第76話 疫神(二)
それは、美しい――――とても美しい少女だった。
狭依よりも少し小柄だろうか。
でも、どうしてか、その美しい顔を見ることが出来ない。
(どうして――――誰なの…?)
わかるのに。
稔流が穏やかに微笑みかける、鏡合わせに舞っている少女は、咲き誇る花のように美しい姿をしていると、確信出来るのに。
(…白い髪……)
その少女は、『黒髪を装って』いるけれども、本当は雪のように真っ白な髪の毛をしている。
そして、《ひとり増えているのに誰なのか誰にもわからない》存在……それは、
――――座敷童。
白い髪の、白い座敷童なのだろうか?でも――――
狭依は、ゾクリとした。
その少女の頭には、二本の角が生えている。恐ろしい般若面のように。
そして、その少女が一瞬、チラリと天井を見上げた。
(…………!)
美しいはずのその顔は、赤い色の恐ろしい形相の鬼そのものだった。
狭依の脳裏に、夏休みの怪談で聞いた『赤い座敷童』の名がよぎった。
(稔流君)
(ダメよ)
(その座敷童は、座敷童じゃない)
(はなれて…はなれて。鬼に取り憑かれてしまう)
(これ以上、近付いてはだめ。魂を重ねてはいけない)
(稔流君……いかないで、行かないで……逝ってはダメよ)
(どうか、お願い――――!)
「……っ」
はあ、はあ、と荒い息。自分の呼吸の音だと気付くのに、少し時間がかかった。
「…悪い夢を見たの?」
狭依の母の美しい顔が、痛ましげに見下ろしていた。
きっと、自分はうなされていたのだろうと、狭依は思った。
「…わたし…、何か、言ってた……?」
母は、少し躊躇いを見せた。
「…いかないで、って…」
「…………」
「大丈夫よ。お母さんもお父さんも、狭依を置いて行ったりなんかしないわ」
母はきっと、去ってゆく誰かに向って、狭依が必死に叫んでいるような夢を見たと思ったのだろう。
「ちが…う、の…」
そう呟いて、でも狭依は気付いた。
――――違わない。
稔流は、あの鬼に微笑みを向けていた。
愛おしそうな、狭依の胸がギュッと締めつけられるような、そんな眼差しだった。
稔流は、あの鬼に魅せられて、取り憑かれている。
鬼は、狭依を憎んでいた。そうなのだとハッキリと伝わってきた。
殺意のような憎悪だった。
(なぜ…?)
狭依がいくら叫んでも、稔流が狭依を選ぶことはない。
狭依はもう、思い知っているのに。
何故、稔流に愛されているはずの鬼が、狭依を殊更に憎むのだろう?
(俺は、狭依さんの優しさなら受け取れる。でも、優しさとは違う特別な心は、受け取れない)
淡々と、でも明確な線引きだった。
でも、言わないで欲しかったと、お見舞いに行った日、狭依は病室から出て涙を堪えながら思った。
あの時は、狭依はまだ、自分の中にある仄かな想いが何であるのか、気付いていなかったから。
でも、拒まれて初めて、自分の中で硝子細工のような何かが砕け散った、その瞬間に知ってしまった。
あの時、稔流が無難にお見舞いのお菓子を受け取ってくれていたら、狭依は自分の心に『恋』という名を、付けないままでいられたのだろうか。
(綺麗な人ってハッキリ言うくらい、稔流には綺麗だって思ってる彼女がいるんだよ)
(大抵の女は諦めるだろ。そんくらい察しろよ)
大彦は勘がいい。『綺麗な人』と応えた、そのひと言だけで、稔流には稔流の恋心があって、相思相愛の恋人がいるのだと気付いていた。
でも、そんな大彦も気付くことは出来なかった。
――――人間と妖怪が、人間と鬼が、恋をしているなんて誰が思うだろう?
狭依は時々、稔流が稔流ではないような、なくなってゆくような、そんな気がする事があった。
でも、神に近いような気配さえ感じるのに、それはやはり稔流なのだ。
――――稔流は、少しずつ《人間ではない何か》に変質している。
少しずつ、人間ではなくなろうとしている――――
狭依の目尻から、涙が伝い落ちた。
…ああ。私は…どうすればいいの?
教えて下さい、神様……
「おはよう、たっくん」
「お、おう…」
一週間で拓は出席停止から復帰してきた。
「よかったね…軽い症状で済んだみたいで」
「か、軽くったって、一週間は家から出られないんだよ!」
そんなことは知っている。
狭依が軽傷とは言えない状態で、まだ登校出来ないままであることも。
「微熱程度なのに女装から逃げられて、ナイス俺とか布団の中で喜んでたよね…?」
「な、ななな何で、そんな事まで知ってるんだよおおおお!やっぱ魔王じゃんーーー!」
稔流は鎌をかけただけなのだが、拓は簡単に白状してくれたムカつく。
「で、でもさ、魔王はすげぇ美人に化けたんだろ?見に行った奴が変な趣味に目覚めそうとか言」
「変な趣味って何…?」
稔流が、金色の目を細めた。
「お、俺の事じゃな」
「ちゃんと、教えてくれないかな…?」
「すみませんでしたああああ!!」
拓、土下座。
「…それ、やめてくれない?」
学校の玄関で土下座は目立ちすぎる。
稔流は、拓を放っておいて教室に向かった。バス停に来なかったのだから当たり前なのに、隣の教室に狭依の姿が無いのが、気に掛かった。