉まる間、逞は虎の姿を思い浮かべて暗闇を振り返っていた。

 入り口の受付からチラリと見えるその部屋は扉に「事務室 関係者以外立ち入り禁止」とあった。冷蔵庫に固定電話、パソコン。また机の上には紙が散らばっている。

「あそこ座ってて~」

 早輝がパーテーションで区切られた箇所を指差した。向かい合わせのソファと艶のある木目のテーブルが設置されている。

 ソファに逞と和歌が横並びで座ると、早輝は冷蔵庫から紙パックの野菜ジュースを取り出しながら話し出した。

「展示室の大きな巻き物は見た? この地域の伝承を端的に表しているの」

「妖怪と動物のやつ?」逞が答えた。

「そう! 聖獣については残念ながらあまり手元に資料が無いんだけど、妖怪についての物は豊富にある」

 早輝は近辺の地図を広げ、タブレット端末に一枚の写真を写しだした。一対の小さい妖怪と大きな体の一匹、計三匹の妖怪が描かれている。

「この山奥には大妖怪が封印されている。と言われていて、それがもうすぐ解けるって内容の本なの」

「へー、面白そう!」

 逞が妖怪を興味深く見つめる。早輝はそれに「関心持ってくれるだけ嬉しいわ」と言って続けた。

「だから、この山奥には近づいてはいけない~って話、これが絶対したかった。ま、普通に傾斜あるし道の整備もいまいちだし、妖怪が出なくたって危ないから」

「この話何回目?」和歌がこぼした。

「次、楽しい話になるから。逞くん、行っちゃダメって話。ね、約束してくれる?」

 逞が「分かった」と頷くと、早輝は笑った。

「良かった~! じゃあ和歌ちゃんも好きな妖怪伝説いっちゃおうか?」

「おー!」と和歌が声をあげた。

 二人の楽しそうな様子に、先ほどの忠告を頭の片隅に置きながら逞も胸が躍った。二週間は長いと思っていたが、楽しいことも多そうだ。


 次の日、逞は七時に起床した。祖父母と朝食の餅を食べて、八時に家を出た。

「暗くなる前に帰ってくるようにの。迷ったら電話かければ迎えに行くから~」

 じいちゃんが玄関から見送ってくれている。手を振って応え、逞は歩き始めた。早輝と和歌との待ち合わせは資料館の前に九時。早く家を出たのは寄りたいところがあったからだ。

 広い一本道を上に向かって歩いていく。このまま道なりに進めば資料館だ。たったと進んで行くと駅前と似たような案内板が立っていた。

「其ノ山・案内図」

 山の簡単な地図が貼ってある。中ほどに展望台が作られているらしく、そこまでの道のりが示されていた。逞の目的地はその展望台だった。昨日の早輝の話によると、聖獣と妖怪伝説の祠があるらしい。ばあちゃんによると、「変わった絵が彫られている」石なのだそうだ。逞は案内板をスマホで写真に収めてから横に伸びた道に歩き出した。

 木々が茂り、通り抜ける風が涼しい。階段には手すりが、曲がり角には案内板があり、滞りなく進むことが出来た。駅からだと高い位置に見えた交流センターすら見下ろす高さに展望台はあった。

「ちっちゃぁ」

 こぢんまりとした円形の囲いの中にベンチと屋根があるだけ。それでも登って疲れた脚には嬉しく、広がる街並みを眺めると達成感があった。逞はベンチに腰掛けて水筒の水を飲んだ。カランと氷が転がる音がする。

「祠……石……どこだろ」

 座ったまま周囲を見回した。木や草であふれていて見当たらず、逞は立ち上がって探し出した。

「あ」

 丸く磨かれた石が転がっている。その近くにはくぼみがある、これも磨かれた艶のある石が置かれていた。

「倒れてるじゃん」

 逞はしゃがみ込んで転がっていた石を拾い上げた。地面に突っ伏していた面に土がついていたので手でパッパと払う。

 そこには絵が彫られていた。逞は溝に入り込んだ土をはじき出しながら描かれたものを眺めた。

「山」

 ほりほり。石の上部、への字に彫られた筋をなぞっていく。次に左側。

「角、鬼? 三匹」

 ほりほり。最後に右。

「小っちゃいけど、五個」

 綺麗にした全体を見てみる。山を背景に、二つの集団が睨み合っていた。写真を見せてくれた早輝によると「左が妖怪、右が聖獣」だという。

「実際見ても聖獣、よく分かんないな」

 左の妖怪は角の生えた生き物として彫られているが、右の聖獣は四角い印が五つ示されているだけだ。

「ふぅ」

 写真とあまり変わらなかったな、と逞は肩を落とした。絵が彫られた石をもう一つの石にあるくぼみに合わせて置いて立ち上がった。

「びえぇ~!」

 大きな声に一瞬息が止まる。逞は何事かと周りを見渡した。

「ぴぃ~!」

 上の山へ入って行く方向から声がする。小さな子の泣き声のようだ。逞が少しだけ奥に進んでみると、かすかに声が大きく聞こえるようになった。案内板にあったのはこの展望台までだったが、ロープの手すりと石畳の道はまだ続いている。

「おーい、大丈夫⁉」

 逞は呼びかけながら先へ進み始めた。ロープがある限りはそれを目印に戻ってこられる。危険と泣き声を天秤にかけて、ロープが繋がっている場所までは探しに行くと決めた。

「聞こえたら返事してー!」

「ぴぃ~こっちだよ~!」

 呼びかけに返事があった。ロープを伝って歩いていくとハッキリと声が聞こえた。

「こっち、こっちに来て~! しくしく~」

 耳に刺さるように聞こえる方向が分かる。山中に視線を動かすと着物を着た子どもが手招きをしていた。大きな木の横に立ってこちらを見ている。

「大丈夫? 一緒に下に降りよう。おいで」

 逞が声をかけた。だが、子どもは首を横に振った。

「怪我、してる?」

 問いかけながら一歩ずつ子どもに歩み寄る。子はまたいいえ、と首を振った。

「お兄ちゃん、大事なものがここにあるの。取ってくれ」

 子どもはやってきた逞に木の幹を指差して頼んだ。幹には縄が巻かれてお札のような紙が貼りつけられていた。

「え、あれ?」

 コクリと頷き「取って」という子に、逞は木を見上げながら頭を抱えた。試しに手を伸ばしてみたが、もう一本腕が必要なほど高い位置にある。

「無理そう」

「びぃ~!」

 事実を伝えると子どもは大きな声で泣き出した。逞は地面を見回して長い木の枝を拾い、思いっきり腕を伸ばしてみた。枝の先は札の端をかさかさと突いた。

「頑張ってみるけど、無理だったら大人を呼ぼうね」

「がんばれがんばれお兄ちゃん!」

 子どもの応援を受けながら、逞は背伸びをしたりジャンプしたりを試してみた。横で子どもは幹をどんどんと叩いて揺らそうとしている。古いものなのか、だんだんと縄に張り付けられた部分がめくれてきた。

「ふぅ」逞は一息ついて汗をぬぐった。

「フンフン!」

 子どもは幹を叩き続けている。逞はひらひらと揺れている札を見て疑問に思った。

「ね、あれ。君の?」

「違うけど取らないとなの」

 ドンドンと木を殴りながら子どもは答えた。

「どうして? 札って付けておくことに意味があるって聞くよ」

「僕には取ることに意味がある。大事なもののためだから!」

 休みなく動き続ける子どもに逞は「そっか」と呟いて、また札に木の枝をふるった。えいえいと突っついて、ひらり。札がふわりと落ちてきて子どもがそれを拾った。

「お兄ちゃん、ありがとう!」「ありがとう」

「えッ」

 礼を言う子どもの姿が二人に見えた。声も二重に聞こえて逞は強く瞬きをした。ぎゅっと瞑って目を開けて見ると、ただ木々が広がって見えた。

「あれ、あれっ?」

 首を振り回してみても誰もいない。小さい足跡だけが地面に残されていた。ぽたりと汗が垂れて土がにじむ。逞は焦ってボトルから水を飲んだ。

「幻聴幻覚、早く涼しいところ行こ……」

 ぶわっと噴き出してきた冷や汗をぬぐいながら逞は大木に背を向けた。元いた道へ足早に戻っていく逞の後ろでボトンと地面に縄が落ちた。


 資料館へ着いたのは八時四十五分。まだ少し早いが扉に手をかけると開いたので、そのまま押して逞は中に入った。

「早輝さーん」

 返事は無い。だが、上階からかすかに物音がした。階段を登ってもう一度声をかける。

「早輝さんいる?」

「ん、ちょっと待ってくれる?」

 扉が閉まった部屋の中から声がした。鍵は外されている。逞はゆっくり扉を引いてのぞきこんだ。棚と箱の隙間からせわしなく動く早輝の腕が見えた。

 邪魔してはいけない空気を感じる。それでも逞は声をかけた。

「さっき、昨日聞いた山の祠みてきたんだ」

「……うん」

 一拍遅れて返事がくる。聞いてくれてはいるようだ。

「それで、そこに俺より小さい子がいて」

 指先が冷えている気がする。冷房のせいだろうか。

「……ん? 逞くんより小さい子がいたの?」

 早輝が困惑した声で尋ねた。逞が「そう、それで」と言うと彼女は部屋の扉を開けて出てきた。

「おかしいな。この辺、子どもなんて君たち二人だけのはず……どんな子だった? 服装とか名前とか」

「着物だった。名前は聞いてない。けど、その子なんか変でさ」

「うん」早輝が真剣な目で頷いた。

「札を取って欲しいって言って、取れたら瞬きしてる間に消えたし」

「分かった、後は私に任せて。戻って来るまで絶対に山の方には近寄らないで、和歌ちゃんにもそう伝えて。二人共ここで待ってるの。出来る?」

 肩に手を置いて早輝はジッとこちらを見つめている。

「うん、そうします」

 逞が答えると、早輝は「頼んだよ」と言い残して階段を駆け下りていった。入り口のドアを閉める、ガンッという乱暴な音がして彼女にとって緊急事態が起きたのだと感じた。

 九時ちょうど。資料館の扉が開いた音。つられて逞が下を覗くと和歌が入ってくる所が見えた。

「加倉井さん!」

「はい?」

 和歌はきょろきょろと周りを見回してから、逞と驚いた顔で目が合った。

「ごめんデカい声出して! 急ぎの話!」

 タッタと逞が階段を下りていく。「どうしたの?」と首をかしげる和歌にすぐ答えた。

「早輝さんが『二人でここにいて』って走って出ていった」

「え、どうして?」

「俺、朝に山行ってさ。ほら祠」

 和歌が頷く。逞はかいつまんで説明した。

「で、木に貼ってあるお札取って、っていう子どもがいて」

「それ、妖怪伝説にあったかも。お札!」

 和歌が思いついたことを口に出す。逞が「それって」と詳細を尋ねようとしたとき、大きな音が二階から響いた。

 バリン! 鋭い音に二人そろって階段を見た。逞がタタッと踊り場を見上げるとフワリと羽のように浮く物があった。

「なっ」

 目を奪われたその一瞬。それは逞の腹へ飛び掛かってきた。バサッと引っ付いてきたそれを剥がそうと手をかけると、文字が書かれているのが目に入った。

「え、っと」

 バタバタと暴れるそれは逞の体を押し動かしていく。それに抵抗しながら文字を見ると、漢字三文字だった。だが向きが違って読むのに手こずる。

「っと逆向きかぁ?」

 逞がひらめきを得た。そこへ和歌が寄ってきた。

「ちょっと森内くん! どうしたの」

 和歌には逞が一人で後ろ歩きをしているように見えたようだ。困惑した顔で見つめてくる。

「この文字さぁ」

 逞が何の漢字か尋ねようと指で示す。

「え! 聖獣虎もってきちゃったの⁉」

 食い気味で和歌が答えた。

「え? あ、ちょッ」

 話を飲み込む前に腹を押される力が強くなった。背中を押し付けられて入り口のドアが徐々に開き始めている。

「この本、ガラスに仕舞ってたよね。割っちゃったの……?」

 腹に食い込む本をのぞき込みながら和歌が続ける。どうやら資料室で見た虎のパラパラ本のようだ、と逞が理解した時。

「わッ!」

 開いたドアの隙間から体が押し出され、そのまま本によって空へ突き上げられた。

「森内くーん!」

 和歌の声が遠く聞こえる。それより地面が遠くて逞は声すら出なかった。次の瞬間には腹への圧がなくなり、グラリと体のバランスが崩れた。

「ギャッ」

 恐怖で声を漏らしながら、雲をつかむように手を伸ばしてもがく。その手のひらへ宙に浮く本はやってきた。指にかかったページをぎゅっと握りしめると、本はそのまま羽ばたいて逞を連れ去っていった。山へ向かって遠ざかっていくその光景に和歌は唖然として立ち尽くした。

ゆらゆらと不安定な移動に逞は残ったもう一方の手で本の背表紙を掴む。グッと掴んでも反応はなく、どんどんと山中へ向かっていった。木が茂って腕に枝が掠り始めると、逞の耳に人間の声が聞こえてきた。

「やっぱり、本当にいた……!」

 高い声だ。他にも声がする。

「ねぇ~人間一匹だけだよ? つまんないよ」

「妖怪の気配がかなり少ない。これでも貴重な栄養源だ」

 幼い声と抑揚のない声が会話をしていた。視界の端に人影が写り始める。

「早輝さん助けて!」

 見知った人物に逞は思わず声をあげた。地上にいる三人の視線が上空に向いた。

「あっお兄ちゃん! さっきはありがと~」

 着物の少年が大きく両手を振った。それと同時にヒュッと逞の体が風を切る。本が勢いよく下降して早輝と少年たちの間に降り立った。

「逞くん……!」

 早輝の声が心なしか弾んで聞こえる。状況は良く分からないが、幻と思いたかった少年が逞の前に立っていた。もう一人顔立ちのよく似た少年もおり、幻覚だと思ったものがまた現れたような光景だ。

「餌が三つに増えたな。一人で出来るか?」

 鋭い雰囲気の少年がニコニコと逞に手を振る少年に話しかけた。

「三つ?」

 返ってきた疑問に彼は視線で答えた。その先には逞が握ったままだった虎の本がある。

「アァ」笑顔の少年は頷いた。「任せてよ、ちゃ~んと持って帰るから」

 その返答を聞くと、鋭い少年はヒュッと姿を消した。またしても異様な現象に逞はあっけにとられてしまう。

「さ、お兄ちゃん!」

 声をかけられて逞の意識が残った少年に向いた。少年は笑いかけながら懐からお札を取り出して見せた。

「これ取ってくれてありがとうね。お返しにこれがどういうものか教えてあげるね」

 ビリ。そういって少年は手にしたお札を破り捨てた。ビリビリッ!

