第92話 ふたりの椿(二)
両親は、いつもは聞き分けのいい太郎が珍しく泣いて怒っているのを、小さい妹に母を取られたと、やきもちを焼いているのだと思って宥めすかした。
「ちがう!姉様にあやまってよ!!姉様、いっぱい、ないていたのに。母様、母様って、いっぱい、いっぱい、よんでいたのに!!『つばき』はおれの姉様だけなのに!!」
誰も、太郎の言葉も心も理解しないまま、妹は『つばき』として育った。
妹は可愛らしい顔立ちだったけれども、幼い姿でも神秘的な美しさを持つ姉と似ているとは思わなかった。
姉妹なのだから、どこか姉の面影はあったのだろうけれども、そう思いたくはなかった。
(兄様…わたしのこと、どうしてきらいなのかしら…)
妹が、母にしょんぼりと言っているのを、偶然聞いてしまったことがある。
(…嫌いなんじゃないのよ。太郎は、いなくなってしまったお姉ちゃんが大好きなだけなのよ)
皮肉にも、その誤魔化しは、真実だった。
真実で、事実なのに、母は太郎の言葉に耳を傾けなかった。
嫌いだと思った。
妹も、母も、父も。
幼い頃は快活な子供だった太郎は、温和で卒の無い子に育っていった。
もう、母に反発することも、妹を無視することもなくなった。
誰もが、太郎はいつか立派に家を継いで栄えさせるだろうと言った。
しかし、太郎が本当の笑顔を向けるのは、太郎を慕ってくれる年下の許婚だけだった。太郎のような座敷童を見る力は持たなかったけれども、太郎の話を信じてくれたから。
(わたしも、つばき姉様にあってみたい)
その言葉に、救われた。
元々家同士で決めた縁談だったけれども、許婚が成人したらすぐにでも結婚しようと、ふたりで《約束》をした。
その約束があと一年で果たされる年のことだった。
妹のつばきが、数え十三を迎えたので祝うこととなった。
裕福な家と言っても、山奥にある村ではなかなか《外》のものは手に入りづらく、妹は母の若い頃の晴れ着を着ることとなった。
だが、悲劇はその時に起こった。
この村では、数え十五で成人するが、女性にとっては数え十三は特別な年齢だった。
成人する前の、最後のお祝い。
年頃の娘になったと、周囲にお披露目をする年齢であり、許婚のいない娘には、この頃に縁談が舞い込むこともあった。
「旦那様。私が十三の時に仕立てた晴れ着ですけど、つばきの方が綺麗でしょう?」
「それは…、困った事を言うものだな」
父の笑い声が聞こえて、まだ幼い弟妹たちが『つばき』の晴れ姿を見る為に部屋に走り込んだ。
弟妹の歓声に、華やかに着飾りお化粧をしてもらった『つばき』はとても嬉しそうだった。
「あら、兄様も見に来てくれたの?」
きっとその時、《妹のつばき》は太郎に笑顔を向けていたのだろう。
でも、太郎の目は、妹を見てはいなかった。
太郎の目に映っていたのは、小さな童女の後ろ姿だった。おかっぱに切り揃えた、絹糸のような黒髪は――――
「姉様…?」
こんなに、小さかっただろうか?こんなに、幼かっただろうか?
座敷童だから数え五つばかりの姿から成長していないと言っていた、優しかった姉は。
妹が『つばき』になったから、泣いて姿を消してしまった『ほんとうのつばき』は…
太郎が成長した分、もっともっと小さく幼く見える童女は、太郎の声に気付いていないようだった。
つぶらな黒い瞳に映っていた光景は――――
数え十三のお祝いに、母のお下がりの晴れ着を着た妹。
その頃、着物は財産だった。
母のものが娘に引き継がれるのはとてもめでたいことで、娘は母から受け継いだものを持って、いつか嫁いでゆく。
もし、太郎の姉が生きていたら。
座敷童にならずに、生きている人間だったなら。
成長した『つばき姉様』が、母が若き日に着た晴れ着に袖を通すはずだったのに。
その姿は、きっと天女のように美しかったろうに。
ぺたんと、座敷童は座り込んだ。
そして、もう何も聞きたくないと耳を覆って、太郎にしか聞こえない声で、泣き叫んだ。
「うあ…、あ、…あああああああ!!」
太郎の目の前で、小さな姉は狂ってしまった。
「姉様!!」
呼んでも、絶望に慟哭する小さな女の子は、太郎に気付かなかった。
「…うあああああ!!ああああああああ!!」
澄み渡っていた冬の青空は、瞬く間に暗雲に覆われた。
まるで、『つばき姉様』の心そのもののように。
ゴロゴロと重く鳴り響く空。雷鳴が近付いて来る。
遂に空がカッと白く光り、近くで落雷の音がバリバリと轟き、大地が揺れた。
生前は波多々の家の娘だった《天神の子》は、座敷童であり雷神だったのだ。
天を裂く黄金の竜。
凄まじい音と共に、波多々の屋敷に落雷し、あっという間に炎が燃え広がった。
太郎の家族が高温の爆風と炎に包まれ、その姿を見失った。
でも、まだ姉がいる。
かつて、自分を守ってくれた姉。今度は、太郎が姉を助けなければ。
「姉様!つばき姉様でしょう?」
太郎は、必死に手を伸ばした。
「姉様、危ない!!」
「……。太、郎…?」
ぼんやりと、泣き濡れた童女が、太郎の声に振り向いて、名を呼んだ。――――ああ、姉はまだ、自分を覚えていてくれたのだ。
2年前に成人していた太郎は、すっかり大きくなって、幼い頃の面影は殆ど残っていなかっただろうに。
それでも『ほんとうのつばき』は、太郎なのだと気付いてくれた。
姉もまた、太郎に手を伸ばした。
連れて逃げなければ。今度は、一緒に。
でも、その小さな手を握ることは出来なかった。
太郎は、焼け落ちてきた屋根の下敷きになった。
「太郎…太郎!うあ…っ、うああああああ!!」
遠くに、姉が自分の名を呼びながら、泣き叫ぶ声を聞いたような気がした。