事件簿8.お掃除事件3
古びた皮の表紙は、長い年月を感じさせる。
表紙にはタイトルも名前も書かれていない。
「こんなところに、隠してあったのか……」
ユウロピーは興奮を抑えながら日記のページをそっとめくった。紙は黄ばんでいて、まるで崩れそうなほどに脆くなっている。
「ふむふむ、これは……?」
彼女は懐中電灯の光を頼りに文字を読み始めた。
書かれているのは丁寧な手書きの文字でどうやらこの屋敷に住んでいた女性が書いたもののようだった。
最初は何気ない日常の出来事が綴られているが次第にその内容は不穏なものになっていった。
屋敷の主である男性が家族や使用人に対して暴力的に接していたことが詳しく書かれていた。
言葉での暴力だけでなく、身体的な暴行も頻繁に行われていたという。家族は怯え、使用人たちは次々に屋敷を去っていった。筆者の女性は、それを冷静に、しかし苦しげに綴っていた。
「こんな……ひどい……」
ユウロピーは眉をひそめ、ページを進めるたびにその内容の重さに圧倒されていった。やがて、屋敷内で起こった言葉では表現できないような事件が日記の筆者によって語られる。
具体的な記述は避けられているが、その行間には恐怖と絶望がにじみ出ていた。
だが、突然、日記は途中で途切れてしまう。
「ここで……終わってる?」
ユウロピーは驚きと失望が入り混じった表情でページをめくり続けた。しかし、それ以上の記録はない。最後のページは白紙で何も書かれていなかった。
「いったい、この屋敷で何があったんだろう……?」
ユウロピーは考え込む。日記の内容が未解決事件と関係していることは間違いない。だが、全てがはっきりと明らかにされているわけではない。まだ何かが隠されているのだろうか。
ユウロピーは日記をもう一度読み返し、手元のおじさんのメモ帳を照らし合わせながら考え込んだ。
メモには未解決事件の概要が記されており、この屋敷で起きた事件で亡くなったのは日記に記されていた「乱暴な館の主」だったことがわかる。
「亡くなったのは、この日記に出てくる館の主……でも、誰がやったんだろう?」
ユウロピーは日記の内容とおじさんのメモを並べながら、事件の状況を整理し始めた。
彼女は床に座り込み、日記やメモ帳、その他の資料を床に散らばせながら、一つ一つ確認していく。
「動機を考えるなら、この日記を書いてる人……つまり、館の主の妻か使用人かもしれないけど……」
彼女はそう呟きながら、日記の筆跡をじっと見つめた。
女性らしい筆跡だが、その裏に隠された苦悩がありありと感じられる。もしかしたら、この女性こそが真犯人なのかもしれない――だが、それだけではまだ弱い。
ユウロピーはメモ帳に書かれた他の証言や人物情報も加えて事件の状況を再現しようと試みた。
メモ帳には館の主に関わっていた使用人たちの証言が残されていたが、どれも曖昧で決定的なものはない。
「んー、誰かに恨まれてたのは間違いなさそうだけど、どうしてこんなに当たり散らかしてたんだろう?」
ユウロピーは首をかしげる。
この男性が常習的に乱暴だったのは日記の記述にあるが、その理由は書かれていない。彼女は、その背景に何か隠された動機があるのではないかと考え始める。
「もしかして、館の主は何か大きな秘密を抱えていたんじゃない?」
ユウロピーはメモ帳をめくりながら仮説を立てた。
乱暴に当たり散らしていたのは何かしらのプレッシャーや恐怖が原因だったのかもしれない。もしくは、屋敷に住む誰か――日記の筆者か、使用人たちの誰かに対する深い不満や恨みがあったのだろうか。
「……そうだ、家族に何かあったのかもしれない。もしくは、財産や屋敷に関わる争い? それなら動機も説明できるかも!」
