第78話 天神の子(一)
「あの娘を治せと?」
誰もいない、誰もいないようにした空間で、さくらは綺麗な顔をしかめて神社の拝殿の前に立っていた。
「狭依は《天神様の子》だろう。天神様が治せば良い」
天神に呼び出されて来てみれば、「波多々の巫女を美しく蘇らせろ」と言う。
美しく、とわざわざ言うのならば、狭依は水疱瘡が治癒しても多くの痘痕が残り、村一番の器量好しの評判を失うという事なのだろう。
(我には出来ぬ。天王の障りなれば。我が《我が娘》癒せば祟った天王は憤り、更に祟るだろう。波多々の家が滅びかねぬ)
さくらは不機嫌に肩をすくめた。
「…は!猫でも七代祟るというのに、『てんのう』と呼ばれるほどの神を追い出したのだから、滅びても不思議はない。何事もなかった事にせよというのは、虫が良すぎる」
人間の言う『お天王様』とは牛頭天王と言い、文字通りに牛頭を頭部に戴く神だ。
廃仏毀釈によって日本全国で迫害され、その神像は壊されたり川に流されるなどして多くが失われ、その波は秘境の村である天道村にまで及んだ。
神主の波多々家は、天王の神像を壊すことも流す事も出来ないと悩んだが、霹靂神という祖神である雷神を選び、仏教の要素が強かった天王の祭祀をやめた。
平井寺はその名の通り多比良、即ち平家と安徳天皇を弔う為に建立され、阿弥陀如来を本尊としてきた寺だ。
牛頭天王という、インドにも大陸にもルーツが見えない出自不明の神を引き受ける事には難色を示したが、しかし仏教の神は仏よりも荒々しい存在であり、村の為には放っておくことも出来ない。
祀りはしないが波多々の神主に手を貸して、共に神像を封印して『王』の称号を持つ鳥海の家に預けた。
そして年月を経て、その封印の力が弱まり綻びが出始めて、忘れ去られようとしていた神の祟りが漏れ出した。
(今、波多々の巫女が、ひとりで障りを引き受けている)
「それはそれは…。狭依のお陰で波多々の一族は命拾いか。天神様の思し召し通りでは?」
先祖の過ちが後世の一族に及ぶ所を、狭依が形代となって防いでいるのは、狭依の巫女としての能力が高いからだ。
狭依は、重い病に罹る事で無意識に波多々の一族を守っている。
だが、天神がここまで言うなら、このままでは狭依は美しさどころか命を失うという事なのだろう。
狭依の命が祟りへの代償となるなら――――狭依ひとりの生贄で済むのならば、祟りは収まる。
だが、単に狭依が堪えきれずに命を落とすのならば、今まで狭依がその身を以て『封印』を継承していた力が消失し、祟りは波多々本家を中心に、一族全体に降りかかるだろう。
「因果応報では?神と仏が住まうこの国の理だ。そんな事は私よりも天神様がよく御存知であろうに、何故私が出ねばならぬ?」
狭依に罪はない。罪があるとすれば、天王の祭祀をやめた波多々当主の血を引いているということだけだ。
だが、血を引いていることが手がかりとなり、遠い過去の因果が子に報う。
呪われた家系というものは確かに存在し、そして断絶する。何らかの形で祟りや呪いを昇華させない限りは。
「私は宇賀田の家の座敷童だ。あの家に住まう喜代と稔流は守るが、宇賀田でさえそれ以外は生きるも死ぬもどうでもよい。あやめは居なくなったが、まだ三太がいる。三太こそ、どんな事をしてでも狭依を救いたい座敷童だろう」
さくらは、元々波多々の家そのものを、よく思ってはいなかった。
理屈ではない。いつも背を向けたい気持ちにさせる、それが波多々の一族だった。
波多々の屋敷に居着いたあやめや三太には、同じ座敷童として友情めいた感情を持っていたが、波多々の『人間』は嫌いだった。その中でも、狭依は特に大嫌いだった。
でも、姫神の計らいで宇賀田の本家に居着くことになったからか、その家は居心地が良かったし、その家に生まれ育ったものや嫁いできた者たちは、好きだった。
(お前は、まだ気付いていないのか?)
「何を?」
(さくら、お前は座敷童だ。だが座敷童の力はとうの昔に失っている。お前は、座敷童である以上に、赤い座敷童……鬼なのだ)
「………!」
どくん、とさくらの心臓が、鳴ったような気がした。
そんなものは、亡骸も残せない妖怪にはある訳もないのに。
(お前ほど霊力が強い座敷童が棲んでいながら、どうして宇賀田の本家は滅びる?)
「知らぬ!座敷童の助力など、現世に命を持つ人間にとっては些細なものでしかない!この村の座敷童の殆どが消えてしまった今でも、人間は勝手に生き続けて、勝手に栄えているではないか!」
座敷童が居着いた家にもたらすものは、簡単に言えば『運』というものだ。
運は、生死を分けるほどの意味を持つ事もある。
しかし、家系というものは運のみで栄える事も滅びる事もしない、その程度のものだ。
人間の営みは、人間が自ら次の代へ次の代へと引き継いで来た。それは遙かな昔からそうで、今も変わらないのだ。
(お前は《特別な子》だ。だが――――)
(何故、お前の家に住んでいた頃、喜一と登与には豊ひとりしか子が生まれなかった?あの夫婦は若いうちに結ばれ仲睦まじかった。双方ともに子を授かる力を持っていたというのに)
(豊のほかに何人か子がいれば、お前が気まぐれに狐の子を攫おうとも、本家自体が滅ぶ事は無かっただろう)
(豊に兄弟がいなくても、お前が狐の子をの心を攫わなければ、本家はまだ続いただろう――――続くだろうに)
「私は知らぬ!宇迦の姫神様を祀ってもなお、姫神様の御加護が及ばないならば、私ひとりではどうしようもない!」
さくらは叫び、両耳を塞いだ。
そんな事をしても、無意味だとわかっているのに。
神の言葉は、魂に響き、決して逃れることは出来ない。