第91話 ふたりの椿(一)
はるか昔――――
波多々の屋号を持つ名家に、待望の長男が生まれた。
父は、男の子が生まれたら付けたいと思っていた、『太郎』という名を付けた。
『太郎』はとても元気な男の子で、そして不思議な力を持っていた。
しかし、その力に気付く者はいなかった。
――――たったひとり、『つばき』という名の小さな姉以外は、誰も。
何故なら、『つばき』の姿は太郎にしか見えていなかった。
声も、太郎にしか聞こえていなかった。
(仕方が無いよ)
(人間の『つばき』は、生まれてすぐに死んだから)
(今ここにいる私は、座敷童だから)
姉は、もう人間の体と命は失っており、座敷童に生ったから大抵の人間には見えない、そう言った。
太郎は元気で活発な子なのに、ほかの者には、ひとりあそびが好きな手のかからない子供に見えていた。
(でも、太郎が私に気付いてくれた。だから、私は嬉しいし、幸せなんだよ)
太郎にしか見えない姉は、太郎にだけ座敷童の加護というものを授けた。
座敷童は、居着いた『家』に幸運をもたらす妖怪だけれども、気に入った『人間』だけ特別に守護する力を分け与えることが出来ると言った。
(太郎、お前の名前はね、元気に立派に育つ男子という意味なんだよ)
(そのように、父様が願ってつけたんだよ)
(だから…太郎、これからも元気に育って、元気で立派な跡継ぎになれますように)
その加護の力なのだろうか。
太郎はほとんど病気をせず、罹っても軽く済む丈夫な子供だった。
誰もが、この子はきっと立派に成人して、立派に次の世代の家を率いるだろうと思った。
太郎は、姉が好きだった。
自分の背丈が、座敷童となってしまった『つばき』を追い越しても。
『つばき』が人間と違って成長しない姿であっても、太郎は『つばき』が自分の姉であることを信じていたし、『つばき』の方がずっと大人びていることも分かっていた。
長男だからと父に厳しく育てられても、母の目も手も幼い妹や弟にかかりがちでも、甘えさせてくれる姉がいるのが心の支えだった。
だが、太郎は突然、大好きな姉を失った。
母が、妹を出産したのだ。
母は喜び、涙を流した。
(…ああ、戻って来てくれたのね)
(もういちど、この母のところに生まれて来てくれたのね)
(旦那様、この子を『つばき』と名付けましょう)
その時までは、『姉のつばき』も、新たな弟か妹の誕生を、太郎と一緒に心待ちにしていてくれたのに。
姉が立ち尽くし、茫然と呟いた声を太郎は聞いた。
(……どうして?)
(『つばき』は私の名前なのに……)
いつも笑顔で、いつも優しいばかりだった姉が、泣いて取り乱すのを、太郎は初めて見た。
子供のように癇癪を起こし、そして絶望に泣き崩れる声を、初めて聞いた。
(どうして……どうして)
(どうして、私から私の名前を取り上げてしまうの?)
(その赤ん坊は、私じゃないのに。『ほんとうのつばき』じゃないのに)
(どうして、母様、母様、母様――――――!)
いつも傍にいてくれた姉は、その日を境に現れなくなった。
「母様のせいだ!!」
太郎もまた、赤ん坊を胸に抱いている母に向って、泣いて怒った。
「『つばき』は姉様の名前じゃないか!どうして、妹をつばきにしてしまうの!?どうして、姉様の名前を取り上げてしまったの!?その子は『ほんとうのつばき』じゃないのに!!」
「……?どうして、太郎のお姉ちゃんに、つばきという名前をつけたことを知っているの?」
生まれてひと月せずに死んだ娘のことを、母は息子にはあまり話したことがなかった。
幼い息子に、死んでしまった娘の話をしても仕方が無い。もういないのに、姉だと言ってもよくわからないだろうと思って。
そして、母自身も、口に出せばあの慟哭を、どうしようもない喪失感を思い出すことになる。
「お姉ちゃんのつばきは、生まれてすぐに死んでしまったけど、今度はこうして元気な赤ちゃんに生まれ変わってくれたの。だから、この子も『つばき』なのよ」
幼い太郎は、母が何を言っているのか、全く理解出来なかった。
生まれ変わりなど、知らない。
でも、その妹が『姉様』とは違う子供なのは知っている。
つばきという姉は、太郎が思い出せないくらい小さかった頃から、ずっと太郎を大切な弟だと可愛がって、一緒に遊んでくれて、甘えさせてくれて、守っていてくれたのだから。
「ちがう!そいつは、つばきじゃない!!つばきは、姉様なんだから!!そいつはにせものだ!!にせものを『つばき』って呼ぶから、姉様は、いっぱいいっぱい泣いて、どこかにいってしまったんだ!!」
母もまた、息子が何を言っているのかわからなかった。
母は、失った娘が座敷童と生って、この家と太郎を守っていたことを知らなかったのだから。