「あッ!」早輝が声をあげた。「逞くん下がって、こっち!」

 言われるままに少年と距離をとる。はらはらと地面に落ちたお札の紙片が泥のようなものに飲み込まれて行った。泥はそのまま少年の足元から全身を包み込むように登っていくと、やがて頭に鋭い二つの角が突き出してきた。

 体に纏わりつく泥を割って少年の手が自身の頭上に触れた。橙色の光沢をもった角をスルスルと撫でて彼はため息をついた。

「これだけ? もーっ!」

 タンっと地団駄を踏むと少年はこちらを向いた。泥が段々と固まり、まるで兜のように形作られる。滴る泥をブンブンと振り払って少年は泥の甲冑を身にまとった。

「んーっ」

少年は背伸びをしてから、逞に手のひらを差し出した。

「その本くれる? そしたらお兄ちゃんは帰っていいよ」

「ダメ。この本は渡せないわ」

 早輝が少年の前に立ちふさがった。その背に逞をかばってくれている。

「ねぇ、お兄ちゃんと話してるんだよ」

 ヒリヒリとした視線が交わされている。早輝は睨み合いを続けながら、囁き声で逞に頼みごとをした。

「その本を開いて、最後のページに描かれた虎の手。そこへ手を重ね合わせてみて。何か起これば……あの小鬼を追い払えるはず!」

 早輝の体越しにチラチラと甲冑の鬼が見える。逞は戸惑いながらも本を開いた。それを見るや小鬼はすぐに飛び掛かってきた。

 ビュウッ! 風を切って小鬼の手が早輝に迫る。その小鬼を大きな影が覆った。鬼が見上げると空には白い虎が舞っていた。

「ハァッ!」

 掛け声をあげて白虎が小鬼に飛び掛かる。小鬼は両腕でグッと白虎の爪を受けたが、勢いよく吹き飛ばされて木の幹に体を打ち付けた。

「ガッ! うぅ」小鬼が声を漏らした。

 白虎は鋭い爪で地面をカリカリと撫でた。爪の間に生えた体毛がさわさわとそよ風で揺れる。

「スゲェ」

 白虎から逞の声が漏れた。地面に着いた手足に力を籠めると空まで飛び上がれそうな余力を感じる。明らかに自分の体とは異なる感覚に逞は高揚感を覚えた。

「チッ。またかよ」

 小鬼は土を軽く蹴り上げた。気を晴らすと、目の前の白虎と口を開いて固まる早輝を見比べて標的を定めた。

 一度横に飛び、木の幹を蹴って軌道を変える。三角形に移動した小鬼が早輝に向かって突撃した。その動きを白虎の目はとらえていた。

「ヤッ!」

 後ろ脚で地面を蹴り上げて、小鬼の横腹へ飛びつく。体当たりの衝撃で小鬼の甲冑にひびが入った。

 ドスン。二人はもつれたまま倒れこんだが、小鬼は白虎の体毛を押しのけてスルリと抜け出した。

 自身の体を確認する小鬼。ボロボロと泥の装甲が剥がれ落ちていた。小鬼は角を撫で上げて付いていた土を払うと、早輝と白虎から距離をとった。

「僕は橙対。お兄ちゃん、名前は?」

 急だが単純な問いかけに逞は反射で答えた。

「逞」

「そ! また会うだろうね」

 そう言い残して小鬼の橙対はフッと姿を消した。

 周囲に静けさが戻る。逞は改めて自分の手を見つめ、獣の肉球を握りしめた。助けを求めようと早輝を見ると、輝いた瞳で見つめ返された。

「良かった……これで希望が見えた」

 早輝が走り寄って逞の手を取った。

「これから大事な頼み事、させてくれる?」

 何の話をしているのか飲み込めない。ただ、真っ先に口に出たのは体のことだった。

「元に戻らないの……?」

 逞が不安げに尋ねると、早輝は「大丈夫」といって地面に放られていた本を拾ってきた。

「さっきと同じ、最後のページに」

 パララとページをめくって見せてくれる。逞を運んできたその本は中身がまっさらになっていた。

「ここに手を重ねれば元に戻るよ」

 早輝に言われるまま爪を立てないよう、そっと紙に触れる。すると、みるみるページに虎の姿が現れ始め、逞の手が五本指の小さい手に戻った。

「わっ」

 すりすりと手をこすり合わせると、手汗と皮膚の感触がした。顔や脚、見て触れられる部分も確かめた。逞がふぅと安心して息を吐くと、早輝は逞の肩をポンと叩き「帰ろうか」と歩き出した。

 資料館に戻ってくると扉の前に和歌が立っていた。パチッと目が合うとこちらに駆け寄ってくる。

「ごめん私、何が何だかわからなくて……森内のおじいちゃんとおばあちゃん呼んで話してた」

 和歌を連れて中に入るとじいちゃんとばあちゃんはソファに腰かけていた。膝の上に分厚い本を開いていて、そこから視線をあげて逞たちを見た。

「怪我はしていない?」

 ばあちゃんのゆったりとした口調の問いかけに逞は頷いて答えた。それを見るとばあちゃんは立ち上がり、じいちゃんも続いた。

「家に戻っているからね」

 そういってばあちゃんは笑い、じいちゃんは小さく手を振って出ていった。一瞬、ばあちゃんと視線を交わした早輝がわずかに頷いたように見えた。

「ねぇ早輝さん」

和歌が不安げに早輝を見上げる。

「妖怪伝説、本当のことだって、二人が言ってた。私も」和歌が逞を見た。「変なものを見た」

 声が震えながらかすかに上ずっていた。だが、徐々に口角が上がっていく。

「私、怖い。けど、ワクワクしちゃってる。これって危ないかな……?」

 和歌が尋ねた。早輝は腰を落として視線を合わせて答えた。

「いいえ。妖怪も自然の一部だから、感じ方は人それぞれでいいの」

「そっか……!」

 明るい声で返事をした和歌の輝く瞳が逞に向けられた。

「ね、さっきの本! あれからどうなったの?」

「え? あぁ、なんか、虎が出てきたというか。成ったというか」

 ふわふわした記憶の中から曖昧な答えを絞り出す。何があったか覚えてはいるが、目覚めに夢の思い出を話しているような感覚だ。

「私に見せてくれる? 早輝さん、虎の本借りててもいい?」

 和歌が交互に二人へ詰め寄った。早輝は「いいよ」と答えて次に逞を見た。

「その本、逞くんに預けてもいいかな。また同じようなことが起きた時、身を守れるものだから」

 逞がこくんと頷き「わかりました」と伝える。早輝は返事を聞くと「じゃあ、私、しばらく忙しくなるから! 山には近づかないでね」と言い残し、二階へ駆け足で登っていった。

「私も見たかったなー、虎。あれと同じ大迫力だった?」

 和歌がてくてくと展示室に入って行く。巻き物の前に立ち止まると逞に手招きをした。招かれるまま逞も巻き物の前に立った。

「本から虎って不思議だよね」

 巻き物の中で虎は動物たちの先頭にいた。小さな妖怪たちを飛び越えて右側に描かれた大きな妖怪へ向かっている。和歌は視線を真っすぐ展示に向けたまま続けた。

「昔の話だと動物たちは山に住んでいた子たちなんだよ。だけど、今はこうして本にいる」

 和歌がジッと虎の本を見つめる。

「ね、森内くん。いつまでいるんだっけ? よかったら毎日一緒に遊ぼうよ」

「再来週の日曜まで。結構長いけど、俺といて飽きない?」

「二週間じゃ足りないと思うな! 二階で見たでしょ、あの資料の数々……そのワクワクがその本に詰まってる! 私が分かる限り妖怪伝説の案内をするから、二人で伝説挑もうよ!」

 目の輝きと共に和歌のテンションもどんどん上がっていく。目の前で熱弁を受けた逞もつられて楽しい気持ちがあふれてきた。

「いいなそれ。俺も気になる」

「じゃあ、これからよろしく、森内くん!」

 和歌の手が差し出された。逞がそっと触れる程度に握手をする。

「よろしくお願いします」

「ん? 同級生だよね。敬語いらないよ」

「そうだね、分かった」

 挨拶をして離した手が少し熱い気がした。馴染みのない相手で緊張したのか、不思議な経験に一区切りついたからか、ふぅ、とため息が出た。

 逞が家の玄関をくぐると奥から「おかえりー!」とじいちゃんの声が響いてきた。返事をしながらリビングに向かうと、ちゃぶ台でじいちゃんが桃を剥いていた。

「何してるの?」

「夕飯にみんなでたべるぞ。支度するから手ぇ洗ってうがいしてきなさい」

 じいちゃんに促されて台所に向かう。流し台の横でばあちゃんが鍋を火にかけていた。逞が手洗いうがいを済ませると、ばあちゃんが「運んでくれる?」とスイカの乗った皿を差し出した。それを受け取ってちゃぶ台に戻る。ダンダンと料理が並び、三人で手を合わせた。

「いただきます」

 冷ややっこに醤油をかけて口に運ぶ。醤油味の煮物を取り分けて湯気の出るうちに食べた。パクリパクリと食事をしていると、じいちゃんが話始めた。

「逞は妖怪、見たんか?」

「うん」

「そーかそーか。昔から伝わっている話での、じいちゃんは人伝の話しか知らんけど」

 じいちゃんの視線がばあちゃんに向いた。

「私はとても小さいころに会ったと記憶してますよ」

「え妖怪?」

 逞の質問にばあちゃんは頷いて答えた。

「遊んでいたら大雨に襲われて、神社で雨宿りしていたらずぶ濡れの子が来たの。手招きして二人で賽銭箱の屋根の下に座って止むのを待つことにした。しばらくしたら雨が弱まって来て、『走って帰れそう』と言ったら傘をくれたのよ。傘をさして、帰る前に礼を言おうとしたら消えていた……その傘も次の日には無くなっていたから、すごく曖昧な思い出」

「どこの神社?」逞が尋ねる。

「山向こう。遠回りだけど電車で行けますよ」

 ばあちゃんがほほ笑んだ。嬉しそうに「興味があれば行き方を書いておいてあげる」と言ってくれた。

「興味ある。今日さ、加倉井さんと妖怪伝説調べてみようって約束したんだよね」

「自由研究かの?」

 じいちゃんに「違うけど」と返したが、それもいいと思った。

「そうしよっかな」

「そうしんしゃい。じいちゃん達もいい思い出になるから、出来たら送ってな」

 じいちゃんがカッカと笑う。口の中のものが飛びそうでヒヤッとしたが、食卓に明るい雰囲気があふれた。


 翌朝、朝食の目玉焼きトーストと共にメモ用紙が用意されていた。約束をしていなかったのでじいちゃんに加倉井家の場所を書き足してもらって家を出た。

 電車賃の入った財布、水筒、タオルを入れたリュックを担ぎ、首にスマホを引っ掛けてまずは資料館にやってきた。ドアの前に立つと張り紙がしてある。

「本日、臨時休館とさせていただきます。管理人」

 管理人とは早輝のことなので、昨日の妖怪の件で山に調査へ行っているのだろう。中へ入るのは諦めて周囲を見て回った。日陰に和歌がいるかどうか確認して、誰もいなかったので踵を返してメモを見ながら歩き始めた。

 じいちゃんの地図は交流センターぽっぽを起点に書かれていたので、一度ぽっぽに向かう。ぽっぽから駅へ向かう道を横にそれていくと石造りのどっしりとした構えの門があり、表札に加倉井とあった。

 あまりにもシーンとして静かな様子に恐る恐るインターホンを鳴らす。ピンポーンが異様に響いて聞こえた。耳を澄ましながらドアを叩いてみるべきかと考えていると、かすかに床がきしむような音がした。

 ゆっくり丁寧に玄関の引き戸が開かれる。くるくるとした可愛らしいパーマで白髪の女性が着物姿で現れた。

「どちら様でしょうか?」

 柔らかな表情と声で尋ねられた。逞が「森内逞です」と頭を下げると、「まぁ森内さんのご親戚?」と微笑んだ。

「加倉井和歌さんいますか?」

「えぇいますよ。新しいお友達って貴方のことなのね」

 着物の女性は少し待つように言って奥に向かった。それからほんの少しするとトタトタと足音がして、玄関からずっと遠くに和歌の顔が見えた。手を振っているので振り返すと和歌がこちらに近づいてきた。

「森内くん! どうしたの、早いね? 遊びに行く?」

「う、うん」

 まくしたてられて逞は詰まりながら返事をした。和歌は答えを聞くとすぐに逞を家の中に招き入れた。

「今日もあッついし、計画立ててから出かけよ。準備してくるから待ってて。おばさまー! お茶出してほしい~!」

 大きな声で呼びかけた和歌は、逞にすぐ近くの部屋を指し示して「あそこ居て」と言い奥に消えていった。言われた通りその和室に入っていくと先ほどの女性が湯呑を運んできている最中だった。

「朝から元気ね、和歌ちゃん」

 女性が畳に正座で座ってお茶を注ぎ始めた。逞も彼女の向かいに置かれた座布団に座る。

「お邪魔してます」

「いいんですよ。ここでは同世代のお友達がいないから、仲良くしてくださると嬉しいわ」

 はい、とホカホカのお茶が差し出された。ひんやりと冷房の効いた室内ではホッとする温かさだ。

 ふーッと冷まして少しずつ飲み進める。会話が無い分、どこかで動き回っている和歌の足音が時折聞こえた。飲み続けるのにも限界が来て逞は思い付きを尋ねた。

「其ノ山小学校ってどこにあるんですか?」

「ここからバスで三十分くらいの場所にありますよ。昔はこの近くにも小さいのがあったんだけれど、校舎が大きいほうに吸収されたんです」

「へー。通うの大変そう」

 和歌のことが浮かんで逞が呟いた。女性は「和歌ちゃんなら大丈夫ですよ」と言った。

「いつも住んでいる所は歩いて学校に通えますから。ここにはまとまった休みの時に来てくれているんです」

「そうなんですね。俺と似た感じ……」

「逞さんは森内さんご夫婦とはどういったご関係なのかしら。良かったら教えてくれますか?」

「じいちゃんとばあちゃんは、祖父と祖母です」

 逞が答える。女性は「そうなんですね」と笑ってお茶を口に運んだ。

「森内くんお待たせ!」

 パン! と勢いよく障子が開かれて和歌がやってきた。音に驚いて逞は肩がはねた。

「和歌ちゃん。丁寧に開けてくださいね」

「あ~ごめんなさい」

 女性に手を合わせながら和歌も座布団に座った。何冊かの本と地図をテーブルに置く。

「まずはこちら、私のお父さんのお母さんの妹の毬さん。ここの家主」

 逞は改めて頭を下げて挨拶をした。毬さんは礼を返してくれて「夏休み、たくさん遊んでくださいね」と言い残して部屋を出ていった。

「で、こんな朝からどうしたの? 私も行きたい場所相談しに行こうとは思ってたけど」

「ばあちゃんが妖怪見たって場所に行きたいって思ってさ。で、俺らで調査した妖怪伝説を自由研究にまとめたらどうかなって」

「うんうん」

 逞の提案を頷きながら聞いていた和歌が「実はね」と言った。

「私もう自由研究のテーマに選んでるんだよね……! だから協力して作って、お互いの学校で発表しよ?」

 和歌が広げたノートにはすでにいくつかの場所の地図と、妖怪らしき絵の切り抜きが張り付けられていた。

「いいの? 結構調べてるっぽいのに、何もしてない俺が相乗りして」

「いいって。それより森内のおばあちゃんから聞いたって所、行こう!」

 前のめりな和歌に頷いて答え、行き先を告げた。

「うん。えっと」メモに書かれた文字を読み上げる。「雨坂神社、だって」

 地図を見せると和歌は「其ノ山小から近い」と言って立ち上がった。さっそうと荷物を担いで部屋を出て、「毬さーん出かけてくる! 行き先は携帯で送るからぁ!」と叫んでいるのが聞こえてくる。

