第81話 座敷童の過去(二)
母屋から飛び出して、古い蔵の隅にうずくまった。
たくさんの物が詰め込まれていたけれども、母屋の者たちも既にそこに何が収められているのか忘れられている蔵だった。
『つばき』は、長い間、そこに居た。
自分でも、どのくらいの間、飲まず食わずで身を縮めていたのか、覚えていなかった。
人間の食べ物をつまみ食いをするのは、以前は好きだった気がする。
でも、人間ではないのだから、存在していても生きてはいないのだから、何を食べなくても飲まなくても、死ぬことはない。
(…太郎)
ふと、思い出した。
自分が加護を授けた、可愛い弟。
太郎は、元気にしているだろうか?――――『ねえさま』がいなくなっても。
『つばき』は、ふらふらと、蔵から出た。
以前住んでいた家に向かい、かつてそうだったように勝手に上がり込んだ。
家の中は何やら忙しそうで、祝いの席を用意しているようだった。
「まあ…本当によく似合うこと」
嬉しそうな、母の声だった。
「支度は出来たか?」
父はそう呼びかけて、茫然として佇む『つばき』の横を通り過ぎた。
「旦那様。私が十三の時に仕立てた晴れ着ですけど、つばきの方が綺麗でしょう?」
「それは…、困った事を言うものだな」
父は笑った。
父の目には、数え十三の歳を迎えた娘も、仲睦まじく連れ添ってきた妻も、どちらもそれぞれに美しく愛おしく映ったのだろう。
そして、ぱたぱたと複数の足音がして、幼い男の子と女の子のふたりが部屋に駆け込んできた。
「わあ~!ねえさま、とってもきれい!」
その男の子と女の子は、太郎に似ていたけれども、両親に似ていたけれども、太郎ではなかった。
当たり前だ。何故なら――――
「あら、兄様も見に来てくださったの?」
笑って振り向いた娘の顔は、
――――狭依――――
決して妹とは思えなかった、『つばき』に成り代わった赤ん坊。
偽物のつばきが、可愛らしく美しく成長したその姿は、狭依に瓜二つだった。
『つばき』は、崩れるように座り込んだ。
自分も、生きていられたら。人間として生き、成長する事が出来ていたなら。
母から譲り受けた晴れ着を着て祝われたのは、自分であるはずだったのに。
でも、それは出来ない。
自分は、もう人間ではない。童女の姿のまま、成長する事は出来ない。
「うあ…、あ、…あああああああ!!」
『つばき』は、慟哭した。
ほんの少しだけ、欠片のように残っていた希望が、粉々に砕け散る。
(…姉様)
背後に、誰かの声を聞いたような気がした。
でも、『つばき』は壊れてしまった。
「…うあああああ!!ああああああああ!!」
かつて『神に近すぎた』為に、人間として生きる事が出来なかった、その魂に秘められていた、人ならざるものの力が爆発した。
あっという間に、青く晴れた村の空は祟られ、立ち込めた暗雲に幾筋にも分かれた竜のような光が走り轟き、波多々の家に墜落した。
轟音に、人々の悲鳴は掻き消された。
木造の家と茅葺き屋根が火を噴いて崩れ落ちる。
「姉様!姉様でしょう?」
『つばき』は、誰かに呼ばれたような気がして、ぼんやりとそちらを見た。
誰かが、こちらに手を差し伸べていた。
もう成人したと思われる、《父に似た誰か》が、『つばき』に向かって叫んだ。
「姉様、危ない!!」
「……。太、郎…?」
のろのろと、『つばき』も、手を伸ばした。
でも、ふたりの手が、届く事はなかった。
柱と屋根が崩れ落ち、ふたりの身を焼いた。
「太郎…っ!」
『つばき』だけなら、脱出できたはずだった。
落雷を起こしたのは、『つばき』なのだから。
自分の雷と炎で、自分の命を落とす事などしない。
「太郎…、太郎……!うあ…っ、うああああああ!!」
目の前で、弟が、死んだ。
『つばき』が、殺した。
『つばき』は、死ねない。人間ではないのだから。
でも、妖怪は消えることは出来る。
燃え盛る炎の中で、『つばき』は、消滅を選んだ。
たったひとりだけ、成長しない姉を覚えていてくれた、忘れないでいてくれた、再び見出してくれた弟を、殺してしまった。
(太郎…)
全てが、炎に包まれた。
消えた、はずだった。
確かに、消えた。
なのに、また座敷童は、生った。
雪の上に、倒れていた。
うっすらと目を開けた時、視界に入ったのは、灰青色の空から降ってくる白い雪と、傍らに咲いていた赤い椿の花だった。
大いなる存在が、いつかのように、大きな掌の上に、数え五つほどの姿の座敷童を拾い上げた。
(また…生ったか)
(死ぬにも、消えるにも、神に近すぎたか)
(憐れな《《我が子》》よ、己の名を覚えているか?)
座敷童は、首を振った。
記憶は、真っ白だった。黒髪から真っ白に変わってしまった髪色のように。
「…だれ…?」
(天神と、霹靂神と、人は呼ぶ)
(名を覚えていないならば、『椿』と名乗るがよい)
「…いらない」
座敷童は、ぼんやりと言った。
「つばきは…きらいだ」
座敷童は、何度も、繰り返した。
「つばきは、きらい…だいきらい…だいきらい…だいきらい…………」
(では、何が良い?)
「…いらない。なまえは…きらいだ」
そうして、座敷童は『名無し』になった。
名無しは、天神から女神へと預けられた。
宇迦の姫神という女神が、名無しを育てた。
体が動けるようになるまで。
ほかの座敷童と一緒に遊べるようになるまで。
居場所となる家を見付けるまで。
笑えるようになるまで。
とても――とても長い間、姫神は成長しない座敷童を育て、名無しの座敷童はそこから巣立つ時に、『なし』と名乗る事にした。
それからまた、長い時が過ぎた。