第82話 座敷童の過去(三)
ある日、新たな狐の子が現れた。
《外》に出て行き、都会で医者になった宇賀田豊が、妻と共に初めての子供を連れて帰省してきたのだった。
「ん…?お前、私のことが見えているのか?」
その赤ん坊は、『なし』と目が合うと、ころんと寝返りを打って、もこもこしたお尻を振りながら、ずり這いでやってきた。
赤い着物の膝に乗り上げて、『なし』の白い髪を、珍しそうに小さな小さな手で触った。
「みのる…。稔流、というのだな、良い名前だ」
男の赤ん坊を殊更に可愛いと思ったのは、思い出せなくても弟の面影を重ねていたからなのだろうか。
亡き弟のように、誰からもその誕生を喜ばれ、両親に愛情を注がれて育った子なのだろう。
息子夫婦が孫を連れて帰って来て、喜一と登与もきっと喜んだ事だろう。
「私も、嬉しいよ。稔流の目には私が見えて、稔流の手は私に触れることが出来るのだな。…とても、嬉しい」
嬉しくて、愛おしかった。だから、迷わずに座敷童の加護を授けた。
この子が、すぐに《外》の世界に帰って行く事が分かっていても。
「稔流は、幸せになる為に生まれて来たのだから。愛される為に生まれて来たのだから」
きっと、私とは違って……、そう思いながら、言葉には出さなかった。
「健やかに育ち、稔りますように。遠く遠く、離れていても。大切な、私の稔流――――」
「ゆきの、いとみたい」
――雪の糸。
吃驚した。稔流の目には、自分の白い髪がそんな美しいものに見えるのかと。
「でも、なしなんて、かなしいよ」
そして、奇妙な事を言うものだと思った。
『なし』自身も周囲の座敷童も、名前がないからと悲しくなる者などいないのに。悲しそうな顔をしているのは、稔流の方ではないか?
「……はるは、すき?」
「暖かければ嫌いではないな」
早春なんて、ふざけた言葉だ。
あんなに寒くてたくさん雪が降って、それでも咲くから椿は春の花だと言い張る人間の心など、解りたいとも思わなかった。
「じゃあ、はるのおはななら、いい?」
幼い稔流は、本当に、この世界で一番綺麗なものを見るような目で『なし』を見て言った。
「さくらのはなは、きらい?」
「桜の花…?」
また、驚かされた。それは、姫神の花ではないか。
だから、その名は姫神の諱だというのに。
この国で一番美しい花の名前を、たかが座敷童の名にしようというのか。
「なまえ、さくら、でいい?」
「…いいよ」
自然に、微笑みが零れた。
宇迦の姫神は、この純粋な子供の心の思い付きも、それに応えた座敷童のことも、咎める事はしないだろうから。
(さくら)
その名が、一気にさくらの世界を鮮やかにした。
これまで自分が目にしてきた風景は、一体何だったのだろう?
稔流が何か言葉を紡ぐ度に、笑顔一つ咲かせる度に、次々に新しい光が生まれるような気がした。
「さくら。俺が大人になったら、結婚して。俺が知っているような結婚にはならなくても」
忘れさせても、稔流は思い出した。
そして、決してさくらを諦めてはくれなかった。
「喜んで」
本心でそう応えた。幸せだと思ったから。
人は人と結ばれる。座敷童は誰とも結ばれない――――そう知っていても。
稔流は、いとも簡単に、鬼となったさくらを許した。
「人間を殺したから、何なの?死んだのがあの先生でよかったよ。俺が死ぬよりずっといい。俺が死んだら、さくらが泣くから」
稔流は、変わらないものと変えてよいもの、譲らないものと捨てても構わないものを、明確に分けるようになっていた。
さくらの為に、共に在る幸福の為に、稔流は人間であることさえ捨てようとしていた。
鬼となり、童女の姿に戻ってしまったさくらに、告げた。
「好きだよ、さくら」
この心だけは、稔流は決して譲らない。
失う事を恐れていたのは、ふたりとも同じだった。
でも、逃げていたのはさくらだけだったのだと、稔流は逃げずに何度でも手を差し伸べてくれるのだと、涙が溢れるほど思い知った。
だから――――
「お帰り、さくら」
「ただいま、稔流」
天神が、さくらを過去の記憶の世界に送ってから、何日か経っていた。
ほんの数日のことなのに、とても久しぶりのことのようで、さくらは稔流の胸に飛び込んだ。
「え…、さくら?」
稔流の戸惑った声が、受け止めてくれた腕の中のあたたかさが、ここは確かに現実の世界なのだと教えてくれる。
「…稔流に、会いたかった」
「うん…。俺も、さくらに会いたかったよ」
狭依の命が、もうすぐ尽きる。お天王様の祟りが、村中に解き放たれる。
そうなる前に、さくらはもう一度、稔流の傍を離れなければならない。
天神の命令に従い狭依を救ってから、稔流の元へ帰り着かなければ――――帰りたい。
そう…例えば、稔流が2年の時を駆けて辿り付いた、秋分の日の翌日のように、もう一度出会いたい。
お互いに「おかえり」「ただいま」と言葉を交わして。
喜んで飛び付いてきたむすびが『いつも通り』に稔流の首にしゅるんと巻き付いて。
「むすびも、俺達を待っていてくれたの?…ただいま、むすび」
手を繋いで、同じ家に帰る。
その家で待っている喜代には、稔流ひとりの姿しか見えなくても。
「ただいま、ひいおばあちゃん」
「おかえり。お嫁さんは、ちゃんと戻って来てくれたかい?」
「…………」
自室に着いて、稔流は首を傾げた。
「ひいおばあちゃんって、何にどこまで気付いてるんだろう?」
「さて…どうであろうな。…ふふっ」
さくらが笑う。嬉しそうに。
「どうしたの?」
「ひい婆様は、稔流の花嫁になる娘がいることも、稔流が連れ戻してきたことも知っているのだろう?…それで、合ってる」
「うん…そうだね」
稔流は、手を伸ばしさくらの雪の糸に指を通した。淡く光を宿したような髪。
鬼になった、それが何だというのだろう?
出会った時からずっと、さくらこそが稔流の光だった。
「誰にも祝福されないなんてこと、なかったんだね」
曾祖母なら、全てを知っても稔流とさくらの幸福を喜んでくれるから。