第98話 赤い花、白い雪(二)
「太郎さんはね、本当に、お姉さんのことが大好きだったんだ。だから、自分が年を取って死んでしまった後も、周りの勝手な噂話で真実が消えてしまわないように願ったんだ。太郎さんには優しいお姉さんがいて、小さい頃からずっと可愛がってくれて、一緒に遊んでくれて、さいごまで太郎さんを守ってくれた…っていう本当のことを」
稔流は、微笑んだ。
「その太郎さんの血筋と伝説を受け継いで、《波多々の太郎の家》からお嫁に来たのが、俺のひいおばあちゃんなんだよ。何代前……何百年前に遡るのかわからないけど、俺は太郎さんの子孫なんだ。俺は、太郎さんに感謝してる。太郎さんを守ってくれた『つばき』にも感謝してる。太郎さんと『つばき』がいたから、俺は生まれてくる事が出来て、『さくら』に出会うことが出来たんだ」
「…………」
もう、返事をする力が無いさくらの黒い瞳から、涙がはらはらと伝い落ちた。
「『つばき』のお母さんもお父さんも、太郎さん以外の弟妹も、死んでしまったけど、……それはもう、太郎さんと同じなんだ。ずっとずっと昔のことで、もう誰も苦しんでいない。みんな、安らかに眠っているんだ。……苦しみも悲しみも、終わったんだよ、さくら」
もう、苦しまなくていい。もう、誰も悲しまなくていい。
「それからね……この花がさくらの体を離れたのは、さくらがもう『つばき』でも『なし』でもない、『俺のさくら』になってくれたからだと思うんだ。それでも、この花はさくらが連れていって欲しいんだ」
稔流が硝子の小鉢から掬い上げて、さくらの手の上に載せたのは、さくらがもう失ったと思っていた赤い椿の花だった。
「始めの子供の『つばき』のお墓に、お母さんもお父さんも手を合わせていたんだ。死んでしまった『つばき』が、もう一度生まれてきてくれたと思いたくて、次の女の子にも同じ『つばき』っていう名前を付けてしまったけれど……、座敷童になった『つばき』の姿は見えなくても、妹とは違うんだって、本当はわかっていたんだよ」
涙が、溢れる。
稔流の顔が霞んで見えなくなってしまうのに、それでも救われた『つばき』の魂の欠片が、涙に変わる。
「二度目にさくらが座敷童に生った時、さくらの髪の毛が真っ白になっていたのも、『一度目のつばき』の記憶を真っ白に失っていたからじゃないんだよ。『つばき』のお母さんの名前は『ましろ』なんだ。雪が真っ白に降り積もった朝に生まれたから、ましろ。だから、さくらの髪の毛は、ましろさんの色で、本当に《雪の糸》だったんだよ」
(ゆきの、いとみたい)
さくらは、幼い日の稔流のあどけない声を思い出した。
冬も雪もあまり好きではないと思ったのに。
《雪の糸》と名付けられた自分の髪を、初めて好きになれた。
「椿は、真っ白な雪の中でも咲く花だよ。さくらの真っ白な髪の毛にいつも椿の花が咲いていたのは、『つばき』がちゃんとお母さんとお父さんに望まれて生まれてきた子供で、死んでしまってからも大切に想われていた、その証拠なんだよ」
真っ白な髪なんて、好きじゃなかったのに。
椿の花なんて、大嫌いだと思い続けてきたのに。
遠い昔から語り継がれてきた伝承が、それを伝えてくれる稔流という存在が、『つばき』と『さくら』を救ってくれる。
(稔流)
きっと、声に出さなくても届く。
(稔流は、私の、神様みたいだ)
稔流が、微笑む。
「さくらだけの神様だよ。俺は優しくないし、我が侭だから」
遠くない未来に、稔流はさくら以外の全てを捨てるのだから。
後に残された人々は、神隠しの時のように、必死に稔流を捜すのだろうか。
でも、稔流の変質は進行し、もう人の身には戻れない。……それでも、いい。
さいごの時が来た。
振袖を纏ったさくらの姿が、少しずつ光の粒になって、さらさらと散ってゆく。
「さくら、好きだよ」
(私も、稔流が好きだ)
「誰よりも、大好きだよ」
(私も、誰よりも、大好きだよ)
「……さくら」
稔流は、言った。
大人になっていなくても、今、伝えたいと思ったから。
「さくら、愛してる」
子供には背伸びの、でも本当の心と言葉に、さくらは答えた。
「私も……愛してる、稔流……」
さくらが、ゆっくりと目を閉じた。
さらさら、きらきら、さくらの姿が光の粒となって消えてゆく。
さくらの手の上の赤い椿の花も、さらさら、光の粒に変わってゆく。
稔流の腕の中から、さくらが失われてゆく。
そして、最後の光の粒がふわりと宙を舞い、消えた。
「さくら……」
稔流は、静かに呟いて、金色の光を宿す目から、涙が伝い落ちた。
「待っていて……さくら。迎えに行くから。捜しに行くから。何度でも、さくらって、名前を呼ぶから……」
第7章・了