第89話 伝承者(一)
稔流は、聞けずにいた。
どうして、さくらの髪から椿の花が消えていたのか。
さくらが嫌い、いくら毟ってもまた咲くのだと言っていた、椿の花。
しかし、その花びらは稔流が持っていれば心の声で会話が出来るほど、『さくらの一部』であったことも確かだった。
聞けずにいたのは、さくらが椿の花を殊更に嫌う理由は、きっとさくらが思い出せないという過去にあると思ったからだ。
そして、きっと、思い出せない過去は、
――――思い出したくない、過去だから――――
「ああ…この椿の花はね、井戸の近くに落ちていたんだよ。季節でもないのに不思議でねえ…。ひとつだけぽつんと落ちていたのが、寂しそうでねえ…」
曾祖母は、寂しそうだったという赤い椿を、小鉢に浮かべて飾ったのだという。
「稔流ちゃんには、そろそろ話しておかなきゃならんと思っていたよ。…私はもう、長くないだろうから」
「え…?」
稔流は、言葉を失った。
自分自身は、数え十五になったらさくらと共に遠くへ去るつもりでいたのに、一方でこの家でずっと、稔流とさくらと曾祖母と三人で暮らし続けていくような気がしていたことに気付いたことに気付かされて。
「ひいおばあちゃん…、病気なの?」
稔流が知らなかっただけで、稔流が学校に行っている間に両親が営む診療所に通っていたのだろうか。
「そういう訳ではないよ。もう年だから、健康診断でも受ければ、何かしらあるかも知れないけどね。体が辛い訳でもないんだよ。…でもね、昔はよく言われたものだ。『子供と老人は神様に近い所にいる』ってね。この世とあの世の境目の近くにいるから、子供だけが妖怪を見ることが出来るし、神隠しに遭うし、簡単に死ぬ」
「…………」
「年寄りも同じだよ。お迎えが近くなると、不思議なものが見えるようになったり、聞こえるようになったり……若い頃には感じなかったものを、感じるようになる者もいるんだよ」
誰もがそうなる訳ではない。しかし、元々そのような感受性を持っていた曾祖母は、それがもっとに明確なものになったのだろう。
「私はね、『波多々の太郎の家』から嫁に来たんだよ」
「太郎…?っていう人がいたの?」
「ずいぶん昔のことだけれどね。昔は名字なんてものは無かったから、屋号で家を区別にしていたんだよ。ただ『宇賀田の家』なら今で言う本家だね。一の宇賀田、二の宇賀田、と数字が付くのも屋号だし、数字が付かない家は、分家になった時の家長の名前を取って、私の実家のように『波多々の太郎の家』と呼ぶ家もあったんだよ。長く続いている家は、ご先祖に屋号になった人がいたことしかわからなくなってしまうけど、平井寺に系図が残っているかもしれないね」
途方もなく長い歴史と物語。
だからこそ、稔流は違和感を持った。
「…太郎って、長男の名前じゃないの?」
素朴な名前だが、だからこそ一層『長男』という印象が強い名前。まるで『本家の長男』であるような…
「そうだよ。太郎の家は『元本家』とも言われとったそうだ。でも、そう伝え聞くだけで、実際には使われていない屋号だったから、太郎の家の者しか覚えていないかもしれないね」
つまり、波多々の直系は『太郎の家』だったのだが、途中で入れ替わっており、夏休みの五十物語の時点では、狭依はその事を知らなかったということだ。
(白い座敷童に憑かれた家は栄える。でも赤い座敷童に憑かれた家は滅びる)
(皆殺しで滅びた家がある)
(……波多々の本家)
五十物語で登美秀樹が話した怪談。
秀樹の亡き曾祖父が、誰か――年長の人間から聞いたことならば、かなり昔から存在する噂話で、事実だとしたらもっと過去に遡れる、とても古い伝承だということになる。
稔流は、真っ直ぐに曾祖母を見た。
「波多々の本家は滅んだ。赤い座敷童に皆殺しにされたって本当なの?」
少しの沈黙の後、曾祖母は答えた。
「太郎さんが生きていた頃から、そういう噂話はあったそうだよ」
「…………」
「本家の入れ替わりがあったことも、家の外では言うなと親に釘を刺されていたよ。…《本家》が気を悪くするからだろうからね。だから、今の人は波多々の本家はずっと昔から一本道で続いてきたと思っている。でも、『元本家』の太郎の家には、違うお話が伝わっているんだよ。伝えられるのは、太郎の家の跡取りと、私のように、嫁いで家を出る末娘だよ。嫁ぎ先で娘が生まれれば、その娘に伝えて嫁に出す。娘が生まれずに男の子だけだったなら、一番末の息子に伝える。伝えられた息子も、所帯を持って娘が生まれたら、娘に伝えて嫁に出す……その繰り返しだ。だから『次の代に教える者以外には、誰にも言ってはいけない』ということも、一緒に伝えるという決まりがあったんだよ」
だが、その基準であれば、稔流は伝承者に該当しない。
「この話、俺が聞いてもいいの?」
ふふ、と曾祖母は笑った。
「構わないよ。どうせ『言ってはならない』なんて秘密を、全員が守った訳でもないだろうからねえ」
確かに、言ってはならないなんて言われたら、返って漏らしたくなる者も居ただろう。
秀樹と秀樹の曾祖父は正規ではないルートで話をしたし、それは太郎の家の伝承が変化したか、元から噂話だったかどちらかなのだろう。
大彦が言っていた、波多々の『つばき』という女性が鬼に呪われて死んだ、という話も、赤い座敷童の話から派生したのではないか。
「そのくらいで調度良かったんだよ。昔はね、語り部が次の代に伝える前に、死んでしまうこともよくあっただろうからね」
「…………」
それは、人間があっけなく命を落とした時代から、地下水脈のように伝承されてきた、秘密の物語。
「座敷童は、本家を滅ぼしてなどいないよ。『元本家』の私が生きていて、稔流ちゃんもその血を引いているんだから」
稔流は、やっと知りたかった答えのひとつに辿り着けた気がした。
――――そうだ、この伝説の座敷童は、さくらのことだ――――
波多々の本家を皆殺しにしたと、忌まれて伝説になった赤い座敷童も、祖母が言う「本家を滅ぼしていない」という座敷童も、どちらもさくらのことだったのだ。