「行こ!」

 一瞬だけ顔を覗かせてすぐに玄関へ向かっていく和歌。後れを取らないよう、逞もリュックを担いで「お邪魔しました!」と彼女の背中を追った。


「次は、ウラソノヤマ。裏其ノ山」

 電車のアナウンスが聞こえた。

「ここで降りよ」和歌が立ち上がる。

 車窓から遠目に開けた景色が見えた。山の中に町がある印象の祖父母の家と異なり、山の裾から街へ広がっているようだ。

 改札と屋根がある程度の小さな駅に降り立つ。日陰の中にキュッと二人で収まると、和歌が右前方を指差した。

「あの、上の方だけ出てるんだけど、分かるかな。あれ其ノ山小学校。私が通ってる所」

「うーん、眩しいし、あんまり」

「じゃあ今度しっかり案内するね。今日は反対方向に行くから」

 和歌が指さしたのとは逆に歩き出した。山に向かう方向だ。

「雨坂神社、行ったことある?」

「ううん、無いよ」

 先を歩く和歌が、逞の質問に軽く振り返って答えた。時折、逞の持つメモの地図を見ながら二人で歩いていく。

「森内くんって今年初めて其ノ山に来たの?」

「いや、何回か来た。家族みんなで一日だけとかだけど」

「そっか、それならどこかで見かけてたかも。私は小学生になってから夏休みはずっと毬さんのとこ」

 どうして自宅じゃないんだろう、と思った。だが、会って数日で聞くのは躊躇われてやめた。

「毬さん、すごい優しそうだった。あとお茶がすごい旨かった」

「どっちも大正解! お花も活けるし、何か扇子使った踊りも上手だったな」

その風景を思い浮かべたのか和歌が軽く笑った。

「森内くんはなんで今年は一人で?」

「もうすぐ中学生だからって。やれること増やしとけ、みたいな」

 家から送り出された時の両親の顔が浮かぶ。どちらも自分以上にワクワクした表情をしていた。

「いいなー。私もちょっと遠出したい……自由研究でどっか行けないかな」

 ポツポツとお互いの話を交わしていると、石でできた灰色の鳥居が見えてきた。お辞儀をしてくぐっていった和歌に倣って頭を下げて入る。

 脇に大きな木が一本。自然と木陰に吸い寄せられて二人で幹に寄りかかった。小さい敷地内に本殿とそれにくっついたお賽銭箱、公園にあるような水飲み場がある。

「あっちの方、見にいこ」和歌が先に木陰を出た。「雨降らないかな~」

 天気は曇りでじんわり汗が出ている。この状態で雨が降り始めたら嫌な気候になりそうだ。

「雨はちょっと」

 軽く拒否しながら和歌と同じように本殿の周りを歩いてみる。わずかに撒かれた砂利がゴリっと鳴った。

 一周見て回った後、裏手にあるこぢんまりした階段に座り込んだ。和歌がペラペラとノートを開き始め、逞も立ったままそれをのぞき込んだ。

「ここも、ここも。見には行ったんだよ」

 示されたページには妖怪の絵と地図が手書きで描かれている。その下にわずかな文章が添えられていた。

「でも、なーんも無いの。何にも」

 和歌がまっさらなページを開いて地図を描き始めた。鳥居の絵が出来た。この場所を表しているようだ。

「ここで森内のおばあちゃんが会ったって妖怪、なんだろうね?」

「……河童とか」

 逞がそう答えると、和歌はすみっこに丸々とした河童を描いた。次に「雨女?」と言うと河童に傘を差し出す女の人が描かれた。

 ぽつ、ぽつと地面がにじみ始めた。かすかに雨が降り始めた。

「お、雨」和歌の声が躍る。

「傘ないよ。早めに駅戻らない?」

 えぇ~と渋る和歌に、逞が心配で空を見ると黒雲が迫ってきている気がした。そこにシャリシャリと石を転がしながら歩く音が近づいてきた。自然と二人の顔がそちらに向く。

「アッ最悪」

 足音の主は顔を出すなりそう言い放った。和服に下駄、見覚えのある顔の橙対だ。

「何しに来たの」

 逞はすぐに和歌を背にして立ちふさがった。

「ご飯探しに来ただけ~! もーッ何でお兄ちゃんが居んの?」

「妖怪調べに来たんだよ」

 プンプンと地団駄を踏んでいた橙対が、逞の答えにはぁ~と息を吐いてしゃがみ込んだ。

「いないよ、妖怪。全然いない」

「目の前にいるよ」逞が橙対を指さす。

「そういうこっちゃない」

 逞と橙対が言い合う後ろで、和歌が誰かと話す声がし始めた。

「え、いいの? 森内くん!」

 呼ばれて振り返る。和歌の傍らには自分たちより頭一つ背の低い子がいた。若葉色の甚平を着ている。

「この子が傘貸してくれるって」

ありがとう、と和歌が子どもに向き直る。「いっこ聞きたいんだけど、この辺で妖怪見たことないかな?」

その子はブンブンと首を横に振った。

「そっか~。じゃあ神社に詳しい人知らない?」

 和歌が情報を引き出そうとしている。逞は子どもを和歌に任せて橙対に警戒を戻した。

「わッ! 何してんだよ」

 視線を戻すと、橙対は体を右方向へ直角に折り曲げていた。ジッと動かない瞳の先を追うと和歌と話す子どもを見ているようだった。

「ねぇ。妖怪いるじゃん」

 ブワッと泥が吹きだす。橙対が鎧をまとったので逞は咄嗟にその両腕を掴んだ。

「えっ何。え、どうしたの?」

 和歌の戸惑いが漏れると同時に、子どもがプルプルと震え出した。ぎゅっと和歌の膝に捕まってその姿は傘に変わった。

「やっぱなァ!」

 橙対の力が強くなる。生身の状態では押されるままだ。逞がチラッと後ろに目を向けると和歌が揺れている傘を握りしめていた。

「加倉井さん傘持って逃げて! 多分それ」

「餌ーッ!」

 橙対が力のままに逞を押し倒した。逞は覆いかぶさってきた体の腰を必死に掴んで抑える。

「行こ!」

 和歌の声がして足音が遠ざかっていく。その間ジタバタと橙対に暴れられてついに手が離れた。

「お兄ちゃんのばーか!」

 わざわざ捨て台詞を残して橙対が駆けだしていく。すぐに逞も起き上がり、リュックから本を出してめくった。最後のページで虎と手を合わせ、大きな四つ足で二つの背中を追いかけた。


 ちら、ちらと時折後ろを確認しながら和歌が走って行く。二体の怪物を連れながら、どんどん山の方へ向かっていた。

「待てー!」橙対が走る。

「オマエが待て!」逞が叫ぶ。

 和歌の手の中で傘がカタカタと震えた。

「だ、大丈夫……?」

 言葉が通じるのか不安に思いながらも和歌が声をかけた。傘からは細い音で何かが聞こえる。

「分かんないけど、たぶん、あの子に捕まりたくないんだよね?」

 和歌の問いかけに傘がくるりと回って見せた。もう一度チラリと追いかけてきている鬼の姿を確認する。その後ろに大きな虎も見えた。

「きっと森内くんがとっ捕まえてくれるからね。それまで逃げるよ!」

 傘が示す足場を辿って軽快に山を登っていく和歌。だんだんと橙対、逞と距離が開いていった。

「あぁもうっ、しつこい!」

「それはコッチだよッ!」

 ドカン! と逞がタックルを食らわせる。バランスを崩して転んだ橙対は和歌に背を向けて逞を睨みつけた。

「お兄ちゃんをやっつけてから追いかけることにする! そうすればよかった」

 橙対は吐き捨てる様にそう言うと、逞に飛び掛かってきた。取っ組み合いの押し合いで地面をゴロゴロと転がる。その間に和歌の姿は見えなくなっていた。


「ハァハァ……はあ~」

 荒い息を整えながら和歌は周りを見渡した。鬼も虎もついてきていない。獣道のような場所を登ってきたせいか、靴に泥が付いていた。

「どこだろ、ここ」

 木に遮られて景色が分からない。足下は草や枝で埋め尽くされていて来た方向も定かではなかった。

「ん」

 傘がツンツンと地面をつついていた。

「こっち? 山から下りたら、私、道分かるから。それまでお願いね!」

 傘の指した方向へ和歌が一歩踏み出す。そこへ何かがやってきた。バキと地面の枝が折れる音がした。

「誘導して追い込む。狩りの基本」

 スラリとした少年が和歌を見下ろしている。着物に下駄、とても山を登ってきたとは思えない格好だ。

「えッ……!」

 傘の震えを感じて、和歌は咄嗟に背中へ隠した。

「あなたも、鬼か何か?」

 問いかけながらゆっくりとすり足で後退していく。少年は答えずにじりじりと近寄ってきた。

「一匹は諦めるか」

 チラッとどこか遠くに視線を向けたかと思うと、彼の足元がブクブクと湧き始めた。

「えっ」

 やばい、と和歌は感じた。くるっと方向転換して勢いのまま走り出す。傘もグイグイと先へ進み、草木をかき分けていくと視界がパッと開けた。

「ぁ……」

 踏み込んだ足が空回る。一瞬の無重力感に息が止まった。焦るあまり崖から飛び出してしまったのだ。下を見る暇もなく心臓が縮み上がる。

 バサン! そんな和歌の体がふわりと支えられた。

「へっ?」

 力の出所を辿っていくと和歌の頭上で傘が開いていた。取っ手が腕に巻き付いて離すまいとしている。

「ありがと……!」

 傘はその言葉にキュッと軽く取っ手を動かして見せた。だが、すぐにまた震え出した。

 辺りを見回すと、下では鬼と虎がじゃれている。飛び出してきた崖からは馬のような形の黒い塊がこちらに走ってきているのが見えた。

「森内くん! 何か来る!」

 和歌の声が響いて地上にいた二人がお互いを掴んだままパッと顔をあげた。見上げた空に、黒い馬が飛び出す。その額には三本の角が生えていた。大きな影が伸びてだんだんと和歌に近づいていった。

「フンッ!」

 橙対の肩を押し出すように踏み台にして、逞は上へ飛び立った。「ギャン」と潰れたような橙対の声がした。

「森内くん!」

 接触寸前すれすれで、馬と和歌の隙間に逞が滑り込んだ。尻尾をクルリとくねらせて和歌をポンっと後ろに押し出す。和歌を馬から離している隙に、馬の角が逞の喉元まで迫っていた。

「エイッ」

 くいッと体が後ろに引かれて角が首のすれすれを通り抜けていった。何かに引っ張られた腕を見ると、和歌が持つ傘の柄が引っ掛けられていた。

 和歌が逞にニコリと笑いかけると同時に、傘の支えを失った和歌の体が落下していく。同じく、逞も落ち始めていた。

 手で和歌を引き寄せて背中に乗せる。「強くつかんで!」というと体毛ごとぎゅっと握られた。たたんと四つ足で衝撃を和らげながら着地すると、橙対の横にも馬が降りてきた。

「やられるくらいなら山にこもってろ」

「けッ、次は勝つ!」

 馬に言われるまま、橙対がそそくさと山の方へ駆けだしていった。これで一対一にはなったが、体の大きさだけでも圧が大違いだった。

 橙対の足音が遠ざかっていくと、馬はシュッと頭を振りかざした。風を切る音が顔のすれすれに響いた。逞の後ろには和歌と傘がいる。角の届かないように距離をとることはできない。逞は馬の頭の動きから逃げるように必死に体をひねった。

「うっ、ウっ、イタッ!」

 躱しきるには動きが速く、時折とがった角の先端が掠った。反撃しようにも角の長さで上手く間合いを取られて近づくスキがない。

「ふんッ」

 馬が飛び上がった。逞と和歌と傘、三人めがけてスイカ割りのように角が振り下ろされる。逞は後ろ足で立ち、その直線上に手を伸ばした。

 角が近づいてくる。その軌道を予想して逞は手を合わせた。

 バチン!

 勢いよく手を叩きつける。それをすり抜けて、角は逞の頭に直撃した。真剣白刃取りは失敗したのだ。

「いってぇ……!」

 頭を抱えてうずくまる。馬は満足そうに頭を揺らして角に付いた白い虎の毛を払い落していた。

「大丈夫?」

 和歌が駆け寄り、押さえている頭頂部の毛をわさわさとかき分けた。

「うん、たんこぶは出来てないみたい」

「まだまだ! 大丈夫」

 逞は姿勢を整えて再び馬の前に立つ。すでに敵の間合いに入っているため、角の振りと虎の飛び込み、どちらが速いかスピード勝負にかけた。

「ハッ!」

 前足に力を籠めて重心を前に。逞は勢いよく馬の足元めがけて飛び込んだ。それに反応して馬の首もグッと地面をすくい上げる様に動く。

 ヒュンッ!

「う……」

 一歩届かず。逞の顔面を風が切ったと思うと、グンと首から持ち上げられた。首の皮を角の先に引っ掛けてプラプラと遊ばれている。

 手で角を押さえようとすると激しく揺さぶられて体勢を崩してしまった。次に足で馬を蹴ろうともがくも、長さが足りずに届かない。

「このままじゃ食えそうにないんだが、どうしたもんかな。お前、本当は人間なんだろ? 元に戻ってくれないか」

 馬が逞に語り掛けた。だが、首に圧がかかった状態で逞は上手く声が出ない。

「……狩りの邪魔になるか」

 ぽつりと呟き、馬は逞の体を上空に放り投げた。真っすぐ空へ上っていく逞めがけて、馬は飛び上がった。角の切っ先を虎の腹に合わせて。

「森内くんッ!」

 和歌が叫ぶ。その声の直後、何かが和歌の手元から飛び立った。

 ドン!

「クッ……妖怪ごときが」

 馬の角は空を切った。大きく広がった傘が逞の体を押し出し、その角は傘の端を少し切るにとどまった。

「ありがとう……!」

 難を逃れ、逞は傘をそっと引き寄せた。傘の体当たりで十分な距離が取れたうえ、未だ空中にいるため詰めてくる心配もない。

 落ちていく最中、降りた後のことを考えた。どうにか角突きをかわしきって懐へ飛び込まなければ勝ち目はない。悩ましく眉を寄せていると、傘がパッと開いた。わずかに逞の落ちる速度が遅くなる。

 くるくるっと傘が陽気に回った。逞も巻き込まれて回されると、傘の元に本が現れていた。パラパラとひとりでにページがめくれて、そのたびに少しずつ傘の体が吸い込まれていく。

「えっ?」

 呆気にとられている間に最後のページが開いた。飛び掛かる白虎の傍らに傘の絵が描かれると同時に、逞の体が急速に落下していった。傘の姿は上空から消えた。

 スタッと音なく地上に降りる。状況が飲み込めないが、体が軽くなった感覚だけハッキリとあった。

 間もなく。馬が一歩を踏み出した。ビュウっと風を切って角が突撃してくる。

「ぅおッ」

 上に飛び退くがスピードが足りない。逞が思わずお腹を引っ込めると、想像以上に体が丸まった。角のスレスレを沿うように虎の体は馬を避けた。

 ザザ―ッ! 手ごたえ無く走り抜けた馬が土を抉りながら止まる。逞はそこへ間髪入れずに飛び掛かった。

 ビュン! 間合いに入った途端、角が振るわれた。だが、やはり体が動く動く。まるで滑るようにつるりと避けて見せた。

 体にしがみつき、ガブガブと噛り付く。馬は身をよじりながら暴れ始めた。

「グッ……気持ち悪いッ!」

「うわっ!」

 突如、馬が前足を高く上げた。その勢いで逞の手が馬から離れかける。もう一度つかみかかろうと手を伸ばした。

「邪魔だッ!」

「うっ……!」

 ドガッ。バランスを崩した隙に馬の前足で追撃が来た。腹に衝撃が走ってそのまま、逞は大きく蹴り飛ばされた。

 吹っ飛んで着地。柔らかく衝撃を逃しながら降り立つ。視線を馬に向けてジリジリとにじり寄っていくと、馬の後ろ足が僅かに引いた。

 一撃貰ってしまったが、それによって逞はさらに体の感覚を掴んでいた。傘が本に入ってくれてから調子がいい。勝てるという自信が虎の体を大きく見せていた。

 逞が飛び出す。一歩目から風を切るように体毛がなびいた。

「チッ!」

 馬が大きな舌打ちを鳴らす。逞が迫りくる中、馬は周りを見渡して見つけた。

「はっ」

 和歌だ。社の影にしゃがんでいた。馬と目が合い、息を吞んだ。

 馬は迷いなく和歌に角を向ける。服を引っ掛けて持ち上げ、勢いよく振り上げた。

「あ……!」

 逞の目に和歌が入った時には、もう遅く。和歌の体は空中に遠く遠く放り投げられていた。脚の筋肉をうならせて、それを追いかけるように馬が飛び上がった。

「待てッ」

逞も同じく飛び上がる。だが、手が届かずに馬の背は遠ざかっていった。馬は和歌を再び空中で捕らえると、その姿はそのまま山中へ消えた。

タッと地面に足が付いた途端に駆けだす。落ちる間、おおよその位置を目で追っていた。急いでいけば追いつける、きっと見つけられる。

目の前で人がさらわれた。その光景に逞は混乱して、目先の手掛かりを辿る事しか考えられなかった。


ぶらーんぶらーんと揺れている。橙対が木の枝に脚を引っ掛けて、逆さにぶら下がり遊んでいた。そこへリズムよく木の葉を踏みつける音がして、三本角の馬がやってきた。

「蒼双。あ、人間」

 橙対は馬を蒼双と呼び、背中に乗せられた人間に目をつけた。

「結局、一人だけ? ホントに足らないよ~」

「知ってる。これは餌と言うより囮だ」

 橙対の文句に蒼双はスパンと答えた。馬から少年の姿に戻り、背に乗せていた和歌は雑に地面へ落とされた。

「お前、嗅覚は戻ったか?」

「ハァ~全然まったく」橙対が肩を落とす。「だって、さっきも目と鼻の先の妖怪、気が付かなかったもん」

「そうか。俺は多少戻ってきた。前に眠らされた時より、随分と餌の数が減っている。特に妖怪が顕著だ」

「マジ? 完全復活どころか、目先の栄養も怪しいお先まっくら?」

「あぁ。だから一つ、大きく動かす。ふもとの人里にひときわ強い臭いがある。恐らく、先ほど相手にした虎と似た力だ」

 ふーんと揺れながら聞き流している橙対に、蒼双は鋭い視線を送った。

「お前が盗ってこい」

「え」

 目を見開いたまま、橙対はズルズルと地面に落ちていった。

 言われるがままに山を下りた橙対は「うわぁ」と周りを見渡した。相変わらず緑にあふれているが、色気のない四角いだけの建物が二つほどある。大きいせいで無駄に目立っていた。