ユウロピーの目が輝いた。彼女はさらに日記を調べようと、懐中電灯の光を頼りにもう一度ページをめくる。しかし、日記は途中で途切れており、それ以上の手がかりはない。
ユウロピーは懐中電灯を消し、ふっと息を吐いた。
「数十年前の事件だし、証拠がないのは当然かぁ……」
彼女は床に座り込み、日記を軽く撫でた。
この日記が見つかったこと自体が奇跡に近い。ほこりをかぶり、長い年月を経て忘れ去られていたこの日記が、たまたま彼女の手元に届いたのだから。
「本当に、これだけでも運が良かったよね」
ユウロピーは自分に言い聞かせるように呟いた。
手がかりが少ない中でも彼女はおじさんの手帳と照らし合わせて少しずつ事件の輪郭を掴もうとしていた。
でも、まだ終わりじゃない。
ユウロピーの心には強い探究心と直感が働いていた。何か――もっと大きな真実が、この館のどこかに眠っているような気がしてならない。
「よし、諦めるのはまだ早い!」
次の手がかりを探すために立ち上がった。
日記が見つかったこの部屋だけでなく、他の部屋にもまだ何か残されているかもしれない。
特に、日記には途中で途切れている箇所があり、その後の出来事が気になる。
ユウロピーは手元の資料を整理し終えると、懐中電灯を片手に部屋を出た。
廊下の先へと歩みを進め、他の部屋にも何か手がかりがないか調べようとしていた。
日記が途切れていた部分、その後に何が起こったのか――その答えを求めて、彼女の足は自然と次の部屋へ向かっていた。
しかし、その瞬間だった。
遠くから微かな物音が聞こえてきた。
すぐにユウロピーは足を止めて耳を澄ませた。
今度ははっきりとした話し声が混じっていた。咄嗟にユウロピーは懐中電灯のスイッチを消す。
辺りは再び静寂に包まれたが、彼女の心臓は耳の中で鳴り響いているかのように鼓動を速めていた。
「まずい……誰かいる……」
彼女はすぐに近くの物陰に身を隠した。息を潜めながら、その場にしゃがみ込む。話し声がだんだんと近づいてくるのがわかった。胸の鼓動が激しくなる。
「おい、今の音、あっちの部屋からだな」
「誰か入ってきたのか?確認しないと」
どうやら3人の警備員が屋敷内を巡回しているようだ。ユウロピーの出した物音が彼らの耳に届いていたらしい。彼女は心の中で冷や汗をかきながら、懐中電灯をしっかりと握りしめた。
ここで見つかるわけにはいかない。
「……落ち着いて、ユウロピー。なんとかやり過ごさないと……」
彼女は自分に言い聞かせながら、静かに深呼吸をした。
ユウロピーはじっと物陰で身を縮め、息を潜めて警備員たちのやり取りに耳を傾けていた。
「おいおい、ここで幽霊が出るなんて話、聞いたことないか?」
一人の警備員が冗談交じりに言い、軽く笑っている。
「バカ言うなよ、そんなの信じるわけないだろ」
もう一人は呆れたようにため息をつくがどこか落ち着かない様子だ。
「でもさ、ちょっと怖いよな……もし本当に誰かいたら……」
三人目の警備員が少し怯えた声で周囲を見回す。彼の足取りはどこか落ち着かない。
「ほら、何もないだろ。さっさと確認して戻るぞ」
ユウロピーは心臓の音が耳の中に響くのを感じながら警備員たちが話している間、身動き一つせず待ち続けた。手に汗を握りながら彼女はただひたすら見つからないことを祈っていた。
冗談を言い合いながら3人はしばらく屋敷内を歩き回っていたがやがて何も見つけられなかったのか、足音が少しずつ遠ざかっていく。
「ふう……」
ユウロピーは心の中で安堵のため息をつく。どうやら警備員には見つからずに済んだらしい。しかし、次に訪れたのは緊張が解けたことによる警戒心だった。このままここに長居するのは危険だ。
