第90話 伝承者(二)
さくらは、人を殺してしまったことがある。
でも、家を滅ぼしてはいない。
さくらは、椿の花と自分の繋がりについて知らなかった。
そして、さくらは二度、座敷童になったと言っていた。なのに、それ以上は何も言おうとしなかった。
もしかしたら、さくらは『一度目に座敷童になった』時の記憶を失っていて、無意識に椿の花を嫌っていたのではないか。
小鉢に浮かべられている椿の花。
大彦が言っていた禁忌の名前は、『さくら』と『つばき』。
老い先短いという曾祖母が、曾孫の稔流に遺していこうとしているのは、きっと、さくらが《一度目》に座敷童だった時の物語なのだ――――
「太郎さんがまだ波多々の家の跡取りだった頃、天神様が降りてきて、住んでいた人間もろとも屋敷が燃えてしまったんだよ。当主様も奥様も、ほかのきょうだいも使用人も、皆焼け死んでしまった。でも、太郎さんだけがどうにか生き残った」
天神は、この村では霹靂神とも呼ばれる雷神だ。
「……雷が落ちた、じゃなくて、天神様が降りてきた、って言うの?」
「私のような年寄りは、今でもそう言うねえ。天神様は、この村の守り神だから」
いつか稔流に『神様も妖怪もいない』と言った宇賀田操は、《外》では普通にいる現代っ子だけれども、この村のお年寄りからすると、とんでもない罰当たりなのだろう。
しかし、遥か昔であれば、神主の家に落雷して、跡取り以外の全員が焼け死んだ、というのは村人がパニックに陥るほどの怪異であったはずだ。
天神を祀る家に天神が降りてきた、と捉えるのと、天神が雷を落とした、と捉えるのとでは意味が正反対だ。
後者なら、文字通りの『天罰』。
神主の家、もしくは村全体が祟られているとも取れる。
しかし、前者なら『神主の家に神様が天降った』のだから、名誉ですらある。
死んだ神主一家は、神から直々に生贄に選ばれ、貴い捧げ物になったのだ。その見返りとして、村は栄えることになるだろう――――
「……日本の神様は、人間の為にいるわけじゃない…って聞いたことがあるんだ」
小さな神様であるさくらが、そう言っていた。
「恵みをもたらしてくれるけど、人間には解らない理由で荒ぶることもある。それが神様で、人間を救う為にいる仏様とは違う、って…」
いつか、姫神が告げた言葉も同じだった。
さくらとずっと一緒にいられるのなら、人間の命を捨てる。親不孝でもいい。誰を悲しませても苦しませてもいい。そう言い切った稔流に対して、
(そなたが救うのは、あの娘だけなのだな。仏にはなれまい)
(それでも、この国は八百万の神が住まう国。そなたがそう思うのならば、人間ではなくなった時…)
(そなたは、仏ではなく、神となる……)
「この村には、『人は死ねば神になる』という言い伝えもあったからね、死んだ波多々の者がこの村を守ってくれるだろうと言う者もいた。でも、死んで神様になれると言っても、みな自分が死ぬのは怖いと思うもんだ。他人でも、天罰で焼け死んだと思うのは、恐ろしいと思うもんだ」
「…………」
稔流をおもちゃを壊すように遊んでいたのに、自分たちが焼き殺される側になると、怖い、死にたくないと泣いた河童と狐たちのように。
「天神様の雷に打たれて死んだのだから、天罰だという者もいた。でも、跡取りの太郎さんだけが、酷い火傷を負っても『神様に守られたように』助かったことも、ただの人間には意味が分からないことだった。でも、醜いみかけになってしまった自分に嫁いでくれる娘もいないだろうからと、太郎さんは叔父に次の当主の座を譲ったんだよ。…その家が、今の神主さんの家だ」
五十物語の時、狭依が全く知らない様子だったのは、元本家の伝承を受け継いでいなかったからだ。
あまりにも長い時が過ぎて、狭依が生まれた『本家』には、太郎の家の謂れは残っていないだろう。
「でもね、太郎さんには許嫁がいた。当時の宇賀田の二の家の娘さんでね、《約束》を守りたいと言って、成人するとすぐにお嫁に来てくれた。その子孫が私だよ」
「じゃあ…、太郎さんは新しい当主になってもよかったんじゃないの?」
「一旦譲ったものを、後になって返して欲しいと言っても、揉めるだけだよ。太郎さんも、亡くなった家族を弔って、ひっそり暮らすことを望んでいたから。中でも、火事よりもずいぶん前に死んでしまった、お姉さんを特に手厚く弔い続けた。生まれてすぐに死んで、そのあとに座敷童になったお姉さんををね。そのお姉さんの名前が『つばき』なんだよ」
稔流は、はっとした。
遥か昔の波多々の家に座敷童がいたことも、その座敷童の前身が生後間もなく死んだ『つばき』という娘で、太郎の姉であったということも、あまりにも詳しく曾祖母の代まで語り継がれている。
「太郎さんは……座敷童はお姉さんだって、どうして知っていたの?」
「太郎さんはね、子供の頃から…成人しても、座敷童が見えて、言葉もわかる、とても珍しい人だったんだよ。……稔流ちゃんみたいにね」
「………!」
曾祖母は、座敷童の姿は見たことはないが、物音やお喋りしている気配はわかっていて、果物やお菓子を用意していた。
そのくらいの感覚を持つ曾祖母でさえ、珍しいとさくらは言っていた。
曾孫の稔流が、もっとはっきり座敷童と関わっていると、やはり曾祖母は気付いていたのだ。
「……太郎さんは、どうして雷が落ちてきたのか、どうして自分だけ生き残ったのか、本当の事を全部知っていたんだね」
「そうだよ。だから、太郎さんは子孫に本当のことを言い伝えるように言い残した。火のように赤い座敷童や鬼が災いを呼んだなどと、心無い噂に胸を痛めてね」
静かに、曾祖母は悼んで言った。
「同じ家に、『つばき』という娘はふたりいた。……それが、全ての不幸の始まりだったんだよ」
稔流は、言葉を失った。
ふたりの『つばき』。
稔流と実梨。
同じような名前を持ちながら、生死を分けた兄妹と、似ていると思った。