 どのくらい寝ていただとか見当もつかないがお腹は空いている。ウロウロしている手ごろな人間にも飛びつきたいが、多分小手先のこと以外は蒼双の言うことを頼っておいた方がいい。昔の経験から橙対は大人しく指示された小高い場所の建物へ向かった。

 二階建て。そこらに見える人間の住処を二つ三つほど合わせた大きさがある。獲物の正確な場所はサッパリ分からないが体躯の小ささ、動きの素早さに期待されたんだろう。泥の鎧を纏って、まずは取っ手のついた透明な板を押し開けた。

 ギィっと音が鳴る。奥から「ご自由にどうぞー」と声をかけられた。どうしよう、先に食べて始末してしまおうか。だが、一番の目的を優先した方がいいだろう。

 人間の声がした部屋は後回しにして、一階を隅々まで駆け回った。音を鳴らさずに移動するために足を液状に保っていたので、見た場所には泥の跡が残った。

 まだゴソゴソと音が聞こえる部屋を残して、橙対は階段を伝い二階へ上った。踊り場から二階、飾られた額縁やら壺の臭いを確かめていくが、これまでと同じく全て外れ。残る鍵のかかった部屋を確かめたら人間のいた場所を探そう。餌を食べる理由が出来そうで橙対は舌なめずりをした。

 鍵穴に爪を突っ込んでガチャガチャといじってみる。手ごたえが無く、爪を入れたまま錠を掴んで引きちぎった。

 パンッ! 大層な破裂音を立ててしまった。

「どうかしましたか⁉」

 一階から声がした。まずい、すぐに部屋を調べよう。食べたい気持ちは山々だが、食事にはそれなりの時間がかかる。早く獲物を盗って戻るに越したことは無い。ガサガサと音が出るのに構わず、中身の見えない箱をひっくり返して回った。

「どこにいらっしゃいますか⁉」

 人間の声が響く。足音も近づいてきた。棚の上に飛び乗って箱を落としながら漁っていると、部屋の角に本が見えた。一つだけ見える様に置かれていて、飛び移ってみると入り口と同じ透明な板で覆われていた。

 これは特別、守られている。橙対はそう感じ取ってすかさず板を叩き割った。

 パリィン! 大きな音が響き、足音がタッタという早歩きからダダダッと階段を踏み鳴らすように変わった。居場所がばれた、だが目当てはコレだ。懐かしい香りのする古びた本を抱えて橙対は部屋を飛び出した。

「止まりなさい!」

 一瞬、目が合った早輝が階段から叫ぶ。その時すでに橙対の体は窓ガラスを割って外に消えていた。


 山の道なき道を勘だけで登っていく。ただ、どの方向に向かうのか迷いは無かった。人の脚では到底登れない斜面を駆け抜けるたび、虎が力を貸してくれていると感じた。

「ハァ、ハァッ」

 荒い息を吐きながら走り続け、見つけた場所は大木の前だった。橙対に乗せられてお札を剥がした木。幹に寄りかかるように和歌が寝かせられていて、すぐ脇に少年の姿で蒼双が立っていた。逞を見つけると殺気をおびた目でゆっくりと正面に来た。

「本気で遊ぼうか。俺に勝って、そこの人間と帰れるかどうか」

 蒼双は馬へ姿を変えると同時に飛び掛かってきた。逞がするりとかわしたのも束の間、頭を大きく振った馬の角が迫る。バランスを崩しながらも体をひねってそれを避けたが、三発目、勢いのついた馬の回し蹴りに吹き飛ばされた。

「グゥッ!」

 ゴロゴロと転がり、木の幹に体を打ち付けてやっと止まった。地面に爪を突き立てながら体を起こす。

「ハッ」

 逞は咄嗟にしゃがみこんだ。立ち上がる暇もなく、荒い息を吐いた馬が目の前まで来ていたのだ。先ほどまで自分の頭があった位置に馬の前足がめり込んでいる。幹にひびが走って嫌な音を立てた。逞と蒼双は互いに一歩離れた。

 ドシン。二人の間に木が横たわった。それは境界線のようでどちらかが超えればまた戦いが始まる予感がした。息を整えながら、ジリジリと倒れた木の先端へ向かって移動していく。戦って山を登って戦って、体力が減っているのが歩くたびに染みる。少しでも和歌に近い位置取りをして隙が出来れば連れて逃げよう、と逞は考えていた。

 もうすぐ、木の境界が途切れる。足の速さでは敵わないから、先手必勝で一撃加えて怯ませる。その一瞬の為に前足に力を入れて、蒼双とにらみ合っていた時。

「お待たせ~! これでいいの?」

 反対方向から橙対が現れた。手には本を掴んでいて、こちらに向けて振って見せている。緊張の糸が途切れたかと思うと、蒼双が叫んだ。

「それだッ根本に捻じ込め!」

 逞には何のことか分からなかったが、橙対にはピンときたようで真っすぐに駆けだした。和歌のいる方向へ。

 すぐに力を加える方向を変え、大木へ走り寄る。後ろからは馬の風切り音、前には小鬼。どちらよりも早く走らなければならなかった。だが、それは出来なかった。

 一番に事をなしたのは小鬼で、持っていた本を木の根元へ土をかいて押し込んだ。すると、土は段々とグズグズになって泥に変わった。どんどん広がって下へ下へと沈んでいく。逞が和歌の元へたどり着いた時には、既に下半身が泥に飲み込まれて抜け出せなくなっていた。

 三つ足で踏ん張りながら和歌に手を伸ばす。体を掴んで引き上げようとしても泥が吸い込むように和歌を離さない。徐々に逞の足元にも泥が及んで力を籠めるほど沈み込んだ。どうしようと焦っても否応なく飲み込まれて行く体には、ただ離れないよう和歌を掴むことしか残されていなかった。暗いというより黒くて重い。目を開けても閉じても見えるものは変わらず、渦の中にいるような感覚と握った手だけが確かだ。滞った時間の中、意識が薄れていった。

 やがて泥は大木を中心に大きな沼を形作った。もう支える地面は無いはずなのに動じずに立つ大木へ、なぜか泥が流れ込むように動き続ける。アリジゴクのような沼のふちには蒼双が立っており、角の先に橙対を引っ掛けていた。橙対は体についた泥をぺっぺと払い落として見えない底を睨んだ。

「あんなんなるなら先に言ってよね!」

 橙対の抗議に「あぁ」と蒼双は気の無い返事をした。その目は沼をジッと見つめている。

「少しでも、餌を探してこよう。多少は昔の空気に戻って妖怪の匂いも少し増えた」

 蒼双はそう言って橙対を沼から離れた場所に降ろすと少年の姿に変わった。裾に手を入れて腕を組み、テクテクと歩き出す蒼双の後ろを橙対は追いかけた。


「起きて、森内くん!」

「ウ~ギャルル」

 声が聞こえて目が覚める。自分が寝転がっていることと、肩のあたりを叩かれていることが分かった。瞼を開くと、名前を呼んで叩いている和歌と白くて小さい野獣が見えた。

「わッ」

 歯をむき出して唸る生き物に、つい体を引いてしまう。

「ギャウ! ギャウ!」

 その生き物は白い体毛に黒い筋の模様が入っていた。逞が起き上がると、ピョンピョン跳ねたあと和歌にすり寄っていった。

「そいつなに……?」

「多分、本の中から出てきたと思う」

 和歌が膝の上に置いていた本を渡してきた。表紙に「聖獣・虎」とあるが、逞がページをめくってみると中身はただの紙束で何も描かれていなかった。この状態は自分が虎になっているときに見たことがあるが、本を触る逞の手は見慣れた形のままだ。混乱していると、和歌がビシッと人差し指を立てて話始めた。

「伝説によると! この本には大昔、鬼と戦った動物たちが眠っているという……だからきっとこの子は本から出てきた勇敢な白虎なんだよ。こんなところに野生の虎がウロウロしてると思えないし」

 こんなところ、と言われて辺りを見渡すと背後には山、前方には瓦屋根の一軒家がずらりと並んでいた。知らない街だが、虎が出没しては困りそうな風景だった。遠目に着物の人もちらほら見える。

「どこココ? 京都?」

 イメージが近い土地を出して尋ねてみたが、和歌は首を横に振った。

「其ノ山だと思う」

 そう言うと、和歌は山を指差した。

「あそこ、山がいくつか連なって見えるでしょ? 其ノ山小学校からも同じように見えるんだ。森内くんは馴染みが無いだろうけど、私はずっと見てるから」

「同じなんだ。でも」

 和歌の言葉に説得力を感じながらも逞は振り返る。

「やっぱり町が変だ」

「うん。私もそう思う。だから、確かめに行こう」

「どこへ?」

「雨坂神社。この辺だと一番長い歴史があるから」

 和歌が白虎を抱いて立ち上がった。逞も空になった本をもってそれに倣う。ここは一体どこなのか、見覚えのない街並みを和歌の方向感覚を頼りに歩き始めた。

「スマホ……全然だめだ」

 電波が入らずネットは通じない、家の電話にも繋がらなかった。画面も時々固まって壊れかけのように動くので、諦めてポケットに押し込んだ。

「ねぇ」

 しばらく山に沿って歩いていた和歌が足を止めた。茂った草で身を隠すようにしゃがみこんで、逞にも同じくしゃがむように手で合図した。

「どうしたの?」逞が尋ねた。

「神社に向かうのに、そろそろ街中へ入りたいんだけど、見て」

 視線を向けた先は時代劇の撮影セットのようだった。まげやかんざしに和服の装いで人々が歩いている。

「私たち、このまま出て行ったら変な人だよ」

 和歌が自分の服をピンと引っ張ってみせた。Tシャツにスカート、スニーカー、逞も一式洋服を着ている。その上、白い虎も連れていればトンチキペアだと指もさされるだろう。

「服を隠せる、布とか。かぶって入ろう」

 人目を避けながら藪の中へ放置されたガラクタを漁ってみる。木の端材や破れたやかんに紛れて、丸められた藁の編み物がいくつか積んであった。

「ごめんなさいッ」

 和歌が謝りながら一つ藁を引っ張り出した。開いてみると足元まで隠れる大きさだったので二人そろって羽織り、裏路地を通り抜けた。山が見える方向を確かめながら進んで行くと、真っ赤な鳥居が見えてきた。

「やった……ちゃんと着いた!」

 入り口の石に雨坂神社と彫られている。場所は間違いないようだが、ガヤガヤと人の声が騒がしかった。

「なんだろう、祭りかな?」

「うーん。雨坂神社でお祭りしてるの、見たことないけど……」

 違和感のある光景に二人が様子を観察していると、中から一人の女性が出てきた。彼女は餅が山のように積み上げられた皿をもって、二人がいる山の方角へ歩き出した。

「わッ」逞は思わず小屋の影に隠れた。

「なに⁉」

 一緒に物陰へ引っ張られた和歌が驚いた声をあげた。

「目ぇ合っちゃったかも、さっきの人」

「なんで隠れるの? 神社で何してるか聞いてみようよ」

「それもそっか……よし」

 話し合って振り返ると、餅を運ぶ女性が不思議そうに二人を見つめていた。

「子ども二人で、どうしたの?」

「え、っと」

 しゃがみ込んで下から目線を合わせてくれる優しい声色に逞が言葉を詰まらせていると、和歌がスッと前に出た。

「私たち! 隣の村から来たの、親戚を尋ねに……で、だけど何処に住んでるのか分かんなくなっちゃって」

「そう、なのね」

 和歌が思いつくままに適当なことを言うと、女性の顔が曇った。悲しそうな表情をしたかと思うと、皿の上の餅を二つ手に取って二人に差し出した。

「ここまで、よく頑張ってやって来ましたね。着の身着のまま、お腹も空いたことでしょう。さぁどうぞ、お食べになって」

「あ、ありがとうございます……?」

 理由が思い当たらないままに餅を受け取って、和歌は片方を逞に差し出した。

「……二人はきょうだいなの?」

「えっと、はい! 弟の逞ちゃんです。ねっ、逞ちゃん?」

 女性の質問に和歌が元気に答えた。逞は流れに身を任せて頷いた。

「そうなんだ、お姉ちゃんのお名前は?」

「私の名前は和歌です!」

「二人共、いいお名前ね。私は咲、あそこの神社でお手伝いをしています」

 女性は咲と名乗ると、二人を見通しのいい道へ連れ出した。

「あの神社にあなた達と同じ状況の人たちが集まってるわ。お風呂や寝床は無いけど、衣や食べ物は少しならあるから、体を休めて」

 同じ状況という言葉が引っ掛かったが、ひとまず頷いて話を聞いた。

「親戚探しは、私と一緒に行きましょう? 案内があったほうが早く見つかると思うから。いいかな?」

「いいんですか! ありがとうございます」

 和歌がすぐに返事をすると、咲の顔に微笑みが浮かんだ。

「ううん、大したことじゃないから。私、これから用事があって。それが済んだら迎えに行きますから、神社で二人そろって待っててくれる?」

 逞と和歌が頷くと、咲は二人に神社へ行くよう促した。鳥居の前まで行ってから振り向くと、咲が小さく手を振っていた。

「中入ろ。咲さんとは後でじっくり話すチャンスあるし」

 和歌に促されて、逞は後ろ髪を引かれながら神社の敷地に入る。咲には早輝の面影があった。

「ん?」

 二人が足を踏み入れると、鳥居の影で寝転がっていた男が起き上がってきた。頭のテッペンからつま先まで一通り視線を向けられる。

「どっから来たんだ、お前たち」

「隣の村からです」

 和歌が答えると、男は二人の顔をジッと見てから、横で木の札を磨く別の男に声をかけた。

「なぁ、こんな子どもらいたか?」

「……さぁ」

 木札の男が二人をチラリと一瞥して小さく返した。その返答に寝ていた男の眉間にしわが寄る。

「さては、近所のガキンチョかぁ? 小腹が空いてんならテメェの家で食えっ」

「えっ、ちが」

「ここにはなぁ限界の奴らがやっとこさ、腰落ち着けてんだ。帰る家があんなら、さっさと帰りな!」

 大きな声に和歌は怯んで黙ってしまう。逞も男の言葉に不安がこみあげてきてしまった。

「帰れるなら帰りたいよ……」

 ただでさえ鬼と戦って、いっぱいいっぱいだったところに今度は場所すら変わってしまった。どうしたらいいか分からないのに、尋ねるべき祖父母や早輝はどこにいるのか見当もつかない。