「いつもならおじさんが止めてくれるけど……」
彼女は一瞬、おじさんのことを思い浮かべた。しかし、ここには彼がいない。自分で判断しなければならない。
ユウロピーは懐中電灯をつけず、慎重にその場を離れることに決めた。そっとドアを開け、音を立てないように外へ出る。冷たい夜風が肌に触れると、彼女はさらに身を低くして急いで草陰へと身を潜めた。
「ここなら……大丈夫かな……」
深夜の冷たい風が頬を撫でる。
ユウロピーは敷地を抜けると息を切らして立ち止まり、ひとつ大きく吐息をついた。暗闇の中、静寂が広がっていたが、その息遣いだけがやけに耳に響いていた。
「はあ……しょうがないか……」
名残惜しそうに屋敷の方を振り返る。
もう少しで真相に近づけたかもしれないのに途中で引き返してしまった自分に小さな後悔を感じる。けれど、あのままでは見つかる危険も大きかった。
ここで無理をして捕まるわけにはいかない。
ユウロピーは敷地を後にし、道に出る。
夜道はひっそりとしていたが街灯が点々と道を照らしていた。彼女は懐中電灯を付けずに歩き出す。街灯の光が彼女を照らしたかと思うと、その光が消え、また次の街灯の下でふたたび照らされる。その繰り返しが、どこか寂しげに感じられた。
「せっかくいいところまで行ったのに……」
ユウロピーは拗ねたように口を尖らせ、ぼそりと呟いた。
屋敷の中にあった日記、あれがあればもっと手がかりが得られるはずだったのに。途中で帰ってしまった自分に対する後悔がじわじわと胸を締め付ける。
公園の前を通り過ぎると、突然、聞き覚えのある声が背後からかけられた。
「で、事件は解決したのか?」
その声には、どこか気怠げで軽い茶化しの調子が混ざっている。ユウロピーは驚いて振り返った。そこには、缶コーヒーを片手にベンチでくつろいでいるおじさんの姿があった。
「え!?おじさん!?まだ寝てなかったの!?」
彼女は驚きの声を上げ、急いでおじさんのもとに駆け寄った。
おじさんはニヤリと笑いながらコーヒーを一口飲み、ゆっくりと肩をすくめた。
「まあ、寝るにはまだ早いかなって思ってな」
ユウロピーはその姿を見て、少しの安堵と同時に、なぜここにいるのかという疑問が浮かんだ。
「でも、なんでここに……?」
おじさんは肩をすくめたまま空を見上げながら答える。
「お前が勝手に無茶をしでかすって思ったんだよ。だから、ここで待ってたわけさ」
ユウロピーはその言葉に一瞬戸惑ったが、次の瞬間、少し恥ずかしそうに目を逸らしながらも、おじさんの読みの鋭さに感心した。
「……バレバレじゃん」
「お前がそんな簡単に手を引くやつじゃないって、よく知ってるからな」
おじさんはまたニヤリと笑う。
ユウロピーは少し悔しそうにしながらもおじさんがいてくれる安心感に、どこかホッとしている自分に気づいた。
そして、もう一度だけ屋敷の方を振り返り、小さくつぶやいた。
「次こそは、絶対解決してみせるんだから」
おじさんはその言葉を聞きながら、静かに缶コーヒーをもう一口飲み、ただ黙って夜空を見つめていた。
ユウロピーはおじさんの隣に腰を下ろすと少し気まずそうに黙り込んだ。
おじさんはしばらく缶コーヒーを口に運び、夜の冷えた空気の中でゆったりとした時間が流れた。ふと、おじさんが静かに口を開いた。
「なあ、ユウロピー。あの屋敷での事件の話、まだ興味があるか?」
ユウロピーは顔を上げ、おじさんの方を見た。「うん、もちろんあるよ!」
おじさんはしばらく黙ったまま缶コーヒーを見つめていたが、やがて話し始めた。
