第80話 座敷童の過去(一)
昔、まだ武士未満の人々が名字を持っていなかった頃。
天道村のある家で、小さな赤ん坊が産声を上げた。
その家は、霹靂神を祀る事から、「波多々」という屋号を持っていた。
母親は、宇迦の姫神を祀る事から「宇賀田」という屋号の家から嫁いできた、もうすぐ数え十六になる、幼いほどに若い娘だった。
その娘は、雪がたくさん降り積もった真っ白な朝に生まれたので、名を『ましろ』といった。
月のものを見てすぐに嫁ぎ、すぐに身篭もった。誰からも喜ばれ、望まれた子になるはずだった。
だが、難産の末に生まれて来た女の子は、とても小さく弱かった。
(つばき。どうか、生きて…つばき)
切ない声であっても、母親から何度も名を呼んでもらえて、赤ん坊は幸せだった。
自分を抱いてくれる母親の腕も胸も、とてもあたたかかったから。
お腹の中にいた時と、同じ鼓動が聞こえたから。
だから、小さな赤ん坊は、幸せなまま、静かに散った。
母親は、泣いて泣いて、喉から血を吐くほど泣いた。
(私のせい)
(私が悪いのです)
(私の体が、幼いから)
(上手に産んであげられなかったから)
(私が『つばき』という名を付けたから)
(きれいな花が、縁起の悪い名前だなんて知らなくて)
若い夫は、初めての子を失った悲しみと共に、妻を抱き締めて慰めた。
(ましろのせいではない)
(あの子は、短い間でも、俺達を幸せにしてくれた子だ)
(きっと、あの子の魂は、天神様が良い所へ連れて行って下さるに違いない)
(椿は、貴い花だ。美しい花だ)
(首から落ちるから縁起が悪いなど、それは武士が勝手に言うだけだ)
『つばき』という赤ん坊は、この世に魂が留まっている間にも、何度もその名を聞き、覚えた。
『つばき』は自分なのだと。
(憐れな子よ)
ある日、『つばき』は、自分の母でも父でもない声に導かれ、大きな、とても大きな手の上に拾い上げられた。
(お前は、人の子として生きてゆくには、神に近すぎたのだ)
(常世へ去り、魂を休めるがよい。そこで育つがよい)
『つばき』の魂は、常世へと去った。
しかし、どうしてか、またこの世に戻って来た。
もう一度、同じ母の体に宿る事は出来なかった。
その時、母親は次の子を身篭もっていたから。
その代わりに『つばき』という名の座敷童に生った。
村には、つばきのような子供がたくさんいた。
人間の姿をしているのに、存在しているのに、生きている訳ではなく、かといって死んでもいない、妖怪と呼ばれる子供達。
子供なのに、子供だけで夜まで遊んでいても、心配して捜しに来てくれる親がいない子供達。
そのような子供の妖怪を、座敷童と言うのだと、つばきは教えてもらった。
つばきのように名がある者もいたし、無いものもいた。
ただ、どの子供もお気に入りの家があって、そこに棲み着いていた。
名を呼んでくれる親が無くても、自分が帰りたい時にその家に帰った。
つばきも、お気に入りの家を見付けた。
その家には、家の跡取り息子と、その年若い妻がいた。
つばきは、『自分が人の子であった時』の微かな記憶を呼び覚ました。
つばきは、座敷童であっても産みの母がいたのだと。
(…母様)
人間には聞こえない声が、つばきの唇から零れ落ちた。
(母様…!私の、母様だ!)
母には、次の子が生まれていた。
元気な男の子で、名を太郎と言った。
(たろう…太郎)
(私の、おとうと…弟だ!)
幼い太郎には、つばきの姿が見えていて、声も聞こえていた。
だから、つばきも太郎を可愛がり、一緒に遊んだ。
ただ、両親には自分の姿は見えていないし、声も足音も聞こえていない、それが当たり前の事なのに、少し寂しいと思った。
少し寂しいけれども、座敷童である自分なら、この家も両親も守ることが出来る。特に、つばきの存在をわかってくれている弟に加護を授けた。
(太郎、お前の名前はね、元気に立派に育つ男子という意味なんだよ)
(そのように、父様が願ってつけたんだよ)
(だから…太郎、これからも元気に生きて、元気で立派な跡継ぎになれますように)
気付いて貰えなくても、両親と弟と共に暮らす日々、そして幸せ。
つばきはそのままであることを望んでいたのに、人間には座敷童とは違う時間が流れる。
母が三人目の子を身篭もり、そして無事に出産したのだった。
元気な女の子だった。
母は喜び、涙を流した。
(…ああ、戻って来てくれたのね)
(もういちど、この母のところに生まれて来てくれたのね)
(旦那様、この子を『つばき』と名付けましょう)
つばきは、立ち尽くした。
母は、ひと月も生きなかった娘を忘れてはいなかった。覚えていた。
ひとり目の子は『つばき』、ふたりめの子は『太郎』だと。
跡継ぎになれない女が軽んじられた時代であっても、最初の子はつばきという名の女の子だと、覚えていたのに。
だからこそ、勘違いをした。
勘違いをしたかったのだ。失った愛しい娘が、戻って来たのだと。
あまりにも早く逝った『つばき』が生まれ変わって、もう一度産声を上げてくれたのだと。
……どうして?
『つばき』は私の名前なのに。
私は、ここにいるのに。
母様に見えなくても、太郎と一緒にずっとこの家にいたのに。
どうして……どうして。
どうして、私から私の名前を取り上げてしまうの?
母様、『つばき』はここにいるよ。
きづいて、きづいて、きづいて、母様。
どうして、どうして、どうして……!
イヤだ、イヤだ。こんなの、イヤだ。
その赤ん坊は、私じゃないのに。『ほんとうのつばき』じゃないのに。
どうして、母様、母様、母様――――――!
『つばき』は、母が喜び、三人目の赤ん坊を抱く姿を、見ていられなかった。
その赤ん坊が、自分の『妹』だとも思えなかった。
ただ、全てを奪われた、『つばき』にはそれしかわからなかった。