 二人して言葉を見つけられずにいると、カタ、と男が木札を置いた。

「どこから来たか、見覚えのない顔でも構わねぇだろう。もとより、ここはそんな集まりだ」

「う、それは……そうだな」

 木札の男の言葉で、寝ていた男の声がしぼんだ。木札の男は逞と和歌の前にしゃがみこむと、手に持っていた餅に視線を向けた。

「そいつ、咲さんから貰ったんだろう。つきたてで柔らかいうちに食べるといい」

 男は先ほどまで自分が座っていた藁の敷物へ二人を手招きした。ちょこんと座って餅に一口かぶりつくと、ほのかに温かくほんのり甘い味がした。

「左吉。俺はこいつらに衣を持ってくる。子どものは程度が良いのがあったろう」

「ああ、そうだな」

「お前はそいつらに詫びでも入れとけ」

 男は木札を胸元に仕舞うと、神社の奥の方へ歩いていった。残された左吉という男は、頭をぼりぼりとかいた後に二人の前に膝をついてバチン! と大きな音で手を合わせた。

「済まなかった! 気が立っててよ……言い訳してもいいか?」

 逞が和歌の様子を伺うと、小さく頷いてから「聞かせてください」と答えた。

「お前ら、隣村から来たんだってな。其ノ山の方か?」

「はい! そうです」

 聞き馴染みのある地名に和歌は目を輝かせた。反対に左吉の目には影が差した。

「そうか……あそこにはひと月ほど世話んなった。いいとこだよな」

「もちろん」和歌が誇らしげに言った。

「その調子だと、現物は見て無さそうだな。それでいい。早いとこ逃がされてんのは大事にされてるってこった」

「えっと、現物っていうのは? 逃がされてっていうのも」

 和歌は目を丸くし、逞は左吉をいぶかしげに見つめる。左吉は面食らって大きく息を吐いた。

「はぁー何も聞いちゃいねぇのか。どうしたもんかね、こりゃ」

 左吉の眉が限りなく八の字になったところへ、木札の男が畳まれた服を抱えて戻ってきた。くすんだオレンジと黒に近いブルーの着物だった。

「好きなほうを選べ。着丈は、ほぼ変わらん」

 渡された服を開いてみる。どちらも使い古された着物で、和歌がオレンジ色の方を素早くさらっていった。

「なぁ、こいつら。なんにも知らねぇんだ。話しちまっていいもんか?」

「親も無しにここまで来たんだ、多少のことには動じんだろう。なにより明日のことを考えりゃ、教えねぇ方が酷いもんだ」

 左吉は木札の男と話したあと、二人をジッと見つめた。

「お前ら、餅は飲み込んだか? 喉に詰まると悪いからな」

 逞と和歌が頷く。

「よし。これからする話は俺の気が立ってた理由、神社に人が集まってる理由、お前らがこの街に寄こされた理由にも関わってる。気分が悪くなったらすぐ言えよ、水をもってきてやる」

 左吉はそう前置きすると、和歌と逞にとって聞き覚えのある話を始めた。

 木札の男の名は辰見といい、左吉と共に川沿いの村に住んでいた。とある日、二人は夜更けにゴウゴウと胸に響く音で目を覚ました。ヤケに不安に駆られる不愉快な音に、二人は「川が荒れているのでは」と心配して外へ様子を見に行った。

 確かに、川は荒れていた。だが、それ以上に対岸がおかしいのだ。月が大きく輝く夜にぼんやりと浮かぶ景色は木々ばかり。明かりが一つも灯っていない上に民家が影も形もない。川の恵みを共にしていた集団が寝息一つもあげない。

 困惑が胸を渦巻き、頭で必死に原因を探した。暗がりを見つめていると一点に目が引き寄せられる。月明りが差す中でひたすらに暗く、墨で塗りつぶしたように奥行きが感じられない黒。

「左吉、今すぐここを離れよう。なるべく遠く、遠くまで!」

 村を飲み込むように広がっていく黒から二人はひたすら逃げ出した。

 翌朝、日が昇りきってから恐る恐る家の様子を見に戻ると、川向こうが良く見えた。家はことごとく潰れ、畑は掘り返され、人の姿は一つも無い。あそこだけ、何十年も放置されたかのような荒れっぷりだ。それが一夜にして起こったことだった。

 二人は家の中から食べ物や着物、生活に必要なものだけを持ち出してまたすぐに家を離れた。もう戻れる気はしなかった。なぜなら、対岸から川をまたいで一本の大木が倒されていたからだ。まるで橋のように横たわる木は、こちらへ黒がやって来る予告に思えてならなかった。

 一週間後、左吉と辰見の家は無残な姿に変わった。逃げてきた二人の話を聞いて見張りをしていた男が青ざめた顔をして「鬼が村を滅ぼした」と語った。

「そっから大体八日に一度、鬼が現れるようになったんだ。んで必死こいて逃げてきたのがここの連中よ。追われるように出てきて頼れるもんがねぇところを、ここの人が世話してくれてるって訳だ」

 話を聞いてお互いに思い当たる節があったのか、逞と和歌の目が合う。体を寄せて小声で意見を交わした。

「ネットで読んだ其ノ山の話に似てる」

「ね。私が知ってる妖怪伝説とほぼ同じ」

 もう少し詳しく話し合いたいが、左吉たちの前で余計な口を滑らせないよう確認だけをした。すると、何を思ったのか左吉が涙ぐみながら励ましてきた。

「お前たち、寂しいし苦しいだろうが、お前らの家族はお前らの安全を願って先に逃がしたんだ。何も伝えなかったことも優しさってやつだ。後で一緒に祈りに行こうな……!」

 どうやら、左吉の中で逞と和歌は、鬼の手が迫る村から事情を知らされぬまま逃がされた子どもたちという認識のようだ。

「ええ、そうですね……そうしましょう」

 和歌が話の流れに乗った。逞もその意図を汲んで設定を頭に叩き込んだ。

「それで、左吉さんの頭に血が上ってた理由は?」

 パッと顔をあげて和歌が話を切り替える。左吉は手ぬぐいで目元をぬぐうと「それだ、それが一番肝要だった」と居住まいを正した。

「明日なんだ。前に鬼が出てから八日目は」

「えっ、じゃあ、またどこかが」

 襲われるのか? その質問に左吉は頷いた。

「立地が一番近いのがここだ。前に鬼が出た場所から他の人里へ向かうには、山を越えなきゃなんねぇからな」

「だから明日、この街の人間含めて全員で山を登る。そうして八日目の夜が過ぎたら、鬼がやってきたとしたら、故郷を捨てなくちゃならない」

 辰見の言葉に沈黙が訪れた。会話が聞こえていたのか、周りの人たちも表情が曇ったようだ。

「だが、まあ! 生きてりゃ儲けも出るもんよ。俺には辰見が、お前らもお互いがいるってことだ」

 左吉がその空気を大きな声と拍手でかき消した。

「さ、もりもり食って体力つけるぞ! なんか持ってきてやる。待ってろ~」

 そう言って腰を上げた左吉に辰見もついていった。和歌と逞は二人が離れていくのを見送ると、なるべく塀の近くへ寄って人から距離をとった。

「ねぇ、私の予想、話してもいい?」

 逞が頷くと、和歌は話を続けた。

「妖怪伝説って、其ノ山で人々が祈りをささげて、それに応えた動物たちが鬼を鎮めておしまいになるの。まさに今の話って感じ。だから、いま私たちがいるのは、妖怪伝説最後の一日を迎えようとしている昔の其ノ山」

 どう思う? と和歌が意見を求めてきた。逞もおおむね同じ見解の上で、ひとつ付け足した。

「さっき左吉さんが言ってた、襲われた村の黒い何か。俺、同じものを見たと思う。俺たちが飲み込まれた泥みたいなやつ」

「泥?」

 和歌が首を傾げた。あの時は気を失っていたから見ていないようだ。

「俺たち、其ノ山の大木から溢れた泥に飲まれて、目が覚めたらここにいたんだ」

 逞は和歌がさらわれてからのことを伝えた。二人の鬼と亀の本、札を剥がした大木について話すと和歌は一瞬、目を輝かせたがすぐに大きく息を吐いた。

「これから思いついたこと話すけど、私の冒険心とか好奇心とか入っちゃってて、多分危ない提案だと思うの。だから、無理だと思ったら止めてね」

 和歌のテンションが上がっているのがみてとれる。文章や絵であれだけ熱量を持てるなら、トラブル中とはいえ実際に体験できそうな機会を前に熱くなるのは仕方がない。

「うん、分かった」

「今の話を聞いて、ソコから来たならソコから帰るしかないんじゃないかって。私たちの其ノ山に帰るには、黒い泥へ飛び込むのが一番可能性あると思うんだ!」

「それって明日の夜、鬼に襲われに行くってこと? 危ないどころじゃないって」

「さすがにそれは私も……これが伝説通りに進むとしたら鬼は封印されるはずでしょ。だから、封印の時に飛び込むの。ね、これなら大丈夫そうじゃない?」

「封印の時って?」

「伝説では場所が明確じゃないけど、逞ちゃんの話からして封印される場所は大木だと思うから、鬼がそこに追い詰められた時だね」

「う、う~ん」

 逞は困った。かなりの賭けなのに、自分の感覚を頼りにした話が根拠にされていて不安になる。本当に帰れるのか、と考えるほど自分の記憶が怪しく思えてきた。

「やっぱり危ないって。せめて今日一日、情報を集めてから決めよ」

「じゃあ、咲さんが来たら街を案内してもらって、鬼についても聞いて回ろうか! 親戚探しは……詳しいことは聞かされずに、急いで出発させられたってことで『何も情報は無い』でいこ。探しても居っこないし」

 簡単な打ち合わせを済ませると、左吉と辰見が戻ってきた。二人の手元からほわほわと湯気が立っていて自然とお腹が鳴った。

 餅入りけんちん汁をすすり、物置小屋を借りて着替えを済ませた二人の気分は上がっていた。着物を選んでくれた辰見に見せると「よく合っている」と評価をもらった。

「おうおう、二対って感じだな。狛犬みたいなよ!」

 横から左吉が褒め言葉を投げてきた。和歌が鼻を鳴らして答える。

「ええ、ええ。だって私たちきょうだいですもん!」

「あぁ、どうりで」

 辰見が言葉を切って振り返る。逞たちから離れた目を追うと、鳥居で咲がこちらにふわりと手を挙げていた。

「逞さん和歌さん、お待たせしました。その着物とっても素敵ね。もしかして辰見さんが?」

「あぁ」辰見が頷いた。「貴方が持っていった餅を手にしていたので、食事と衣を」

「ありがとうございます。それなら体力は補充できたかしら」

「はい!」

 和歌の返事に続いて逞も頷く。二人とも汁をおかわりして満腹だ。むしろパンパンでお腹周りが苦しい。

「よかったぁ。では、一緒に街を回りましょうか」

「お、探しものか?」左吉が言った。

「この子たち、親戚を尋ねてきたんだそうです。ただ、場所が分からないそうで一通りみてこようかと思いまして」

「なんだ、頼りがあるに越したこたねぇな。ま、見つかんなくても戻ってくりゃいいさ」

 左吉の励ましに辰見も乗った。

「調子はいいがこいつの言う通りだ」

「ありがとうございます」

 逞は礼をした。ほんの少し過ごしただけなのに、戻ってくればいいと言ってくれたことで温かな気持ちになった。知らない土地で一つ、休める場所が出来たことにホッとした。

「さっ、明るいうちに行きましょう」

 咲の先導で神社を出ていく。曲がる前に振り向いて、左吉と辰見に二人で手を振った。雨坂神社が面する細い路地を抜けて大通りに出る。遠目には馬が見えて、足元にはどこからかやってきた柴犬が絡みついてきていた。

「わ、どこの犬?」

「あら、梅代さんちの葉っぱちゃん」

 逞が足のやり場に困っていると、咲がスッと犬を抱き上げた。

「二人とも、まだお腹は大丈夫?」

「ガウゥ~」

「あ⁉」逞が思わず声をあげた。

「大丈夫そうですね。物知りな菓子屋さんに行きましょう」

 歩き始めた咲に着いていきながら、逞は和歌の影で自分のお腹を確認した。着物の襟を軽く広げると、白いふわふわの顔が覗いた。

「ぎゃんっ」

「歯だすと怖いって。夜に散歩でも付き合うから今はダメッ」

 狭くて申し訳ないが注目を浴びるのが目に見えているので、再び着物の中に戻ってもらった。空の本も一緒に入れているのだが、本に戻ってはくれないようだ。

「白ちゃんどんな感じ?」

「唸ってる」

 視線を遮るように立ってくれていた和歌に報告していると、咲が「見えますか、緑ののぼりです」と声をかけてきた。店先に横長の椅子が置かれていて、女性が一人でお茶をすすっていた。

「梅代さん、こんにちは。葉っぱちゃんが巡回してくれていたので、一緒に来ました」

「あ~咲ちゃん。葉っぱもおかえり」

 梅代が腕を伸ばすと犬が飛び移った。咲は空いた手で懐から財布を取り出す。

「草まんじゅうを三つ。それからお話聞かせてもらえますか?」

「はいよ~」

 梅代が棚の上に置かれた木箱の中から緑色のまんじゅうを皿に乗せた。二つの箱はどちらも草まんじゅうしか入っていない。

「で、話って?」

「この子たちのことなんですが」咲が和歌と逞に顔を向けた。「ほら、座って食べましょう?」

 促されるまま椅子に腰かけて、梅代から草まんじゅうとお茶の入った湯呑を受け取った。

「隣の村から親戚を尋ねてきたそうなんですが、心当たりのある家はありますか?」

「どうだろうねぇ……伝手の広い人たちはもう出ていってるし、街に残ってるとしたら明日の山登りで会えるんじゃないかい」

 カッカと梅代が笑って答えた。咲は逞たちを見ると眉を下げてほほ笑む。

「二人が良ければ街を一周しても?」

 咲の提案に二人で頷いて、よもぎの青い香りがするまんじゅうに香ばしいほうじ茶で一息ついた。葉っぱがこちらに擦り寄ってくるたびに腹を撫でていると、いつの間にか皿が空になった。

「ごちそうさまでした梅代さん。おいしかったです」

「あいよ~! 明日、みんなのおやつに持っていくから楽しみにしてな」

 梅代と別れて大通りを歩いていく。通りに向けて入り口が開かれているが、人が見えない店がチラホラ。

「平日のテーマパークみたい」和歌が呟いた。

「ガラガラってことね」

 逞が返すと咲が小さく笑った。

「ほんとう、人がいませんね。最近は神社に詰めていたから、むしろ賑やかな気がしてました」

「さっき、人が出ていったって。鬼が出るからですか?」

 和歌が情報収集を試みる。咲は「そうですね」と答えた。

「逃げる力ある人たちはもうすでに。ここにいるのは心や体、それぞれの事情で残っています」

 大通りを抜けて裏手へ。民家が立ち並んでいるが、こちらも風が吹き抜ける音ばかりが響いていた。

「ここに住んでいた人たちも明日に備えて宿に集まっています」

 からっぽ。というのが街を回った逞の感想だった。

「ここ、私の家なんです」

 咲が一軒の家屋の前に立ち止まった。ガラガラと玄関を開けると台所とちゃぶ台が置かれた畳の部屋、奥に続くふすまが見えた。

「私と妹と両親の家。妹たちが出ていってから広すぎて、帰ってなかったんですけど」

「咲さんは一緒に行かなかったんだ……」

 逞の言葉に咲は頷いて「私事ですが、聞いて欲しい」と話し始めた。

「私と妹、喧嘩しているんです。きっかけは街を出ていくかどうかでした。私は残る、妹は出ていく、意見が対立して両親は私たちの判断に任せる、と。その頃、まだ鬼の話は噂で流れてくる程度で、私は『街を出る』という妹が故郷をないがしろにしているように思えたんです」

