第87話 祟り神(二)
深夜の平井寺。日付が変わっても延々と読経の声が続いていた。
盆の終わりに、鳥海の本家が過去に封じ込めた神の封印が弱まっていることを知らせてきた。
だが、封印の重ねがけをしようとした際に、閉じ込められ恨みの塊になっていた神は、新たな封印に怒り、祟りの念が漏れ出した。
かつて廃仏毀釈の時代にお天王様を追い出した波多々の本家では、既に巫女である狭依が最も祟られ虫の息だ。仏の比良が食い止めるしかない。
「良く持ち堪えた、人間。だがもうやめておけ。瘴気で死ぬぞ」
はっとして、ひとりの若い僧侶が振り向くと、ずらりと並べられた蝋燭の光に照らされて、幻想的な白い髪の少女が佇んでいた。
「お…鬼!?」
「そう言うお前は、十五で盗んだ原付で走った悪童だな」
「…………」
若い僧侶は、微妙な顔をした。
若気の至りというよりも、子供の過ぎた悪戯なのだが、ぐれ気味の中高生からは補導から山に修行に行った所まで格好よく思えるらしい。
修行から帰ってきたら、英雄の伝説の如く語り継がれていた、という思わぬ災難。
多分、一生『田んぼに突っ込んだ比良の坊さん』と呼ばれるのだろうと思うと、気が重い。
「だが…流石は直系の跡取りと言っておこうか。他の坊主どもは、お前以外は瘴気にやられて病の床に伏しておろう?……ふふ、見事だよ。今死なせるのには惜しい。下がれ」
恐ろしいほどに美しい鬼は、すんなりとした白い手で神の社の扉を塞いでいた祈祷の札を、ビリリと無造作に剥いだ。
「何をする!?祟りがッ…!」
「もう遅い。偉大な神に対して、こんな無礼な札を貼り付けたままでは、詫びの言葉も届かぬわ」
鬼は素っ気なく言い、そして世にも美しい魔性の笑みで答えた。
「私は、天神の使いで来た鬼だ。毒には毒を、祟り神には鬼だとよ。文句があるなら天神に言え」
ざぁっと、目の前の光景がノイズが入ったように掻き消された。
だが、それが過ぎて僧侶が辺りを見渡してみると、しんと静まりかえった本堂には、ただ蝋燭の炎が揺れているだけで、そこにはもう鬼は居なかった。
「なっ…!お天王様が…!!」
祟り神が封じられた小さな社は、消え失せていた。
まるで、神隠しに遭ったかのように。
同時に、僧侶たちを苦しめた瘴気は跡形も無く、寺の本堂はいつも通りの清浄な空間に戻っていた。
何も無い、ただ白いだけの空間。
どのくらいの広さとも、時間が流れているのかさえもわからないような世界で、白い髪の鬼は社の扉を開けた。
ゴウ、と瘴気が噴き出す。だが『本体』はまだ、社の中に居る。
(余の瘴気にも、全く屈せぬか。何ものだ、小娘)
目に見えぬ偉大な者の声が、殷々と響いた。
「肩書きが多いが、お許し願いたい」
鬼は跪いて社の前に神剣を置き、こうべを垂れた。
「私は、天神から使わされた鬼。生前は波多々直系の赤子。死後は座敷童と生って波多々の家に憑いていた。しかし名を奪われたゆえ祟ってその家を滅ぼし、赤い座敷童という鬼になった。……今の名は、さくら」
(其方も《天神の子》か。随分と落ちぶれたものだ。そのくせ女神の名を名乗るとは。…だがその着物の桜柄は、姫神の気配がする)
「はい。私にさくらの名を与えたのは、宇賀田の最後の直系であるので、姫神様も咎めなかったのでありましょう」
(最後、とは?)
「その者は、最早人の身には戻れませぬ」
(其方に魅せられたか。狐の子も憐れなことよ)
嘲笑に、さくらは黙って堪えた。
(私の稔流)
(俺のさくら)
稔流がここにいたならば、自分は憐れではないと言い切るだろう。
交わし合った心も、決して離れずに寄り添う魂も、誰に理解されなくても、神に否定されようとも、さくらと稔流だけが知っていればいい。信じ合っていればいい。
(霹靂神の用向きは何だ)
「私が命じられましたのは、波多々の巫女を、美しく蘇らせろとの事」
(ふん…、己も知らぬうちに、勝手に障りを一身に引き受けている、身の程知らずな娘のことか?)
神が、哄笑した。
さくらが張った白い結界が揺らぐほどに。
(霹靂神はあの娘に執心か。美しく…とは。顔が疱瘡だらけなのか、疱瘡の中に顔があるのかもわからぬ、醜い有様になっておろうに。ならば尚更、余が障りを解く理由は無い)
祟り神は、天神を嘲うと同時に、使いで来た無力な鬼もついでに打ちのめしてやろうと思ったのかも知れない。
さくらは応えた。
「然様でありましょうな。私でさえ、あの娘がどうなろうと知ったことではない」
(ふむ…?ならば、何故ここに来た)
「天神は、鬼と化した私を救えぬと言ったのに、何故私があの娘を救わねばならぬ?角のあるもの同士で気が合うとでも思ったのか、お天王様なら私を気に入るやもしれぬと嗤った。私がお天王様の元へ行かないなら、私にさくらの名を与えた者を人質に取ると仰せだ」
さくらという美しい名を持つ鬼が、骨がゴキゴキと軋んで童女とは言えぬ大きさとなり、美しい白い面はメキメキと音を立てて形を変え、赤い血に染まり、鬼の形相となった。
「そうでなければ…私が波多々を再び皆殺しにしてやろうものを!!」
(ほう…見事なものだ。座敷童と生った時は愛らしい童女であったろうに、確かに今の其方は紛れもなく鬼だ)
「だから何だ?鬼となっても、さくらの名は消えぬ。私が此処へ来たのは、天神の為でもなければ波多々の巫女の為でもない。行けと言われたから来たまでよ。私は、私が唯一愛した者を守り切れればそれでよい。貴方様が去れというならば、すぐにでも去ろう」
大彦が言った。稔流を連れて逃げろと。
天王の名を持つ神に実際に出会ってみて、全身に突き刺さるような瘴気と神気を浴びて、思い知る。
この偉大な神に、敵うわけがないのだと。
「この剣だけ置いてゆく。|貴方様のものだ。牛頭天王――――雷神…天神・素戔嗚尊と同一視された神よ」
にい、と赤い鬼は裂けた唇の端を吊り上げた。
「天羽々斬剣……神殺しの神剣。もう一柱の天神・霹靂神を斬るも、斬る価値もないと捨て置くも、好きになされよ」