第97話 赤い花、白い雪(一)
赤い鬼が、ぽたぽたと血の雫を落としながら歩く。
(通りゃんせ 通りゃんせ)
(ここはどこの 細道じゃ)
(天神様の 細道じゃ)
さいごの力を振り絞って呼んだ近道のはずなのに、それでも遠く思えた。
(ちっと通して くだしゃんせ)
(御用のないもの 通しゃせぬ)
はやく、帰らなければ。
はやく、辿り付かなければ。
(この子の七つのお祝いに)
(お札を納めにまいります)
この命が、尽きる前に。
信じて、待っていてくれる、稔流の元へ。
(行きはよいよい)
(帰りは――――)
「お帰り、さくら」
井戸の縁に腰をかけていた稔流が、立ち上がった。
「帰って来てくれて、ありがとう」
その優しい声に、眼差しに、赤い鬼は――さくらは、ふっと体の力が抜けた。
でも、倒れ込むことはなかった。稔流が、しっかりと抱き締めてくれたから。
こんな、醜く恐ろしい姿になってしまっても、稔流は躊躇いなく受け止めてくれるのだと、さくらは安心して目を閉じた。
「……稔流」
「何?」
「狭依は……元の姿に戻った」
「……うん」
「祟りは、終わった」
「……うん」
「後のことは…多分、大彦がどうにかする」
「……うん」
「お天王様が…もう、鬼として生きなくてもいいと…、鬼の運命を、斬ってくれた…」
「……うん」
「でも、鬼である私と……座敷童である私は……、…切り離せない」
「……うん。知ってる……」
もう、醜い異形の姿で、怒りと悲しみと憎しみに囚われた鬼の心で、長らえなくてもいい。
でも、天王と呼ばれる仏教の神の慈悲と救済には、代償が必要だった。
「ごめん……稔流」
「何のこと?」
「私は……もうすぐ、消える」
「……うん」
「消えて何も無くなってしまうのか……この世から消えて、何処か違う所へゆくのか……私も、わからない」
稔流は、そっとさくらの手を握った。
「大丈夫だよ。何も無くなったりなんか、しないよ。さくらが何処かに行ってしまっても、俺が捜しに行くよ。何度でも、さくらの名前を呼ぶよ。……必ず、さくらを迎えに行くよ」
鬼の命が、座敷童の寿命が、尽きようとしている。
さくらの体から、赤い破片がパラパラと剥がれ落ちて、夜明けの緩やかな風に散ってゆく。
真っ赤な鬼の顔が、陶器の面のようにひびが入り、ぱきんと澄んだ音を立てて割れた。
それもはらりと落ちて、白く美しい肌になった。
最後に残った鬼の角も、砂の城が風に攫われるように、散った。
「よかった……。さいごだけでも、稔流が綺麗だって……言ってくれた姿に、戻れて……」
さくらは、人の形をしているだけだ。肺などという臓器はないのに、息は段々儚くなって行く。
「さくらは、もっと、綺麗になったね」
「え……?」
風に、地面に付きそうな長さの、優美な着物の袖が揺れた。
さくらが身に纏っていたのは、美しい桜柄の振袖だった。
「姫神様からの、贈り物だよ。さくらも成人するからって。……あやめさんみたいに」
許婚の善郎を、八十年見守り、待ち続けたあやめが旅立つはなむけに、姫神は一度しか袖を通すことのない華やかな振袖を贈った。
でも、さくらの旅立ちは、あやめのようにはならない。
「ごめん……稔流。私は、稔流と共には行けない」
堪えていた涙が、白い頬を伝った。
「私は……先に、逝く……」
「大丈夫だよ。俺は、ちゃんと《約束》を守るから。《誓い》も果たすから。
稔流は言った。
「信じて。絶対、さくらを迎えに行く。さくらを、俺の花嫁さんにする。俺が大人になったら、結婚してよ、さくら」
「………っ」
五回目の、プロポーズ。
それは、まだ稔流が幼かった頃、最初のプロポーズをした時と、『ぼく』を『俺』に入れ替えた以外、一字一句違えずに。
「覚えてる?」
「……覚えてるに決まってるだろう、ばか」
「ばかでもいいよ。返事、聞かせてよ」
「……喜んで」
数え十五ほどの姿に成長したさくらは、綺麗に笑った。
晴れ姿の振袖を着て、年頃の娘らしく化粧をした頬に、涙が溢れた。
「化粧が崩れる。乙女の装いは厄介だ」
「ううん。綺麗だよ。世界で一番」
「……相変わらず、殺し文句が好きだな」
「さくらにしか言わないよ」
もう、さくらは稔流に支えられていても、立っている力は無くなった。
「帰ろうか。一緒に」
「……うん」
稔流は、さくらを抱き上げて縁側から自室に入り、稔流の体に寄りかかれるようにして座らせた。
「伝えたいことがあるんだ」
「……なに?」
「さくらは、太郎さんを殺してなんかいない」
さくらの目が、驚きに見開かれた。
「さくらが『つばき』だった頃に、座敷童の加護を授けた太郎さんは、生き残ったんだよ」
「…………」
「太郎さんは、当主にはならずに叔父さんに譲ったけど、太郎さんの許婚は《約束》を守りたいって言ってくれて、結婚したんだ。その血筋と一緒に、太郎さんは本当の事を子孫に秘密の伝説にして残したんだ」
「…………」
さくらは、稔流の声を、遠い夢から覚めるような気持ちで聞いていた。