 咲は悲しそうに微笑んだ。

「今思えば、妹も私に家族をないがしろにされた、と感じていたのかもしれません。きちんと話し合うべきでした。たとえ、結果として別々に行くのだとしても」

 少し間をおいて咲は明るく笑った。

「では、最後に宿を覗いていきましょう。もし見つからなくても大丈夫。なんなら、私と一緒に住みましょうか? 家を持て余していますから」

 トタトタと歩き出す咲に着いていく。この空っぽの街に人が戻れるかどうかは、明日の夜にかかっているのだ。逞は着物の上から白虎を撫でた。

 咲に連れられ宿に顔を出すも当然収穫はなく、三人は雨坂神社に帰ってきた。「戻ったな!」「おかえり」と左吉、辰見から声をかけられる。二人を含めて神社にいた人たちが火をつけたり、野菜を切ったり食事の用意をしていた。咲と別れ、逞は辰見に和歌は左吉について手伝った。

 腹を満たし夜も更けて、満天の星空の元で大人たちは眠っている。神社の中でも僅かな屋根のある場所の内、逞と和歌は本殿を寝床として割り当てられていた。二人共すうすうと寝息を立てていたが、顔を動き回る奇妙な感覚に目を開けた。

「ぎゃん」

 逞の顔は白虎に舐められてベチョベチョ、和歌の顔は尻尾で撫でまわされて毛がたくさん引っ付いていた。手ぬぐいで顔を拭いてからわずかな光の中で視線をかわす。頷き合うと風が通るわずかな隙間からゆっくりと扉を開き、足音と息をころしながら神社の裏手へ回ってそっと敷地を抜け出した。

 寝床から拝借してきた明かり一つを頼りに二人は山へ向かって歩いた。人の気配が無いので、白虎が先導してくれている。

「封印されてた木、見つかるといいね。場所が特定できればタイミングよく飛び込むだけだし。私としては見つからなくても、伝説を間近で追いかけられるからアリだけど!」

 和歌のテンションが高い。封印される場所である大木を探しに行く適切な言い訳が見当たらなくて夜中にこっそり出てきたが、着物に獣、夏に夜。非日常の要素がこれでもかとそろっていて逞の気分も高揚していた。

 軽い足取りで行く白虎の後ろを慎重に歩いていく。一人で登った時よりも足元は石がゴロゴロ不安定だが、先を行く白虎と和歌の背中が力強く引っ張ってくれるようだった。

「今はきっとそこまで大きい木じゃないはずだよね~。分かるかなぁ?」

「俺が行った時は石碑? があったけど、妖怪伝説が書いてあったから今は無さそう」

 暗い街並みの中に二つの明かりが見え始めた。恐らく街を見下ろせる高さまで登ってきたのだろう。歩みを緩めてきょろきょろと目標物を探した。白虎もウロウロと動き回っているようだが、明かりが一つの上に小さいので途切れ途切れにしか居場所を把握できない。

「白、危ないからもっと固まって」

「ギャ?」

 逞の呼びかけにとぼけた鳴き声が帰ってきたと思った次の瞬間。

「アギャギャッ!」

 大きな叫び声。「白ちゃん⁉」と和歌が手に持った明かりで声の出所を探る。ぼわっと明かりが映りこむ水面に、バシャバシャと音を立てながら白虎がもがいているのを見つけた。

「あぁ……ほら」

 逞が手を差し伸べて寄ってきた白虎の体を抱き上げる。びちゃびちゃなのですぐに地面へ降ろすと、懐から手ぬぐいを出した和歌が「白ちゃん風邪ひくよー」と白虎を拭いてくれた。代わりに逞は明かりを預かり、小さな池を眺めた。大木まで登った時にこんな水たまりは見かけなかったが、上がりすぎてしまったのだろうか。高さの感覚を掴むために木々の隙間を探して、足元を明かりで照らしながらギリギリまで街に寄ってみた。

 何も分からない。暗すぎるし、そもそも記憶とはまるで違う景色なのだろう。もう少し登ってみるか、と振り向いた時。池の脇にこれも小さな祠のようなものが作られていた。明かりを近づけて見ると、白虎が入るのでやっとの大きさの木で出来た祠で、餅が山盛り積まれた皿が置かれていた。

「加倉井さん」

「ん? なに」和歌がこちらにやって来る。

「これ、咲さんが会った時に持ってたやつじゃない? なんかいんのかな、神さまとか」

「そーだねぇ」

 和歌は逞に白虎を任せて明かりを手にした。左右に視線を振って池の一部に明かりを寄せる。

「亀ならいるけど」

「亀?」

 ここ、と指さされた箇所には小さな亀が浮かんでいた。明かりがうっとうしいのか、こちらを睨むように顔を向けている。

「亀を祀ってる?」逞が尋ねた。

「祀ってるかもね。だって亀の本も……あるくらいだしッ!」

 和歌の声が荒ぶった。彼女の頭の中で完全にこの亀と資料室で見た「聖獣・亀」の本が一致したのだろう。

「ねえ!」

「うん。そうかもね」

「だよねそう思うよね⁉」

 和歌がぶつぶつと何かを呟きながら祠の周りを回っている。彼女の頭が冷えるまで逞はぼんやりと街を眺めた。今は二か所にしかない明かりが、本当ならもっと街中家の数だけ灯っていたのかもな。でも、それを見ることは叶わないだろうとも思った。

 だって、伝説によれば明日の夜に街は鬼と動物の戦いの場になって、封印されるのは其ノ山の中。当然壊れる家は出るだろうし、封印したからと帰ってくる人はどのくらいいるだろう。自分だったら? 逞は考えて、怖くて帰ってこないだろうなと結論を出した。

「よし、まとまった」

 横で和歌の声がしたので、視線を街から隣に向ける。

「大木の場所は見つけられなかった。正直、明るい時でも難しかったと思う。だから、この祠を目印に明日は動こう。大分私の勘だけど、亀とそれから、誰かが信じるモノにはそれなりのパワーがあると思うから」

「……分かった」

 並んで祠に手を合わせる。確信は得られなかったが、咲が祈った祠が元の場所へ返してくれることを願った。明日の夜、二人はここで鬼が封印される瞬間を待つことにした。


 夜ひっそりと神社に戻り寝て起きると、朝から大忙しだった。昨日作った夕食の四倍もの米が炊かれていて、すべて握り飯にして持っていくのだそうだ。作りながら「場合によっちゃ、このまま次の村へ移動することになるからな」と辰見が教えてくれた。残った食材は保存がきくものは持てるだけ持ち、あしが早い食材は出発前の宴にパーッと食べるのだと左吉が嬉しそうだった。

 先んじて荷物を山に運んでいた筋肉のある人たちが戻って来て、出迎える様に宴が始まった。昨日は鳴りを潜めていた太鼓や三味線の音が響く。明かりをともした提灯がそこら中に下げられ、賑やかさにつられるように宿で見た顔の人たちが咲を先頭にやってきた。それを眺めながら、逞と辰見は神社の隅で壁に体を預けていた。

「街中、みんな集まってるんですか?」

「そうらしい」

 逞は辰見がくれた湯呑を傾けた。白くてトロトロの甘い不思議な風味のする飲み物だ。

「うまいか?」

 辰見の問いに頷くと、彼は自分の持っていたお猪口を見せてきた。透明な液体が揺れている。

「そっちは甘酒、俺のは清酒。地元のやつでちびちび飲んでたんだが、今日の分で空だ」

辰見は残りをクイッと飲み干して、鼻からスーっと息を吐きだした。

「こういう、いい空気の時には樽でドンとふるまいたかったもんだが。また次の機会にだな」

「次って、いつ?」

 ぽろっとこぼして、ハッとした。慌てて辰見の様子を見ると「そうさなぁ」と軽く笑っていた。

「お前さん、歳はいくつだ」

「九歳」

「なら、酒の味見が出来るくらい歳にはなってるだろう」

「十一年?」

「どっから出た数字だァそれ。まぁ……かかるかもな、見当もつかねぇから」

 逞と辰見の間に空気が流れた。視線の遠く先では和歌が叩く不規則な太鼓の音にノッて、左吉が腹を出して踊っている。各々が思い思いの場所で笑っていた。

 夕暮れ、ひんやりと風が吹く。山頂で夜を過ごすことになるからと、咲から薄手のはんぺんを受け取った。その上から握り飯の入った小さい包みを担いで、逞と和歌は街の人たちと山を登り始めた。

 前々から準備されていたのだろう。頂上に着くと、簡易的ではあるが木と藁で屋根が建てられたテントのような空間がいくつか用意されていた。荷物を降ろして火をともす。ぐるりと集団を囲むように明かりが配置されると、夕時に戻ったようなオレンジ色に照らされた。

 月はどんどん登っていく。だが、周りの話し声は絶えない。火が眩しいのか不安だからか、同じく寝ずに座って目を開けていた逞と和歌に「横になって目をつむれば、自然と眠れますよ」と咲が声をかけた。二人は頷いたが最も重要な瞬間を待つために眠るわけにいかず、拳を握って意識を保ち耳ではお互いが寝息を立てていないか確認し合った。

 いつになってもヒソヒソと声がし続ける。ただ、しばらく大人しくしていたおかげか二人の周りからは人が遠ざかっていた。起こさないようにという配慮だろうが、薄目でそれを確認すると今だとばかりに飛び出した。

昨夜の反省を生かして一人一つの明かりを持ち視界を広げる。夜目のきく白虎の足取りを頼りにしながら下っていくと、山中なのにぽつりと明かりが灯っているのが見えた。逞と和歌は怪しんで足を止めたが、白虎はお構いなしに突き進んでいく。怪しい明かりの影でぼんやりと祠が見えたのもあって、足音をころしながら二人は白虎を追った。

白虎が怪しい明かりの近くへぴょんと飛び降りる。

「ん……?」

 物静かな夜に似合わない気配を感じたのか、明かりを持った人物がくるりと振り返った。ぽわーっと人の輪郭が現れて顔つきが照らされる。

「あぁっ咲さん! ここで何を?」

 和歌がタンタンと駆け寄っていく。

「危ないからゆっくりね。二人こそこんなところまで、どうしたの?」

 答えに迷って二人で視線をかわすがどちらも言葉が出てこない。余計なことを言ってこの後行動しづらくなるとかなり困る。眉を八の字にして見合っていると「もしかして心配して着いてきてくれたのかな?」と咲がはにかんで見せた。

「あ、はい……気になっちゃって」

 和歌が当たり障りのない返しをしてくれた。だが、逞は咲の言い方に初めて違和感を覚えた。冗談めかして答えを避けられた気がする。

「ここはね、白蛇さまが祀られているの。山から街を見守っているとされていて、神社の神主さんからくれぐれも大事にって頼まれていたんです。だから最後にお掃除とお祈りをと思って……っ⁉」

 キィーンと体中に鋭い振動が走った。思わず耳を塞いでもそれは収まらない。出所を探して周囲を見渡す中、咲が「あ」と声を漏らした。大きく開いた目の先は街の景色に向けられている。視線を追うと、二つの大きな明かりが炎のように揺らめきながら歩いていた。その光によって街に流れ込んだ泥があぶりだされていた。

 ガシャン! 揺らめく炎に家がなぎ倒されて崩れた。後ろからヒュッと息を吸う音が聞こえた。

「ふたりとも、上に逃げましょう。ここにいてはだめッ」

「えっ?」

 息を乱して焦る咲に和歌が戸惑っている。逞の中では自分の気持ちと咲の言動が繋がったように感じられた。街を見下ろすと泥が波打っていて、心がざわざわ何もせずにはいられない気分がこみあげてくる。

「さぁ早く!」

 痺れを切らして咲が二人の手を取った。逞は引かれた手をぐっと引き戻して和歌に告げた。

「俺、行ってくる」

「どこに?」

「あそこ」逞は街を指差した。

「なんで? だって、私たちの目的って帰ることだよね。少なくとも大木が山にあるのは絶対でしょ?」

「うん、でも行く。行って戻ってくる」

「だから、なんで?」

「今、なにもしないで元の時代に帰ったとして。そしたら次は、じいちゃんやばあちゃんがアレに飲み込まれる気がするんだ。だから今やれるかもしれない事、全部やっておきたい」

 和歌は黙っていたが、スッと逞を掴んでいた咲の手を自分の方へ引き寄せた。自由になった逞は咲の足元から駆け寄ってきた白虎と共に山を飛び降りていった。

「あぁ」

 咲が震えた声をこぼした。その手を握りながら和歌は逞が飛び出した先を見た。人と虎が手を取り合い一つになって駆けていく。背中を追うように一匹二匹と小さな動物たちが飛び出していった。

「本当に起こるんだ、妖怪伝説」

 冷えた咲の手をこすりながらも、和歌の胸は感動で満たされていた。それがいいのか悪いのか分からぬままに釘付けになった。

「ねぇ咲さん。お祈りするなら山頂が良いよ、みんなで一緒に」

「えっ、貴方たちは……?」

 みんなでという言葉とは裏腹に和歌は咲の手を離した。困惑する咲を「さあさあ! 咲さんが行ったら私も行きますから」と押し切るように背中を押して送り出した。

 時折、不安そうに振り返る咲の姿が見えなくなるまで手を振って見届けると、和歌はしゃがみ込んで亀のいた池を照らした。昨日と同じようにぷかぷかと泳いでいた。

「ね、泥を封印するために私に出来ることあるかな。亀ちゃんなら分かると思うんだけど」

 和歌の問いかけを聞きながら、亀はくるくると渦を作るように水の中をただよう。

「無さそ?」

 ポツンと呟いて街に目を向けた。暗くて見えないがどこかで逞が戦い始めているのだろう。

「私は逞ちゃんのあの熱、よく分かんないけど。私は私の理由で動きたい。妖怪伝説のハッピーエンドのために出来ること、なんだろ」

 一方的に語り掛けて一息つく。泳いでいた亀が縁に辿り着いて陸にあがってきた。小さく一歩一歩山中に向かって歩き始め、ぼーっと眺めていた和歌に一度振り返った。

「着いてくよ?」

 そう聞いて和歌が前に出ると、亀はまた歩を進めた。


 生の手とハイタッチ。紙とは異なる温かな感触がして目と目が合う。

「ガウゥ!」

 気合十分と受けとって街の中へ飛び込んだ。体の感覚が一瞬無くなって、屋根に着地するときにはたくましい白虎の姿に変わっていた。屋根を伝いながら駆けていくと炎に包まれているモノの形が見え始めた。

「やっぱり」

 小柄な二本角の鎧と三本角で巨体の馬、橙対と蒼双だ。

「キャキャッ! あぶり出し~」

逞は進行方向を右に定めて、家を壊している橙対に飛び掛かった。

「グワッ⁉」

 体重に勢いを乗せた突進を受けて、橙対は衝撃のままコロコロと転がっていった。すかさず距離を詰めた逞が橙対の首根っこをくわえて持ち上げる。

「はい⁉ どなたさまぁあ~!」

 混乱して叫んでいる橙対を向こう側に見える蒼双めがけて放り投げた。ビュンと風を切って飛んでいったが、蒼双は角の先で橙対を引っ掛けて受け止めた。蒼双が白虎を睨みつける。

「二人まとめて、相手してやる!」

 高める様に啖呵を切って、勝てる確証を得るために走り出す。前より脚に力が入って素早く飛び出せた。蒼双が構えをとる前に首元へしがみついて噛みつく。

「ヴッ……!」

 声を漏らして蒼双が身をよじった。角からポロリと落ちた橙対は逞の背中を踏み台にして地面に降り立つ。

「んじゃ任せるわ、その猛獣!」

 タッと場を離れようとする橙対に逞は尻尾を伸ばした。辛うじて片方の角に絡みつけたものの、離れようと頭を引っ張る橙対の動きで徐々に緩んでいく。するっと抜けられてしまった時、「いてえ!」と橙対がその場にしゃがみこんだ。足元を見ると目つきの鋭いウサギが橙対のすねに歯を立てていた。

「チッ。クッソ……!」

 蒼双が舌打ちをしながら首を大きく薙ぐように振った。尻尾に意識をとられていた逞は後ろ足が浮いてしまい、前足で爪を立てて首にしがみつく。振り回されながら耐えていると蒼双の動きが一瞬止まった。

