帰路
正直に言って、俺は勉強が全く手に着かなかった。彼女がぱらぱらと静かに教科書を捲ったり、ペンを走らせたりする度につい視線が引き寄せられてしまう。何とか自分の勉強に集中し直そうとしたが、やはりダメで、数回の虚しいトライの後に今日のところは仕方なく帰宅することにした。そもそも普段であれば既に自宅に帰ってのんびりとテレビでも見ている頃であるから、ルーティーンが体に染みついているせいだ、と考えることにする。折角遠藤千沙とこんな距離で時間を共にできるチャンスではあったが、こうも何もできなくなると自習室に居る意味がない。それに、他に真剣に勉強をしている人たちにも迷惑になってしまうだろう。
大きな音を立てないよう細心の注意を払いながら、周りに広げていた教科書やらノートやらを鞄に仕舞い込む。部活がある日には追加で持ち歩いている白い大きなエナメルバッグが無いだけでだいぶん肩の疲れが軽減されるが、やはり大好きな野球ができないというのは少々の物足りなさも感じる。俺は最後に一目だけでも、と、真剣にワークブックと向き合う遠藤千沙を横目に席を離れた。後ろ髪を引かれる思いだ。
「あの…さっきはすみません」
「え?」
自習室を出て数歩進んだところで突然背後から聞こえた声に、俺は思わず反応した。廊下には俺と声の主しかおらず、やけに遠くの方から、サッカー部の掛け声が風に乗って僅かにふたりの間を通り抜ける。冬の風は冷たくて嫌いだけれど、俺はそれがどこか夏のそよ風のように感じた。
「えっ…と、きつい言い方になってしまったかなって思って…さっき」
振り返ると、そこには勉強をしていたはずの遠藤千沙が居た。俺よりも頭1つ分くらい小さな身長に相変わらずの綺麗な黒髪。俺は一瞬考えてから、「あの…何か」という彼女のセリフを思い出した。控えめに、けれども確かに少々の警戒心を滲ませたその言葉は親しみが込められているとはお世辞にも言い難いものだったが、俺と彼女の関係性を考えると特に失礼でも何でもないように思えた。そもそも静かな自習室の中で、俺なんかのような、身体が厳つく冬なのに小麦色の肌をしているような男にじいっと視られては、そのような反応にもなるだろう。自分で言うのも何だが、俺は制服を着ているときでさえ明らかに野球部所属という雰囲気を隠しきれていないと自覚しているし、そして野球部員は声が大きく圧が強いと捉えられることが多いことも知っている。
「ああ。いえ、大丈夫です、けど…」
俯きがちな遠藤千沙の顔を少し覗き込みながら、「わざわざそのために?」と、俺はできるだけ彼女を怖がらせないように、そして申し訳ないと思わせないように言葉に気を付けた。友人と話すときなどは口を次いで言葉がぽんぽんと飛び出るものだが、どうやらそういうところも初対面の人物、特に女子には印象が悪いと受け取られるようであった。
「はい、あなたが帰ろうとしてしまったから、私が途中から来たせいかなと…言葉も、きつくなってしまって」
「あ、いや、そんなことないですよ!全然!丁度、疲れてきた頃だったので」
まあ嘘なんだけど、と俺は心の中で呟く。彼女が来たことが原因で離席したことには間違いないが、それは決して彼女を嫌ってだとかそんな理由ではなく、純粋に彼女に目が行って勉強に集中できないからであった。ただそれをそのまま伝えるほど俺はプレイボーイではないし、だからといって「はい、あなたのせいです」なんて誤解の生じかねない言い方をするほど考え無しでもない。白い嘘とはこういうことか、と、頭の隅でドラマのワンシーンを眺めているときのように考える。
「…そうですか。それはよかったです。あの、ではこれで」
遠藤千沙はほっとしたように小さく笑うと、本当に俺に一言謝罪をすることだけが目的だったらしく、ぺこりとお辞儀をすると踵を返した。元々の身長差のせいか、彼女が俯きがちだったせいかで視線はあまり交わらなかったが、このときとなってはもう、彼女は目を合わせようとはしなかった。
「はい。さようなら。頑張ってくださいね、勉強」
「ありがとうございます。では、また」
そう言うと、遠藤千沙は小走りで自習室の中へ消えていった。その後ろ姿はやはり1年半前に初めて彼女を見た時と変わりなく、ただ一つ異なる点と言えば制服が夏服か冬服であるかだけだった。夏に見た淡いブルーのカーディガンの裾と思われる部分が、濃い紺色のジャケットの下から顔を出している。胸に浮かぶワインレッドのネクタイとの相性が良くて、より一層遠藤の魅力を引き出していた。
俺はくるりと自習室に背を向ける。何とか手で口元を抑えても、操られているかのように口角が上がるのを止められない。自然と足早になり、駐輪場に着く頃には飛び跳ねかねない勢いだった。こんなところ知らない誰かに見られようものなら気味悪がられるだろうなぁと思いながら自転車を探していると、太いコンクリート柱の影からひょっこりと人影が姿を現した。
「お、山本じゃん」
「なんだ神谷か。びっくりさせんなよ」
「させてねぇよ。お前が勝手にビビったんだろ。てかなんだその顔。キモチワルイな」
「キモチワルイって言うなや」とツッコもうかと一瞬頭を過ぎったが、「いやぁごめんごめん」と無難な返しに留めておく。なんだか今日は早く家に帰って、ぼーっとしたい気分だ。何も考えず、ただ時間の流れを感じて満たされたかった。
「なんでこんな時間までいたん?」
神谷は、目立つオレンジ色の自転車をガチャガチャとやりながら言った。彼はよく所有物を失くす。失くす、というよりは、見失う、の方が正しいかもしれない。スマホや財布を探す神谷はもう野球部の内ではお家芸のようなもので、部員は彼の誕生日にスマホアプリと連携させて使うことのできるGPSタグをプレゼントし、財布に付けさせたこともあった。しかしながら、その1週間後にスマホと財布の両方を同時に見失うものだからお手上げだ。実生活ではそんな感じだが、野球の試合となるとボールを一瞬たりとも見逃さないのが神谷という男であった。以前野球と実生活での大きなギャップについて問い詰めたことがあったが、神谷曰く、「興味関心の有無とか、そのものの存在感」が大きく関わるらしい。彼は勉学も順調で、前回の全国模試では20番台と、文武両道を掲げる我が校・永徳高等学園の模範たる存在であった。
「いやちょっと、勉強しようかなって。家だとだらけるし」
「へぇ。まあ俺たち来年受験だもんな。先生たちからのプレッシャーもすごいぜ」
「だよな」
短く返事をすると、俺は黒い自転車に跨りちらりと神谷を見遣る。
「まだ鍵直してないのかよ」
「うん。直すほどでもない気がして、やってない。時間は掛かるけど最後には開くんだよな、これが」
「手伝うか?」
「いいよ。コツがいるんだ。気を付けて帰れよ」
「おう」
神谷が目線だけを俺に向けるのを受け取って、そのまま自転車を漕ぎだす。彼はいい友人だ。べったりくっ付いて仲良いわけではなく、だからといって適当に扱うわけでもない。俺は、来週の水曜日、同じ時間、部活がオフの時には、また自習室に行ってみようと考えた。遠藤千沙が毎週水曜日に居るとは限らないが、勉強しなければいけないことも事実であるから、それがいちばんいいと思った。
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