第86話 祟り神(一)
稔流は、暗がりでうっすらと目を開けた。
いつもは寝る前にスマホの通知を切るのに、今夜に限って珍しく忘れていたらしい。
(ああ…そうか。確か、さくらが布団に潜り込んで……)
そこまで思い出したところで、ハッキリと目が覚めた。
幼子のように無邪気にくっついて寝ていたはずの、さくらの姿もぬくもりも、そこには無く。
『稔流、おはようさん』
「…早いね。午前2時23分」
大彦の声が電話越しに聞こえた。
『その23分くらい前に、やたら「綺麗な人」がこっちに来たぜ』
稔流は、はっとした。
(何も…聞かないで。ちゃんと…帰ってくるから)
気付いてはいた。
さくらはきっと、稔流を連れてはいけない世界へと、何かと戦う為に行こうとしているのだと。
現実に、こうしてさくらが自分の隣から消えていて、大彦の元に現れた。しかも過去形で。
既に大彦の所にもいないことを確信すると、心臓の鼓動が重苦しい。
「どうして、大彦君のところに?」
『誰が来たは聞かねえんだな。じゃー当たりだな。その「綺麗な人」が、俺んとこの家宝を借りに来た。知ってる?天羽々斬。天叢雲ほどは有名じゃないけど』
「……知ってるよ。素戔嗚が八岐大蛇を斬った剣だね」
「当たり。でも、悪役で化け物扱いでも八岐大蛇も神様だから、普通の剣じゃ殺せないんだよ。それが必要ってことは、今もいるかは分からねえけど、行き先は平井寺だと思う」
「…………」
さくらが、八岐大蛇という、本来は偉大な神であった蛇神を殺したという剣を必要としたのならば、その剣で斬りに行ったのは、祟り神しかない。
『余計な事かもしれねーけど、一応知らせておこうかと思って』
「ううん…ありがとう」
『あと、美少女に言っといた。「稔流を連れて生きて逃げろ」って。全部をめでたし、めでたし、で終われるならそれが一番いいけどさ、そうならない時には優先順位を間違えるなよ。狭依が死んでも、俺が死んでも、村が滅びても、最悪家族が死んでも、稔流はあの美少女と生き延びろ。…って、お前にも言っとく』
「家族が死んでも…なんて、俺以外に言える人がいるとは思わなかったよ。しかも最悪の中に『村が滅びる』が入ってないし」
『あの美少女には、村が滅びるよりも稔流が死ぬのが最悪だろ。でも、あの子はそう言わないだろ。多分、めっちゃ怖いけどめっちゃ優しい子なんだろうし』
優しい、と。さくらが聞けば、また不機嫌になるのかもしれない。
でも、家族よりも自分を選んで欲しいとは言わない、言えないさくらは、きっと…
(子が敢えて親よりも先に死ぬのは、不孝であろう。百年近くの命を全うした善郎と、まだ幼いそなたが同じなどとは思わぬ事だ。さくらも言うておったろう。まだ死んではならない、と)
(俺は、親不孝でも構わない。誰を悲しませても苦しませてもいい。俺は子供だから。我が侭だから。たくさんの人を幸せに出来るなんて、思い上がっている訳じゃありません)
(……そなたは、残酷な男子だな。鬼の名は、あの娘よりもそなたに相応しいようだ)
――――俺よりも、ずっと、優しいから。
俺はもう、お母さんやお父さんが死んでも、きっと何も感じないくらい、人間ではなくなったから。
さくらの心の方が、俺よりも人間らしさを思い出してしまったから――――
「大彦君の言う通りなんだけどさ…色々と。美少女って連呼するのはどうして?」
『女神様の方がいい?』
「何でだろう……今、イラッとした」
『名前聞き忘れた。聞いても教えてくれなさそうだったけど』
「……さくら」
稔流は、その姿を思い浮かべて、もう一度言った。
「さくら、だよ」
『…マジか。禁忌の名前じゃん。まあ、あの子は座敷童とか鬼とか言うより、何か女神っぽいから別にいいのかもしんないけど』
「禁忌の名前…?」
『うちの村では、桜って姫神様の花で姫神様の御神木だから、人の名前には付けちゃいけないっていう掟があるんだよ』