「ハァッ!」

 頭ごと地面へ叩きつける様に前足に力をこめる。蒼双は体勢を崩して地面に倒れた。

「グゥッ!」

 倒れた蒼双の尻尾をカラスがくちばしでつまんでいた。隙が出来たのはカラスのお陰のようだ。他にも街中にいくつも影が見える。うねる泥の前に動物たちが壁のように連なって立ちふさがっていた。


 亀の小さな足取りに合わせて和歌も歩く。いずれここにやって来る戦いまでの合間を埋めるようなシンとした時間が流れていった。亀は森の中へ入って行くと、木々の隙間を縫うように月明かりが一筋差し込む場所で立ち止まった。和歌も近寄って見ると小さな卵が転がっていた。

「ちーちゃい卵だねぇ」

 和歌が亀に話しかけると、亀は卵にピタッと寄り添った。「大事に? あっためる?」と和歌が聞くと亀は視線を向けた後まぶたを閉じた。はい、の返事だと受け取って周りの木の葉を寄せ集めて卵を手で優しく覆う。

 遠くに物音、この場には呼吸音。いつまでも時間が経たない気がして目を閉じていると、手がかすかに震えた。はぁっと息を吐きだしてまぶたを開いてみる。亀が和歌の手をツンツンと突いてきたので広げると、指の隙間から白くて細い蛇が登ってきた。

「わ……」

 手から抜け出したかと思うと蛇は月明かりの中心へ移動した。蛇の体が影を作り、光がいくつにも分かれて山を下っていく。光は段々と線からきらめきに、街へたどり着くころには水へ姿を変えていた。和歌はその風景を見届けて目を輝かせた。

「すごいね、すごいよ蛇ちゃん!」

 白蛇は目を細めて笑ったような顔になる。そばには亀が寄り添っていた。


 逞と動物たちは橙対・蒼双と戦い続けていた。二人の動きがこちらに集中しているおかげで家は破壊を免れているが、泥のうねりは止まらない。街中に泥があふれていく上、足をとられた動物が何匹か飲み込まれていった。泥への対策を探りたいが、二匹の鬼を相手にした逞にはそこまでの余裕がない。

「くそ~お前らのせいで捗らないよ!」

 橙対が焦ったように地団駄を踏んでいるが、逞も内心は変わらなかった。山までたどり着けば戦況も変わるのか? と思っていた時だった。思いを向けていた山の方から轟音がして振り向くと、大量の水が流れ込んできていた。

「なっ」

 咄嗟に言葉も出てこない。「なになにヤバい?」と橙対がぼーっとしているあたり、鬼たちの仕掛けではないようだ。

「橙対! 下へ降りるなッ」

 屋根からぶら下がって様子をのぞき込んでいた橙対に蒼双の注意が飛ぶ。その勢いを見て逞も動物たちに「みんなも上へ!」と呼びかけた。自力で登れない動物を屋根の上に放りあげている間に水も泥も勢いを増していく。二つの流れは意思があるかのように逞たちが避難している家々を避けてぶつかり合った。激しい流れが混ざり合い、逞も動物も鬼も触れないよう見つめることしか出来ない。

 やがてどちらも濁った水のようになった頃、一気に流れの向きが変わった。反発しあっていたものが山の方へ向かって引っ張られるように移動していく。街の泥もどんどん飲み込まれて引いていった。

「あぁ……コイツは」

 蒼双が呟いた。いつの間にか馬から少年の姿に変わっている。

「なに? なんなの? 鎧がぁ~」

「兄上が敗れたようだ。俺たちも行くぞ」

 少年の姿をした二人の鬼は塵になり風と共に去った。逞には何が起きているのかまるで把握できていなかったが、流れの向かう先は祠の辺りだと予想はつけられた。動物たちには完全に水が引くまで待つよう言い残し、逞は屋根伝いに流れを追いかけた。


 水の量が増えるのに対応して蛇も異常な早さで成長していった。生まれたばかりで和歌の手のひらサイズだったのが、今は和歌の身長を軽く超えている。亀に促されるまま距離をとって様子を見ているが、少し怖くなるくらい非現実的な光景が和歌の目の前で進んでいた。しばらくすると今度は水が逆流し始める。亀がさらに後ろへ下がり、和歌もそれに倣った。

「これ、なにが起こってるの?」

 和歌が尋ねても亀は蛇を見つめるばかりで答えない。封印に関わるなにかだろうとは思うが、黙って見守るほかなかった。戻ってきた水が白蛇の体に吸い込まれて行く。やがて透明だった水が濁り始めたが構うことなく吸い込み続け、白蛇の体には茶色い染みが付きだした。

「えっ」

 和歌が思わず一歩踏み出す。だが、その先を亀が足で遮った。ふたりでただ染まっていく白蛇を見つめて時間が過ぎ、最後の一滴まで吸い尽くした蛇は全身が茶色く染まった。

蛇がこちらを見る。亀と視線をかわした蛇はゆっくりと目を閉じた。うねっていた体が上空へ向けてまっすぐに伸び、地面に接する尾から徐々に固く変化していった。遠くから足音が駆けてくる。白蛇が天に昇る大木になった時、白虎が姿を現した。


あたりがゆっくりと白んできた。明かりが無くても足元が見える。逞と和歌は白虎と亀を伴って山を登り始めた。

「……ごめん、俺のせいでタイミング逃した」

「なーに謝ってるの」

 逞が頭を下げると和歌が笑って答えた。

「逞ちゃんはやることやって、私もやることやったんだよ。全然いいじゃん!」

「でも、帰るアテが」

「来れたんなら帰れるよ」和歌が優しく微笑んだ。「それよりきっと咲さんたちスゴイ心配してるから、早く顔見せに行こう!」

 タッタと和歌が走り出すと白虎も我先にと駆けだした。ジッと先を行くふたりを見ている亀を抱えて逞も後を追った。

 夜中につけた明かりの燃えカスの匂いを感じながら上にあがっていくと、真っ先に咲と目が合った。逞と和歌が顔を見せたとたんにこちらへ駆け寄ってくる。

「あぁ良かった! 二人共、無事で……」

 逞と和歌の手を取り、二つまとめて咲が両手で握りしめた。周りでも各々が抱き合ったり寄り添ったりしながら笑い泣いている。

「お腹空いたでしょう。おにぎり、一緒に食べましょう?」

 咲が手を引いて二人を敷物の上に案内し、三人分のおにぎりを並べた。「頂きます」と逞、和歌が食べ始めると「貴方たちもどうぞ」と咲が白虎と亀の前にもおにぎりをひとつずつ置いた。

「二人はこれからどうするの? 私の家に来るのも楽しいと思うし、親戚や家族を探すなら出来る限り協力しますよ」

 もぐもぐと口を動かしながら逞と和歌は顔を見合わせた。逞に思いつくところは無いし、和歌も眉を八の字にしている。そこへ亀が動き出して土がむき出しになっている地面の上に移動した。

「どうしたの?」

 和歌が尋ねると、亀は爪で地面に線を引き始めた。まず、二つの棒人間が描かれ、次に耳が生えたものと甲羅を背負ったもの二つの小さな生き物が加えられた。最後に彼らの頭上に雲を足して亀は爪を引っ込めた。

「なに? これ」

 和歌が首をかしげる。三人で絵がうまい、意味は何かと話し合いながら食事を済ませた。

「ごちそうさまでした!」

 手を合わせる頃には太陽が出始めて、雲の切れ間から光の筋が差した。逞が眩しくて目を細めた一瞬、ブゥンという音と何かがはるか上空を横切った気がした。

「あのさ今」

 逞が隣にいる和歌の肩を叩いて空を指差す。

「うん、わッ」

 和歌が返事をするとなぜか体が浮かび上がった。隣の逞も白虎も亀も同じように少しずつ上に引っ張られて行く。

「えっ、え⁉」

 咲が地上で混乱しながらこちらを見上げた。逞も困惑していたが和歌を見ると亀と視線をかわして「そっか」と頷いていた。

「これ、私たち帰るみたい。亀ちゃんがこれでいいんだって」

「はぁ?」

 どうしてそうなるのか、口をポカンと開けているとまた頭上から唸るような音がした。近くなった分、音の正体がぼんやりと見て取れた。

「ドローンだ……」

「ねッ?」

 やっぱり意味が分からないが、元の時代に関わるものに近づくことには期待が持てた。試しに身を任せようと思った時、下から大きな声がした。

「おーい! お前らァどうしたってんだ⁉」

 左吉が手を伸ばしながら叫んでいる。咲と辰見も同じくこちらを見上げていた。

「急すぎるよね、ちょっと。だからちゃんとお別れしていこ」

 和歌は逞にそう言うと亀を手に乗せて叫んだ。

「私たちきっと、鬼を封印するためにここに来たの! だからここでさよーならー! とってもお世話になりましたァー!」

 ほら、と促されて逞は下を見た。困ったような顔の三人がいて、周りの人は「神の使いだ」「祈りの化身だ」と手を合わせ始めていた。何を言うべきか考えている間にもどんどん地上と距離が離れていく。

「あ……」

 咲の口が動いたのに声が聞こえない。逞は飛び出すように言葉を発した。

「ありがとう! 俺たちは俺たちの場所を帰って守りますッ!」

 雲が視界を遮っていく。隙間を縫って最後まで手を振り続けた。だんだんと周りが暗く変わっていく中、和歌が逞の手を取った。

「帰ったらラストスパートだよ。きっとね。良い結末にして最高の自由研究にしよ」

 頷くと同時に意識が薄れ始めた。


 ブゥンブゥンと聞き覚えのある音で目が覚める。髪が風で暴れるのを感じながら辺りを見渡すと、木の枝と揺れる葉っぱだらけだ。体の動きで不安定に揺れる足元を確認すると、逞も和歌も太めの枝に何とか座っているだけだった。背筋を震わせながら足元を不安にさせるもう一つの原因である風の出所、頭上を見た。

「またドローン……」

「逞くん聞こえる⁉」

「えっ?」

 声がした。聞き覚えのあるその声はドローンから発されたようだ。逞が片手を振って見せると「オッケー届いた!」と返事が来た。

「今から縄を降ろすから、下に降りるまでだけでいいの。和歌ちゃんも一緒に捕まっていられる?」

 逞は和歌に「起きて!」と声をかけたが寝たままだ。少し考えて周辺を探したが白虎が見当たらない。代わりにいつの間にか元に戻っていた服の中に、虎の絵が戻った本が入っていた。

「白、こっちでも一つよろしく頼むよ」

 最後のページで手と手を合わせて逞は白虎に姿を変えた。「行きます!」と合図してから和歌を抱えて輪っかになった綱の先端に掴まった。

「動くよ!」

 早輝の号令でドローンが上昇する。枝に掠りながら木の中を抜けた。

「開けたとこで降ろすからもう少し!」

 ゆっくりと慎重に森から離れていく。逞たちが乗っていた木の根元にはまだ泥が渦巻いていた。整備された道の上に出たので逞がすとんと降りる。

「ナイス! 和歌ちゃんは大丈夫?」

 抱きかかえていた和歌を地面に寝かせて軽く肩を叩いてみると、パチリと目を開けた。和歌の手には亀の本が握られている。

「ちゃんと戻れた?」

 景色を確認するなり尋ねた和歌に逞は頷く。和歌は「よしっ」と気合を入れる様に立ち上がって亀の本を開いた。中には鋭い爪の亀が歩いていくさまが描かれている。

「ここから先に伝説は無い。私たちで見つけよう!」

 意気込む和歌と共にドローンを介して早輝と情報交換をし始めた。

「ひとまず、二人とも無事でよかった。昨日からみんなで必死に探したの。その間に泥が湧き出るわ奇怪現象は起こるわ……」

 逞たちが過去にいる間おおよそ一日が経っており、早輝にも積もる話はあるようだ。だが、かいつまんで鬼の封印に関する話だけを伝えて早輝からも急ぎの状況だけを聞いた。

「木の根元から泥があふれ出してね、でもこれは薬剤の散布で拡大は抑えられている。目下の問題はあちこちで起こるボヤ騒ぎや動物の異常行動。原因は資料室に忍び込んでくれちゃった小鬼!」

 早輝によると鎧兜の鬼が山じゅうを回って先々で妙な現象を起こしているらしい。

「じゃあまずは橙対をとっ捕まえたほうが」

「うんそうだね!」

逞の提案に和歌が同意した。

「それに私、一個案があるの。逞ちゃん、本の中にまだ傘の子っている?」

 尋ねられて本をめくると虎と一緒に傘の妖怪も絵に戻っていた。「いるよ」と伝えると和歌の案が披露された。

「鬼と戦うために蛇ちゃんの力も借りたい。けど、今は封印の木になっている上、封印が解けているのに元の姿に戻らない……理由を考えてみて、長く封印する間に力を失っているのかなって思ったの」

 ビシッと指を立て「そこでよ!」と続く。

「逞ちゃんは傘の子に力を貸してもらってたでしょ? 同じことが蛇ちゃんにも出来るかもって。だから山中の妖怪の力を借りに行きたい。それで虎、亀、蛇に私と貴方」

 和歌が指を一本ずつ立てて数を数える。最後の親指が起きた時、逞に視線が向けられた。

「これで五にん、石碑と一緒。勝って伝説作ろ」

 二人が握手を交わす。その様子をドローンがずっと映していた。

「ごめんなさい……でも、二人に任せてもいい? 本の力、ちゃんと分かってるみたいだから」

 早輝の声に二人で頷いた。

「うん……その代わり、泥をせき止めるのは任せて。鬼の痕跡から分析して現在も強化改良中!」

 追加の薬を撒くと言ってドローンが飛び去って行く。少しして二人の携帯に赤い印が付いた地図が送られてきた。異変確認箇所、と記されている。

「手分けして回ろう。最後は木の下で合流!」

 逞は虎になって最も遠いマークの元へ、和歌は徒歩で一番近くの場所へ向かった。暴れるリスの群れをなだめ、火事場で踊る鶏ごと水浸しにしながら本に入ってくれる妖怪を募る。

順番に騒ぎを治めて回っていると地図に印が一つ追加された。位置的に逞が大木へ戻る最中に寄るべきところだ。新しい印ならば近くに橙対がいる可能性も高い、逞はさらに力を込めて走った。

「ギョッ!」

 向かった先はアタリで、逞の足音に振り向いた橙対と目が合った。だが、それよりも一帯の異常に目を奪われた。木と木をつなぐように幾つも網が張り巡らされていて、蜘蛛の巣のように獲物が動物・妖怪問わずに捕らえられ括り付けられていた。

「なんだよタイミングわりぃな~」

 軽口をたたく橙対も背中に縄で縛られた生き物たちを担いでいた。もがく彼らをお構いなしに引きずりながら奥へ走って行く。

「待ッ」

 追いかけたいが目の前には捕まったモノたちがいる。逃げていく背中を目で追いかけながら網を裂いていると、後ろから地面を揺らす音が迫ってきた。

「何だっ⁉ うわぁあ!」

 振り向く逞を飛び越えてリスの大群が網に飛び掛かっていった。歯をむき出して噛みちぎり、張られていた網を真っ二つに割った。群れの中でもひときわ大きなリスが逞に向かって首を振る。行け、と彼らが開けてくれた穴をくぐって橙対を追った。


 和歌が一番に目指した印は大木のそば、石碑のある場所。木を避けながら歩いていくと先客の影があった。のぞき込むと、三本角の馬が石碑を睨みながらまさに脚を振り上げているところだった。

「ッ!」

 腰に差していた本を走りながら広げる。最後のページで亀と手を重ねながら、和歌は馬と石碑の間に滑り込んだ。

 カキィン!

