第88話 祟り神(三)
かつては村を守ってきた神が問う。
(天道の村が滅びてもよいと?)
「私は鬼だ。衆生を救う仏とは程遠い。人間など、滅びるも栄えるも勝手にすればよい」
(何故余の元に来た。この剣で、狐の子を狙う霹靂神を斬って逃げようとは思わなかったのか?)
「祟り神を斬れば祟りも無くなる……という安易な思い付きに過ぎませぬ。でも、鳥海の王の子に会って気が変わった。王の子は、私が人間の為に犠牲になることはないと言った。確かに、私程度の鬼神では、天王の名を持つ神とまともに戦うのは無謀でしかない。無謀で、無理なら逃げろ…と。私にさくらの名をつけた者と共に」
さくらは苦笑した。
鬼の形相と化した今、それは人間が見たら腰を抜かすか、それこそ逃げ出すかの忌まわしい顔であっただろうけれども。
「ただ、祟るほどの恨みを持つ神と、一度会ってみたいとも思った。…どれほど醜くなり果てたのか、『この上なく恐ろしい』とはどれ程のものなのか、…それとも、恨み祟るほどになっても、お上が排斥したくなるほど偉大であり、それでもお上とこの国を祟らなかったほどに……愛の神、蘇りの《むすびの神》と呼ばれた慈愛を、一雫でも残しているのかと」
(愛とむすびの神…とはまた、懐かしい名を持ち出してくれたものだ。産霊の神と言えば、高御産巣日神か神産巣日神しか知らぬ者が多かろうに)
祟り神もまた、苦笑した気配がした。懐かしいと。
(確かに、熊野の民はそのように呼び、そのように信じていた)
熊野三山ではなく、出雲の熊野で祀られる神。
加夫呂伎熊野大神櫛御気野命と称えられる素戔嗚尊。
『加夫呂伎』とは神聖なる祖神、『大神』とは並の神を超える称号であり、『櫛御気野命』は『霊妙なる食の神』という意味だ。
古事記に残される、|素戔嗚《スサノオ》が亡き母に会いたいと泣き喚く様は、
『青々とした山が枯木の山になるまで泣き枯らし、川や海の水は、すっかり泣き乾かしてしまうほどであった。そのために、災害を起こす悪神の騒ぐ声は、夏の蠅のように充満し、あらゆる悪霊の災が一斉に発生した』
とあり、凄まじい旱をもたらす、荒ぶる太陽神だった。
海の神とも嵐の神ともされ、山に天降り櫛名田姫という稲田の姫神を娶り子を為した雷神でもある。
雷神は、雨をもたらす水神でもある。
櫛名田姫を八岐大蛇という異形の蛇神の生贄の身から守った後には、治水と農耕の神ともなった。
このような多面性は、素戔嗚自身が様々な苦難を乗り越えてきた証だ。
妻と子と民を愛し、幾度となく訪れる災厄からも必ず蘇るようにと、幸福の再生へとむすび続けた、愛とむすびの神。
「牛頭天王とは、仏教の神とされながらも、天竺にも唐にも由緒が見えぬ、出自不明の謎の神…としか私は知らぬ。でも、病を呼ぶ疫神されながらも、それ以上に疫病や災厄から人々を守る神として、この国で広く強く信仰された。…本当に、訳が分からぬ。訳が分からぬからこそ、お目にかかりたいと思った」
奇しくも、稔流が管狐に『むすび』という名を付けた時には、驚き呆れて『私でも永遠にお目にかかることもないほどの神』と言ったのに。
こんな形で対面することになるとは思っていなかった。
これも、『さくら』と名付けた稔流の言霊が紡いだ運命なのであれば、受け容れようとさくらは思った。
「雷神であるのに、波多々の天神とはまた違う……或いは、本来は同体であったを人間が勝手に引き離してしまったのか。祟った理由が、本当にその小さな社に封印されたことなのかさえ、こうして貴方様を訪ねてみて、私はわからなくなった。たかが座敷童が、大いなる神の御心を理解しようとは思わぬ。ただ、私は、王の子から譲り受けたその神剣の刃を、貴方様に向けることは無い――――そんな気がしただけだ」
語り終えて、白い空間に、沈黙が落ちた。
異形となった顔から、体から、人間のような血がぽたり、ぽたりと滴るのが、不思議だとさくらは思った。
――――帰らなければ。
このようなおぞましい姿になり果てても、許してくれる稔流の元へ。
(鬼よ、何処へゆく)
「帰るべき所へ。《約束》を守り《誓い》を果たす為に」
(霹靂神と巫女はどうする)
天神ならば、《小さな雷神》でしかないさくらが、お天王様に勝てるはずがないと知っていたはずだ。
さくらには何も出来ないと、知っていながら使いに出した意図は、解らないままだが、……もういい。
「波多々の命運は、お天王様がお決めになること。祟る理由も止める理由も、私にはわかりませぬ故。ただ、私が譲れぬものだけは、守りにゆくのみ」
(其方が譲れぬものとは何だ)
「私に、さくらの名を授けた者…」
そう言ってから、さくらは言い直した。
「私にさくらの名を授けた者と、共に在る幸福。これだけは、決して譲れぬし、二度と諦めることもしない」
必ず、稔流の元へ帰る。
お帰り、ただいま…と。当たり前の言葉を交わす為に。
(…そうか。承知した)
大いなる存在が、社から出て来たのがわかった。
姿は見えない。そうとわかっただけだ。
(我が妻…櫛名田も、余と出会った時にはまだ幼い童女であった。だが、おとなしく蛇神の生贄になることよりも、愛するものと共に在ることを望み、懸命に戦う娘だった)
大いなる存在は懐かしみ、そして言った。
(ひとつ教えてやろう、鬼の童女。───余を信じるならば、だが)
さくらは、偉大な神の絶大な神気に飲まれそうになりながら、それでも稔流を思い浮かべて正気を保った。
「信じましょう」
(雷神、霹靂神とは、鬼神だ)
「…………!」
さくらは、驚き立ち尽くした。
天神もまた大いなる存在で大いなる神であり、さくらも『そこに御座す』ことと『声が聞こえる』ことしか分からない。
さくらがその姿を見たことがあるのは、成長しない座敷童だった頃に育ててくれた、美しい姫神だけだ。
(雷を火と捉えるならば赤い鬼神、眩い光と捉えるならば白い鬼神だ)
(赤い座敷童、赤い鬼という名の言霊に縛られるな。其方もまた、炎と光、どちらにもなれる)
(己を恥じるな。鬼の童女よ)
大いなる存在が、神剣を抜いた。
そして、その刃が、異形の童女を切り裂いた。