第59話 あの子の思い出(一)
「待て、狭依」
聞き慣れていた声よりも、少し声変わりした響きの声に、呼び止められた。
「大彦君……?」
「お前が行くと、返ってややこしくなるだろ」
「でも……」
稔流が操に呼び出されたという話を聞いて、狭依は居ても立っても居られなくて、空き教室とはどの空き教室なのだろうかと、探していたのだった。
「ここは大彦様に任せとけっての。稔流はちゃんと救出してくっから」
「うん……」
宇賀田操はパワフルな子だ。愛情深いけれども、思い込みも激しい。
怒髪天を衝く勢いで稔流を呼び出したのなら、操の従妹で実の姉妹のように育った悠子絡みだろう。
噂によると、何人かの女子が稔流にチョコレートをあげたが、全部封も開けずに下駄箱に返されていたらしい。
そして、操はどうしてか、男女問わず大抵の同い年の子と仲良く出来る狭依を、唯一嫌いだと公言している。確かに、狭依が操を止めようとしても、大彦が言う通り火に油を注ぐだけだろう。
(あれ……?)
狭依は、不思議な思いに立ち尽くした。
どうして、稔流君は封を開いていないのに誰からなのかわかったんだろう――――
稔流も大彦のように、不思議なくらいに勘がいいタイプなのだろうか。
ふたりとも、狭依が打ち明けた訳でもないのに、狭依が稔流を好きだということに気付いていた。
「操、やめとけよ」
大彦の声がした。盗み聞きをするつもりではなかったのに。動けなかった。
「綺麗な人ってハッキリ言うくらい、稔流には綺麗だって思ってる彼女がいるんだよ。他の女が泣いても、お前が責めても、稔流の好きな女は変わらない。普通、綺麗な女が好みだって聞いたら、大抵の女は諦めるだろ。稔流は始めから予防線張ってたんだって気付けよ」
「はあ?狭依は自分は綺麗だと思っていい気になって、友チョコの振りして渡してたじゃないの!」
どくん、と心臓が脈打ったような気がした。
――――気が付いていなかった。
稔流の返答が、言葉通りの「好きなタイプ」ではなく、「恋人は綺麗な人」と仄めかしていた事に。
――――気付かれていた。
操も、きっと悠子も、狭依の気持ちを知っていて、友チョコという建前で手作りのお菓子を稔流にあげたことを、狡いと思っている。
稔流から、暗に縁談の噂がイヤだから「転入生だからと特別扱いするのを止めて欲しい」と言われて、『普通の友達』でいようと思った。
でも、『普通に接する』という事が、どういう事なのかわからなくなってしまった狭依は、寧ろ稔流から遠ざかっていたくらいなのに。
(どうして、みんな、私の気持ちを知っているの――――)
狭依は、泣きたい気持ちになった。
ひっそりと、片想いをするくらいなら許されると思っていたのに。
自分が知らない所で噂になっているのだろうか?それで、稔流から嫌われてしまったのだろうか?
お見舞いのお菓子も断られたのに、どうしてこんな事になってしまったのだろう?
「狭依さんは村一番の器量好しって言われていても、いい気になるような人じゃないよ」
稔流の声だった。
……本当に、そうなのだろうか?
狭依は、褒められることに慣れていた。自分が『可愛い子』『綺麗な子』『お人形さんみたい』と言われるのは当たり前だった。
子供なのに『村一番の器量好し』と言われても、そうかもしれないと思ったし、だからと言って特に嬉しいとも思わなかった。こういうのは『よくあること』だから。
本当に、『いい気になるような人じゃない』のだろうか――――?
自分でも気付いていなかった傲慢さを、暴かれたような気がした。
自分の心の醜さを、突き付けられたような気がした。
(狭依さんって、優しいよね)
どうして、そんな美しい誤解をされてしまったのだろう?
もう、何も聞きたくなかった。
これ以上は、何も言われなくても、もう思い知っているから。
もう、何も――――
「彼女って言うか、婚約してる」
「ええぇ!?マジか!!」
「マジで」
子供同士の結婚の約束なんて、おままごとのようなもので、果たされることなんかないのに。
遠距離恋愛なんて、すぐに壊れてしまうのに。
とっさにそう思い付いて、希望を繋ごうとした自分が、嫌いだと初めて思った。
そして、稔流なら約束を貫いて、狭依が見た事もない綺麗な恋人を、守り切るような気がした。
(大人になったら、私と結婚してくれる?)
どうして。
私は、返事さえ、貰えなかったのに。
稔流は狭依とは初対面だと思ったようだったが、本当は違う。
初めて出会ったのは、狭依が4歳、稔流が3歳の夏だ。
「名前ははね、みのる、っていうの。よろしくね、狭依ちゃん、雄太君」
そう言ったのは、稔流の母だっただろうか。
「うん!仲良くしようね、みのるくん」
「…………」
稔流という男の子は、何も答えなかった。
人見知りでごめんなさいね、と母親らしき人に謝られたけれども『ひとみしり』の意味は、狭依はまだ知らなかった。
でも、恥ずかしがり屋さんなのかな?とは思った。母親の背後に、半分くらい隠れていたから。
だからと言って、狭依は悪い印象は持たなかった。『ちいさい子』は可愛いのだし、遊んであげるのも好きだったから。