「何してんのッ……!」

 亀の甲羅が馬の脚を受け止めた。体にビリビリとした衝撃が走りながらも、和歌は馬を見上げた。

「お前こそ、そんな石で何を必死になる?」

 グッと背中の圧が増えたが、負けじと地面に爪を立てて踏ん張る。和歌の抵抗を受けて蒼双は「まあいい」と甲羅を蹴り、山の上へ駆けていった。

「何が目的なんだろう」

 考えを巡らせながら放っておくのは危険だと判断し、移動するために亀から人へ戻って追いかける。足の速い蒼双だが、早輝の情報が即座に更新されるお陰で見失うことなく山頂まで登り切った。

「しつこいな」蒼双が振り向く。

「だって山を荒らされたら困るもん。何がしたいの?」

 和歌が尋ねると、蒼双はちらりと背後の崖に目をやった。小さなひざ丈の鳥居に同じサイズの祠がこぢんまりと作られている。和歌はそれに見覚えがあった。

「俺も意味を掴みかねていたところだ。こんなものよりお前を相手にした方がよほど意義深い」

 祠への関心を失ったのか蒼双の意識が一気に和歌へ向いた。来る、という予感に従って和歌は亀の姿に変わる。飛び掛かってきた角の一振りを背で受け止めるが、亀の間合いは狭く武器の爪が届かない。このまま相手は出来ないと判断して、足の力で角を押し返した後にわざと急斜面を目指して走り出した。甲羅の中に体と頭を引っ込めて、整備されていない坂を転がり落ちる。戦力をそろえるため、記憶の中の地図を頼りに大木を目指した。


 走って走って、大木へ。逞が泥の前まで橙対を追い詰めると、転がってきた岩に手足が生えて亀になり、それを追うように蒼双も現れた。

「あ! これさぁ」

 橙対が後ろにいる蒼双に振り向く。担がれていた生き物たちは必然的に逞の方へ向けられた。

「バカか!」

 逞の動きが見えている蒼双が声をあげた。ザシュッと虎の爪が縄を切り、解放されたものたちが散り散りに走って行く。泥がうごめいたが沼から溢れることは無かった。

「やっちったァ」

 ちぇっと甘い舌打ちをする橙対に対して、蒼双は渦巻く泥を見下ろしながら歯ぎしりをしていた。だんだんと泥の渦巻が激しくなっている気がして、逞は和歌に身を寄せた。

「逞ちゃん。あの木みえる? あれ元は白蛇なの、ほら祠に祀られてた」

 和歌の言葉に頷いて答える。

「だからあそこに皆の力を注ぎたいんだけど……さすがに厳しそう?」

 目指す大木は泥が湧きだす中心にそびえている。ただでさえ引きずり込むような流れがある上、今は動きが激しくなっていた。飛び越す・泳ぐ、思いついた手段がことごとく頭の中で却下されていった。

「あと、万が一逃げるってなったら。私、足遅いから乗せてってくれる?」

「それはもちろん」

 話している間に降りてきた蒼双が橙対と並んだ。警戒の視線を送る逞と和歌の正面で、蒼双は橙対の首元をくわえ自身の背中に乗せた。

「兄上がご立腹だ。ここで奴らを打ち負かさないと俺たちの次の目覚めは闇の中だ」

「後がないってことね、任せてよ」

 橙対が笑い、馬の体に足が溶けてくっつく。腹に当てた握りこぶしをゆっくりと引き離すと、まるで刺さっていたかのように短刀が手の中に握られていた。

「勝ってから考えよっか」

和歌が呟いて会話が切れた。馬の甲高いいななきによって全員の視線が交わる。どちらからともなく一歩距離が詰まると、一気に刃がぶつかり合った。バラバラに動く逞と和歌に対して馬が前後異なる意思を持つかのように対応し、そこへ背中から小鬼の追撃が降ってくる。荒い呼吸をしながら二人の攻撃を受け続ける馬へ視界に余裕のある小鬼から指示が飛ぶコンビネーション。

「後ろ右!」

「ハァハァ……グッ!」

 それでも傷は増えていく一方だった。亀のびくりともしない硬さ重み、虎の滑らかな体さばき。頭を隅々まで回して体も応えているのに目の前の獲物についていけない、焦りがさらに差を広げた。じわりと地面がぬかるんでいく。

「ッ逞ちゃん!」

 足が沈む感覚に和歌が声をあげた。逞はすぐに駆け寄り亀を抱えて大きく後ろに飛び退いた。二人の動きに馬も向きを変えて脚をあげる。しかし、湧き出てきた泥が歩みをかすめ取った。

「クッ……」

 バランスを崩して倒れこむ鬼たち。待っていたかのように泥が集まり始めて二匹を飲み込んでいく。

「なんだよ。俺らが非常食ってことなんだ」

 橙対が呟いた。必死に踏ん張り起き上がろうとする馬に「蒼双もういいよ」と伝えて首を撫でた。大人しく座り込んだ蒼双の足元から泥に溶けていく。その背中から橙対は逞を見た。

「次、千年後な」

 宣戦布告を残して姿は泥の中に消えた。逞が声にならない息を呑んですぐ、泥がボコボコと沸き立ちはじめた。今まで微動だにしなかった大木が少しずつ持ち上げられていく。ドローンが飛んできて液体を撒くが縁の動きが弱まるだけで、むしろ中心は激しさを増していった。

「もっと離れて! 様子はカメラで見て伝えるから!」

 早輝の声に従って二人はさらに後ろへ下がった。泥がどんどん噴き上げていき、大木の根があらわになると栓が外れたように勢いを増す。大木は地面を離れ、宙に放り出されてしまった。ふわふわと飛びながら葉は落ち枝がもげて幹から皮がめくれていく。やがて中から紐のようなものが現れて落ちていった。

「追っかけよ! 早輝さんココは任せたっ」

 亀から人間の姿に戻った和歌が虎の背にまたがる。少しでも軽く速く、という意思を受け取って逞は走り出した。後ろでは抑えを失った泥が一つの塊になり始めていた。

 落ちた方角だけを頼りに向かっていく。後ろでは和歌が「まだ先、大丈夫」と案内をしてくれていた。言われた通りに走っていってたどり着いたのは山の頂上だった。小さな祠の前に汚れた蛇がポトンと落ちていた。

「いた……」

 和歌が背中から降りて逞も人間の姿に戻る。タッと駆け寄った和歌がハンカチで拭ってあげると、それが小柄な白蛇だということが逞にも分かった。

「集められるだけ集めたけど、どうすれば?」

 本の各ページに描かれた生き物たちを眺めながら逞が尋ねた。和歌は「そうだねぇ」と言って祠に目をやる。

「試すならお祈りかな。伝説に沿ってるし、今までいろんな人が大切に拝んできたんだもん。大ピンチで頼みの一つや二つ、叶えてくれるでしょ」

 祠の前に二冊の本を置いて手を合わせた。すると倒れこんでいた蛇が弱弱しくも体をくねらせ本の前へやってきた。礼をするかのように二冊の本へコツンと頭をあわせる。

「おぉ、おお……」

「よしっ」

 蛇はみるみる大きくなり逞たちと変わらない体格になった。逞が声を漏らす横で和歌はガッツポーズをとっている。汚れた皮を割って脱ぎ捨てた、光を反射する白い蛇が立っていた。

「状況は分かる?」

 和歌の問いかけに蛇は頷いた。祠に置かれた本をくわえて二人に差し出し、和歌が「亀」逞が「虎」を受け取る。ボンッと煙があふれ出し、本は二人の手の中で亀と虎に姿を変えた。

「亀ちゃん~!」

「白だ……」

 和歌は頬を寄せて、逞はキュッと抱きしめて存在を確かめる。周りには同じく本から出てきた妖怪や動物が集まってきていた。皆一点を見つめている。黒い湯気が立つ泥の源。

 黙って視線をかわす。緩やかな表情で和歌から腕が差し出され、交差させるように逞も腕をコンと合わせた。腕の中では虎も鼻息荒く気合を入れていた。

「っし」

 小さく息を吐きだして、逞は虎と手を重ね走り出した。先頭を行く逞を追うように生き物たちも続いていく。和歌は蛇の背に乗り最後尾についた。

 木々を抜け、ドローンの音も頼りに湯気のあがる場所まで駆け抜ける。泥塊は盛り上がって周囲の木と変わらぬ高さになっていた。馬の下半身に鬼の上半身、全身を筋肉が覆うケンタウロスのような姿をとっている。頭上には太い角が一本、空に向かって生えていた。

「グルルッ」

 まずは足に飛びついた。爪でひと掻き食らわせると、存在に気が付いた大鬼が脚を振った。払われそうな遠心力のなかで、出来た傷に何度も爪を立てていく。

「アァ!」

 足が切れ、鬼から声が漏れた。しかし、ポトンと切り離されたにもかかわらずまだ地面を踏みつけている。そこに逞の後ろからやってきた生き物たちが飛びついていった。噛みつき、踏みつけ、ひっかいて。彼らが攻撃を続けると足はボロボロと崩れて土に還っていった。

 脚を登り膝へ。ここも折ると鬼はバランスを崩して前のめりに倒れこんだ。すかさず体を支えようと立てられた腕に移動する。手、肘、肩と切り落とした。

「ガァッ!」

 大鬼がダンと拳を打ち付けた。その衝撃で逞は鬼から離れてしまう。手足二本を失った大鬼は残った腕で自身の脚を一つちぎり、なくした片腕の箇所に埋め込んだ。蹄のついた手で地面をはじき、二足で立ち上がる。

 もう一度、と逞は足を目指して走りだした。だが、大鬼の鋭い視線に動きを捉えられ次々と躱された。こちらを見下ろす鬼を睨み返すと、ひときわ大きなドローンの影が鬼の頭におちた。

「覚悟っ!」

 和歌が亀、蛇と共に飛び降りてくる。鬼が声に反応して振り向いた時、三にんは手を重ねた。

「ナ……!」

 声にならない声。大鬼は亀の尾から生えた蛇に舌を抜かれた。亀はそのまま角を掴み、グッと引き寄せる。抵抗して首に力を籠めるほど亀の爪が食い込んだ。バキ、と音がして角は折れ、落ちてきた亀は虎が背中で受け止めた。

 悔しさか痛みか、大鬼は震えて悶えた。それでもひざを折らず雄たけびを上げている。しびれるような振動に生き物たちの目が揺らぎ始めた。そんな空気を割るように、ドローンの大群が飛んできた。

「改良新薬、ばらまくよ!」

 早輝の声を合図にドローンから霧が噴出した。触れた部分から鬼の体がどろっと溶けだした。地面に降りていった薬が切り離した腕に被るとポロポロと分解されて行く。

「二人とも聞こえる⁉ この薬はあと一発、まんべんなくかかるように細切れにして!」

 指示が飛んですぐにカウントが始まった。十、九と減っていく。

「どっ」

 逞は焦って和歌を見た。背から降りた和歌はドシンと大鬼に向かい立った。

「相手はボロボロ、こっちには数がいる。みんなで風穴開けちゃえばいいよ」

 和歌が周囲を見回すと、すでに生き物たちが霧に紛れて脚をよじ登り始めていた。

「逞ちゃん一番上ね」

 六、五、四。減っていくカウントを聞きながら逞は鬼の体を駆け抜けた。上半身では鬼の腕が暴れて霧が払われているが、逞をはじめ猿や脚の無いお化けなどが素早い動きでかいくぐっていく。

 三、二、一。ドローンが鬼に迫った。

「ウオォォォォ」

 鬼の叫び声と共に零。無数の生き物が大鬼の体を貫いた。霧がかかり、崩れ落ち、解けていく。ゆっくりと風に流され霧が晴れていくと、辺りは静けさに包まれていた。

 大きな影は消えて木の葉の隙間から光が差した。一匹、二匹と生き物たちが徐々に森へ帰っていく。逞と和歌の周りは虎・亀・蛇に何匹かの妖怪たちがとどまっていた。

「みんなはこれからどうするの?」

 和歌がしゃがみこんで尋ねると、始めに亀と蛇が一歩前に出た。小さく頷き、和歌の手元へ。二冊の本が彼女に預けられた。

 逞の元へは最初に傘の妖怪が飛び込んできて本になった。そこから順番に待っていた妖怪たちが入って行く。虎は背を向けたかと思うと列の最後尾に着いた。

 声をかけながら列をどんどん進めて、虎が逞の目の前に座った。すとんと腰を下ろして、本を見せてみるが動かない。

「……野生にかえる?」

 逞の疑問には首を横に振った。くっと口角をあげて頭を逞に押し付ける。

「ありがとね」

 ふんわりと頭をなでてみると目を細めた。しばらく繰り返すと、満足したのか自分から体を引いて本に手を乗せた。

「ギャっ」

 最後に一言鳴いて、虎は本の中に入って行った。風が街へ吹いていく。

「家の人には私から報告しておいたから、ゆっくり戻っておいで。きっと疲れたでしょ」

 早輝の声を残してドローンも去った。それぞれ本を抱えて整えられた道に戻り、手すりに沿って歩いた。

「心配かけちゃったかな」

 街並みが覗いて逞は呟いた。

「説明すれば大丈夫だよ」和歌は歩きながら手にした本をめくっている。「それより、あと何日いるの?」

「多分……一週間くらい?」

 あいまいに答えると「はは、感覚おかしくなってるよね」と笑われた。

「じゃ自由研究、作れそうだね。素材は十分だし」

「あぁそっか」

「忘れてた? でも、私と作ったほうが楽に終わるよ。早輝さんにも頼んでちゃんと現実的なの作ろうね」

 うん、と逞は頷いた。テーマは? タイムスリップは書けないよねえ? 絵も入れよう、と話し合いながら山を下っていく。

 二人そろって和歌の家、逞の家、郷土資料館を回った。あったことを一から話して和歌は「無事の上楽しそうで何より」、逞は「報連相が身に染みました」との言葉を家族から受けた。早輝には自由研究の協力を取り付けて一日が終わった。

 数日の話し合いを経てテーマ・構成を決め、紙面に配置していく。題名「其ノ山・妖怪伝説の歴史」を一番上に太い油性ペンで書きこんだ。その下の枠へ「伝説の内容」「伝説の始まり」「其ノ山に散らばるゆかりの地」「館長の小話」と小見出しを追加した。その間にも、和歌が題名の両脇に大きな虎と亀の絵をかきこんでいる。

「真ん中に蛇ちゃん描くから隙間空けてね」

「うん知ってる」

 資料館の片隅、早輝が置いてくれたテーブルいっぱいに紙を広げて黙々と手を動かし続けた。エアコンのきいた館内で展示された巻き物や虎たちの本に囲まれ、時々早輝の意見を聞きながら進む。

書いて描いて帰宅前日、和歌と逞、色違いで二人分の用紙が仕上がった。相手の用紙へ「協力・」に続けて自分の名前を書き足す。バッと広げて全体を見た時、大きな息と笑みがこぼれた。


 行きと同じリュックに筒状の用紙を差して逞は駅にいた。祖父母に早輝、和歌が見送りに来てくれている。

「お父さんとお母さんによろしくの!」

「またいらっしゃい」

 じいちゃんとばあちゃんがトウモロコシの覗く手提げを渡してくれた。

「はいこれ名刺。いつでも遊びに来てね、連絡もウエルカム!」

 早輝は「其ノ山郷土資料館 館長 花咲早輝」と書かれた紙をくれた。

「次いつ来る?」

「分かんない」

 和歌の質問に首を振った。

「じゃ、なるべく早く来てよ。私も白ちゃんたちも待ってるし。私が遊びに行くのもいいかもね」

「どっちもいいと思う」

「いいね」と和歌は笑った。

 そろそろ改札を通らないと、と時計を見て思う。最後に逞は和歌へ手を差し出した。

「白のことよろしく、また遊ぼう」

「またね!」

 ぎゅっと手が握られる。固い握手を交わしてから逞は改札を抜けた。電車の音が迫ってきている。

「電車が到着いたします。ご乗車の際は足元にお気をつけください」

 プシューと停車した電車の扉が開く。窓際の席に座って荷物を降ろし、外を見た。見覚えのある山が太陽で眩しく光っていた。


最後まで読んでいただいてありがとうございました。メッセージ等、マシュマロ(1)にお待ちしてます。

(1メッセージ受付サービスのこと。活動報告にサイトへのリンクがあります)

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