学期末、友人
それから1週間と数日。遠藤千沙との2度目の会話以降、彼女には会っていない。本当なら次の水曜に再び自習室へ向かう予定だったが、部活で時間が取れなかったのだ。
そう、普段休みであるはずの水曜が部活になる理由。大会前か、定期考査前で、今回は、後者だった。考査期間で1週間ほど部活禁止になる前に、その1週間前は水曜日にも部活を行う。そんなわけで、あれから1週間と数日、遠藤千沙には会っていなかった。
「そういや今週は自習室、行かねぇの?」
昼休み、斜め向かいに座る神谷が言う。彼は相当成績が優秀だが、それはまさに彼の努力の賜物で、最近は夜遅くまで自宅で勉強しているらしい。「遅くに悪い、この問題わかるか?」というメッセージと共に、夜中の2時に数学の問題を送り付けられたときには、流石に勘弁してくれと思った。それでもこうやって学校で会うときにはまったく疲れを見せないものだから困ったものだ。
「行かないかなー。人多いし」
「いやそれはいつもだろ」
「そうなんだけど、なんか雰囲気が違うっていうか。張り詰めた感じ?俺、あの感じあんま好きじゃないんだよ」
あー確かになぁ、と神谷は頷く。彼は予備校だとか塾だとかにも通っていないそうで、それもピリピリとした空気が嫌いだからだと以前言っていたのを思い出す。勉強を適当にしているわけでは決してないけれども、あの緊張感に呑まれてどうしても集中できなくなってしまうのだ。周りで勉強している人たちに気を遣ってしまう。
「あ」
「ん?」
「だったらさ、明日か明後日の放課後、一緒に勉強しねぇ?」
「いいけど」
にやり、と神谷が一瞬口角を上げたのを、俺は見逃さなかった。けれどもなぜそんな表情をしたのかは全く見当がつかない。思いつく限りでは、例えば俺の英語苦手ぶりを茶化すくらいだろうか。だが、俺の記憶する神谷はそんなことをするような人間ではない。
俺が1人で考え込んでいると、事はいつの間にかトントンと進んでいた。いつ、何時に、どこで。俺が忘れないように、連絡ツールを通じて必要事項を纏めて送ってくれている。妙に気合が入っているな、と思ったが、彼が勉強に熱心なのはもとからであるため、俺はあまり考えないようにした。余計なことを気にするよりもまず、英語がやばい。神谷は英語が得意であるから、この機会を借りていろいろ教えてもらおう、と企む。
◆
待ちに待った週末。いや、待ちに待ってはいないが、何にせよ英語の勉強が全くと言っていいほどに進まず1人悶々としていたものだから、この機会に神谷に教えを乞うことができると思うと、人と勉強するのも悪くない。
指定されたチェーンのカフェに行くと、窓際の広い机から神谷が「やっほー」と口パクで言いながら手を振った。午後1時集合だと言われていたため一応10分前には到着するように家を出たつもりだったが、机の上に散らばった教科書やプリントを見る限り、神谷は集合時間より一足も二足も早く来て勉強していたらしい。
「もう勉強してたのかよ。あ、英語教えろよな」
カウンターで飲み物を注文し、受け取りまで少し時間があるので荷物を席に置きに行く。神谷はアイスアメリカーノを頼んだようだが既に氷は全て解けきり、グラスの下に敷かれたナプキンがびしょびしょに濡れていた。
「もちろん。あ、そこお前の席な」
「なんだよ席決まってんのかよ。まあどこでもいいけど」
「いやーそうじゃないんだけどなー。まあすぐわかるよ」
神谷がその切れ長の瞳でウインクしてみせると同時に、注文番号が呼ばれた。神谷が陣取った席は入り口からもカウンターからも程よい距離にある。そのため、店を出入りする人や注文をする人が毎回近くに来て集中力が削がれる心配がない。自分自身が注文するときには少し不便に思われたが、1人で幾つも飲み物や食べ物を頼むことはないだろうから、特に問題はない。
1人のそのそとカウンターヘ向かい、置かれたトレーの上からグラスとストローだけを取ってトレーは指定の位置へ戻す。夏でも冬でも俺は冷たい飲み物を好む。
ヒヤリとするグラスを片手に神谷が居るはずの席を見ると、なぜか人が増えていた。
「あー来た来た!」
人と人との間から神谷が小さく手を振る。
「雨宮と村上誘ったんだよ。いや、雨宮たちに誘われたのか…?まあどっちでもいいけど!」
「え、聞いてないけど」
俺は突然の状況が呑み込めずに、少し尖った言葉が口を次いでてしまった。それでも、神谷を含め3人はただ笑顔でいるばかりだ。
「いいじゃん!あ、私たちドリンク頼んでくるね。先に勉強してていいから」
同じクラスの雨宮凪が鞄を下ろしながら言う。その後に続いて、こちらも同じクラスの村上加奈が控えめに荷物を椅子に置くと、2人は揃ってカウンターへ向かった。
「…っていやいや、マジで聞いてない」
俺は少しだけ声のトーンを落として神谷に詰め寄る。指定された自分の席の隣には村上が荷物を置いており、向かいには神谷がニヤケ顔で着席、その隣には雨宮の鞄が置かれている。
「何だよ、あの2人のこと嫌いか?」
「いや、嫌いってわけじゃねぇよ。ただ一緒に勉強するほど仲いいわけでもねぇだろ。俺だけじゃなくてお前も」
どういう経緯でこうなったんだよ、と神谷に聞くが、神谷は「まあまあいいじゃねーか」と言うだけで何も教えてくれない。
「そもそもなんで最初に教えてくれなかったんだよ」
「あーいやー言ったら来るの迷うかなって思ったからさ」
「わかってんじゃねーかよ。てか雨宮たちに誘われたのか?」
「うんまあそんな感じ?学祭のときのグループトークから急に個人追加されて、こうなった」
「いやこうなったじゃねぇんだよ」
雨宮、村上、そして神谷とは4人で学祭のクラス出店の装飾を行った。と言っても俺と神谷が進んで装飾係に名を挙げたわけではない。幸運にも野球部が県大会のかなり上位まで駒を進めたことで通常よりも練習時間が増え、出店準備に割く時間が他のクラスメイトよりも限られてしまったのだ。そこで、美術部である雨宮と村上が既に担当となっていた装飾係に助っ人として配属されたというわけだった。
俺も神谷も特に絵が得意でも美術の成績が飛び抜けて良いわけでもなかったが、結局野球部の練習で忙しく、9割以上の準備を雨宮と村上の2人がやってくれたのだ。だから、一応同じ係ではあったが神谷と俺は名ばかりのようなもので、実際女子2人と作業したのは学祭前々日と前日、そして学祭中の部活停止期間のみだった。それでも、2人は美術部同士でとても準備を楽しんでいたようで、下手に美術のわからない人が同じ担当になるよりもやりやすかったのでは、と俺は密かに思っていた。
「まあまあ。ただ勉強するだけだしさ。英語も教えるから」
「言ったな」
あまり仲良くない間柄の人と勉強をするのは集中力が切れやすく好きではなかったが、ここまで来て今更「聞いてなかったから帰ってくれ」なんて言えるわけもないので、俺はしぶしぶ納得する。ふぅ、と大きく息を吐くと、「勉強してるー?」と言いながら雨宮と村上が飲み物を片手に戻ってきた。