「実はな、犯人はもうわかってたんだ。証拠も揃ってたし、調べ上げた結果もあった」
「えっ、じゃあ、なんで?」
おじさんは少しだけため息をつき、顔をユウロピーの方に向けた。
「あの屋敷には、主だけじゃなく、いろんな人間が関わってたんだよ。主の家族や給仕、庭師なんかも。みんな、いろんな事情を抱えてた。あの主がどんな人物だったか、想像つくだろ?」
ユウロピーは眉を寄せて思い出す。
日記に書かれていた、館の主の乱暴な性格や、常に家族や使用人たちに暴力を振るっていた事実が頭に浮かんだ。
「うん、そんなことが書かれてた。ひどい人だったみたいだね」
おじさんは頷きながら続けた。
「そうさ。家族も使用人もみんな、その主に従って、耐えて、苦しんでたんだ。誰もが何かを抱えていて、それぞれが複雑な感情を持っていた」
ユウロピーは真剣な表情で聞き入る。
おじさんは缶コーヒーの最後の一口を飲み干しながら続けた。
「実を言うとな、犯人はその中の誰かだ。証拠も、状況も全部揃ってる。でも、その人がなぜそんなことをしたのか、その背景や理由を考えると、俺は……どうにも言葉が出なくなってしまった」
ユウロピーは息を飲み込むようにしておじさんの言葉を待った。
「彼らは全員、館の主にひどい仕打ちを受けていたんだ。毎日毎日、理不尽な暴力や精神的な虐待を受けていた。それが続いて、誰かが耐えきれなくなった。犯人はその苦しみの中で、最終的に行動を起こしたんだ」
「それって……もしかして、日記を書いてた人?」
ユウロピーは尋ねた。
おじさんは肩をすくめ、曖昧に笑った。
「どうだったかな……まあ、いろんな事情があってな。結局、犯人を突き止めたところで、その事実が誰かを救うわけでもなかった。だから、俺はそのままこの事件を忘れることにしたんだ。誰にも言わずに、な」
ユウロピーは目を見開いて驚いた。
「そんな……本当に忘れちゃったの?」
おじさんはコーヒーの空き缶をぽんとベンチに置き、立ち上がる。
「忘れたような、忘れないような……まあ、都合のいいところだけ、忘れたってことにしておこうか」
ユウロピーはまだ納得がいかないような表情を浮かべていたが、おじさんの背中を見つめると彼の胸に秘めた何かを感じ取ることができた。それ以上、問い詰めることはできなかった。
「さあ、帰ろう。まだ家には未解決の事件が残ってるぞ」
ユウロピーは、おじさんの言葉を聞いて思わず口をあんぐりと開いた。「えっ、そ、それって本当に未解決事件なの?」と驚きと共に興奮が混ざる。
おじさんは、茶目っ気たっぷりにニヤリと笑った。
「そうだよ。お前があれだけ物を散らかしたからな。まだ終わってないってことだ」
「それは事件じゃないよ!」
ユウロピーは少し恥ずかしそうに頬を赤く染めた。「だって、ただのお掃除じゃん!」
「まあ、掃除も立派な事件だ。特にお前がやったとなると、どれだけの証拠品が隠れているか……なにせ、名探偵が集めた物だしな」
ユウロピーは、思い出して頭を抱えた。
「うう、そうだよ、あの部屋は今、めちゃくちゃになってるはず……」
おじさんは、ゆったりとした足取りで歩き始める。「さあ、急げ。未解決の事件が待ってるぞ、ユウロピー名探偵。まずはその大掃除から始めるとしよう」
「いや、そっちじゃなくて、本物の事件を解決したいよ!」
おじさんは振り返り、笑いを堪えながら言った。
「事件の解決は、掃除から始まるんだ。まずは身の回りを片付けないと、次の事件には取り組めないだろ?」
ユウロピーはあきらめたようにため息をつきつつ心の中で思った。まあ、次はもっと本格的なものにしよう。掃除は……その後にすることにしよう。
二人は互いに笑いながら夜の街を歩き出した。