水曜日、放課後
1週間後、水曜日。俺は、また自習室に向かう。俺の教室は2年5組で3階にあり、自習室は1階南校舎の隅だ。校舎内を迷路のように繋げている階段を上手く取り次げば、最短10分も掛からずに到着する。
ぐるりと自習室内を見回したが、まだ彼女は来ていない。いや、そもそも今日また来るのかどうかも定かではない。何にしろ、彼女を思わせる姿は目に入らなかった。そもそも勉強をしに来たんだし、と気を取り直し、大きな机が埋まっている代わりに個人用が空いていたので、とりあえずそこに座る。大きい机を広く使って教科書や参考書を広げながら勉強するのが好きな俺には、両脇に仕切りのある個人用席はやや小さく感じるが仕方がない。
俺は、足元に置いた鞄から英語のワークと電子辞書を取り出して早速勉強に向かう。遠藤千沙が後から来たら見逃してしまうかもしれないと思うと気が気ではなかったが、ワークの提出期限が2日後の金曜に迫っていたので集中するより外ない。やろうと思えば解答写しでもなんでもできるだろうが、元々英語が苦手であるため、できれば自力で解いて成績を上げたい。
カチカチカチ、と壁に掛けられた古めの時計の秒針が鳴る。紙をぺらぺら捲る音や、ペンと紙が擦れる音だけがその場に響いて、自習室全体が外の空間からきっかりと切り離されてしまったようだった。
「…んぁ」
とんとん、と不意に肩を叩かれた感覚で、俺は意識を取り戻した。いつの間にか眠りこけていたのだろうか。ぼやける目を擦ると手元にはやりかけのワークの端が少しだけぐしゃりとなって敷いてある。側にはシャーペンと消しゴムが無造作に投げ出され、電子辞書は開いたまま真っ暗な画面をこちらに向けていた。
「…え」
一体誰に起こされたか、と隣を見ると、彼女——遠藤千沙がいた。心配そうに俺の顔を覗き込む瞳は黒くて丸くて、でも口元がどこか笑いだしてしまいそうな笑みを抑えているようにも見えた。
——夢か。
まだ俺は寝ているのか。だって、こんなに近くで彼女を見たことはない。彼女が俺なんかに関わる理由もない。
冴えてきた頭を必死に回転させ思考を巡らせるが、どんどん五感が現実に引き戻されるに従って、今見ているこの光景が夢ではないことも明らかになっていった。
俺はさっと左手で口元を覆う。悩んでいる素振りをしていると見せかけて、涎が垂れていないかを確認した。既に顔は見られているためもう遅いだろうが、それでもこれから家に帰るまで気づかないのとここで気が付くのではだいぶ話が違うように思えた。幸い涎と思われる痕跡は指先に感じられず、俺は少しだけほっとする。相変わらず遠藤千沙はその柔らかな瞳をこちらに向けて俺の様子を伺っている。が、「時間、」と呟くと、壁の時計を静かに指さした。
すらりと長い指先は爪まで綺麗で整えられていて、自分の丸く小さな乾燥した爪とは大違いだった。
時間は、午後6時50分。午後7時には管理人のおじさんが校舎の施錠を始めるため、45分には一度帰宅を促す放送が入るはずだから、それすらも耳に入らないくらい爆睡していたことになる。やっと周りの状況を理解し始めると、途端に自習室が物音で騒がしかったことに気づく。皆、放送を聞いて下校の準備をしているのだ。
「すみません、ありがとうございます」
短く丁寧にお礼を述べ、俺は急いで帰り支度をする。無防備に眠りこけていたところを目撃されただけでもこそばゆいのに、終いには起こしてもらい、なんだか自分だけがそういった個人的なテリトリーを彼女に見せてしまっているような気がした。俺は彼女のことを何も知らない。名前と、姿かたちと、学年組だけだ。
無意識のうちに片付ける手が早まり、遠藤千沙に顔向けできない。一通りける準備が済むと、俺は「では、ありがとうございました」と一礼だけして出口に向かう。今日はだめだ、と思った。今の自分ではすべてに対する自信がない。うまく話せる気もしないし、なにより話題がない。少なくとも、今日はだめだ。
「あの、待ってください!」
トタトタと軽い足音と共に、先ほどまで隣に座っていた遠藤千沙が追いかけてきた。そういえば1週間前もこんな感じだったなぁと思い出すが、そのときと異なる点と言えば外がかなり暗がりになっていることと、彼女も通学鞄らしきものを肩に引っ提げていることだった。
「えと、前も、会いましたよね…名前、教えてくれませんか」
俯きがちに彼女が言う。1階ロビーはひとつ大きな電気がついているだけで、端のほうに居る俺たちはぼんやりとしか互いを見ることができない。彼女との微妙な距離感がもどかしかった。
「山本です、山本大河。2年5組で…。えっと、お名前は」
「遠藤千沙です。3年の」
遠藤さん、と口の中で反芻する。彼女から名乗られるまでもなく名前は知っていたけれど、それがバレればストーカか何かと間違われそうで、俺はできる限り初耳感を出しておいた。
「大河くんね。電車通学?」
「いえ、自転車です。遠藤先輩、は…?」
「電車だよ。なんか遠藤先輩って変な感じ。みんな千沙さんとか、千沙先輩とかだから。自転車なら、駐輪場まで一緒に行こうよ」
「え」
ほら、と、少し前を歩きだした遠藤千沙がこちらを振り返る。初対面の時には取っ付きにくい感じの人なのかな、といった印象を受けたが、今少し話してみるとどうやらそうではないらしい。俺は、とりあえず誘いに乗ることにする。自分から上手く話しかけられるかは微妙だったものの、こうやって彼女の方から話題を振ってくれると幾分かは返しやすい。
「じゃあ、ここでばいばいだね」
駐輪場に着くなり、遠藤千沙はそう言った。冬の7時はだいぶ暗くて、外に出れば街灯の光が届きにくい場所だと隣にいる人の顔も判別できない。
「ついてきてもらって、ありがとうございました。あの…先輩も、お気をつけて」
「ありがとう。またね」
「は、はい…」
彼女はそう言うと、振り返ることなく来た道を戻って行った。暗すぎて、途中で彼女の姿は見えなくなってしまったけれど、それでも俺はしばらくぼうっと見つめていた。