「ああ…そういうことか」
幼い頃、どうしても名前を付けてあげたくて、一所懸命に考えた。
雪の中で咲く椿の花は嫌いだと言うから、暖かくなる春に咲く花の名前を。
思い返せば、桜は春の花では代表的な花なのに、さくらという名前を提案した時、美しい座敷童はどうしてか驚いた顔をしていた。
『…っていう理由は建前っていう奴で、本当は本家の当主か跡取り、あとはその嫁くらいしか知らない別の理由があるっての、稔流は聞いてないのか?』
「聞いていないよ。おじいちゃんもひいおばあちゃんも、何となく気付いてるから。俺は跡取りにならないって。…なのに、そんな事俺に言っていいの?」
『……。人間ならな。でも、稔流はそうじゃないものになりかけてるし、婚約者はハッキリ人間じゃないし、何なら女神様みたいだから構わねえよ。言わない方がよかったか?』
稔流は苦笑した。
「そこまで聞いてしまったら、最後まで聞かないと返って気になって落ち着かないよ。…その、建前じゃない理由って何?」
大彦らしく、さらりと言った。
「宇迦の姫神様の諱だから」
諱とは、限られた者しか知らない本名のことだ。
その昔、公家や武士は本名とは別に通り名で名乗った。
古くは、本名を知られると容易に呪われるという理由もあった。
宇迦の姫神の『宇迦』もそうだが、ウカ、ウケ、ケ、等が付く神の名は多い。
穀物や食を意味し、それを司る神という意味で、宇迦の姫神も穀霊の女神という、一般名詞に近い通り名だ。
多くの神の名は、神の本名を隠すためにあるのだから。
(さくら…と呼ぶか。私ではなく…あの憐れな童女のことか?)
姫神がそう言った意味が、やっと解った。
「俺のさくらなら、名前を連呼しても祟らないよ」
『うっわ、俺のさくらとか、聞いてる方が恥ずかしいわ。ベタ惚れじゃん。まあ、ゾッとするくらいの美少女ってそういないよな』
「惚れないでね。死ぬよ」
『怖えよ!!…あと、横道だけどこれもこの村の掟だから言っておく。こっちは波多々絡みだしな。「つばき」っていう名前も禁忌なんだよ』
「……!」
稔流は、驚いた。
ここで《桜》と《椿》というふたつの花の名前が揃うなんて。
『つばきの方は、ズバリ「呪われる名前」だって。昔、波多々の家の女が、…気ィ悪くするなよ、鬼に呪られて死んだっていう言い伝えがある。それよりも詳しい話は俺も聞いてない。じゃ、俺が知ってることは話したからもう寝るわ』
「うん、ありがとう。…おやすみ」
プツリと通話が切れた。
(女神の名前…)
姫神は、さくらを高みから憐れんだが、身の程知らずだとは言わなかった。
さくら曰く神は気紛れだと、その程度なのかもしれない。
しかし、神の気紛でも偶然でも、稔流が奇しくも《さくら》の名を与え、『なし』が稔流の心を受け容れて、女神の諱と同じ名を名乗ることになった結果には、きっと何かの意味がある。
そして――――
(椿は嫌いだ)
「稔流ちゃん、眠れないのかい?」
襖の向こうから曾祖母の声が聞こえた。
「あ…起こしちゃってごめんね。友達から急用で電話がかかってきたんだ。でももう寝るよ」
「そう思っても眠れないこともあるもんだ。居間においで、稔流ちゃん」
意外だった。
この家に住まわせて貰うことになってから、曾祖母の生活はとても規則正しくて、夜は8時前に寝てしまうし、朝は5時前から起きている。例外は年越しの時くらいしかなかったのに。
稔流は、パジャマの上から厚手のパーカーを羽織って居間に向かった。10月の山村の夜は冷える。この村では秋の彼岸には炬燵が登場するくらいだ。
稔流が掘り炬燵に足を入れると、曾祖母が番茶と和菓子を用意してくれた。
「ひいおばあちゃん、その花…」
炬燵の上には、水が入った硝子の小鉢が置いてあり、一輪の椿の花が浮かんでいた。
…気付いていた。
夜寝る前に、さくらの髪に触れた時、いつの間にか椿の花が失われていることに。