第54話 手を繋いで
多少の変質は、避けられない術だった。妖怪であり小さな荒神でもあるさくらの命を分け与えれば、稔流の心身に何かは起きるとは思っていた。
でも、こんなにも《神》という人間の力が及ばない存在に近付けたい訳ではなかったのに。
「…そうだと思ったよ。さくらは、いつも、いつでも、俺が引き返せるように逃げ道を作ってくれていたから」
近寄りたいのに、近付けたのに、抱き締めても、さくらはどうしてか稔流から距離を取ろうとした。
忘れてもいい、覚えていなくてもいい、約束を破ってもいい、美しい誤解をするな…と。
さくらが稔流が思うような優しい存在ではないのは、残酷で無慈悲になれるのは、人間ではないから。
いつの日か、人間と人ならざるものは決して解り合えないという現実に、稔流が傷付かないように――それだけは、忘れないで…と。
「さくらは、確かに俺に余分な力をくれたんだ。本当は、俺が『数え十五になるまで』生きていられるように、喘息に苦しまなくてもいいように、それだけの力でよかったはずなのに。…でも、さくらは俺が長い一生を苦しまなくていい体にするほどの力を使ったんだね」
「…………」
さくらの黒い瞳が、潤んだ。
でも、泣くまいと堪えているのが、稔流にはわかった。
「いつか俺が村を出て行って、いつかさくらの姿が見えない大人になって、善郎さんほど長生きじゃなくても、ひ孫の顔を見られるくらい長生きをして……たくさんの家族に看取られながら、安らかに死ねるように。…でも、その未来の俺の子供も孫もひ孫も、さくらの血は引いていない。そんな人生を、俺が生きて死ねるように。――――さくらが俺にくれたのは、そのくらい長い人生を生きられる、とても大きな力なんだ」
静かに、稔流は言い切った。
本当にそうなのかと、さくらに問い掛けることもせずに。
「俺が一度死んだのは、俺の傍にいなかったから俺を守れなかった…って、さくらは自分を責めていたね。病院で目が覚めてすぐに分かったよ。俺は喘息が治っただけじゃなくて、一生病気にならないくらい強い体になったんだって。――――その分、さくらが払った代償は大きくなってしまったんだね。さくらは、二度成長したはずの姿を失って、角が生えて、鬼になってしまった。…そうなんだよね?」
今度は、稔流は問い掛けた。でも、さくらには分かった。稔流の問い掛けは、疑問を持ったのではなく、確信している事の確認だ。
「そこまで変質したさくらの姿を見て、俺が失望して去ってしまうかもしれない―――そこまで覚悟して。……覚悟はしても、本当はとても辛い気持ちで」
さくらは黙っていた。沈黙とは、肯定を意味するのだから。
それ以上の言い訳は、したくなかった。
「俺は、さくらがくれた大きな力を、さくらのいない人生を長く生きるよりも、人間には使えないはずの力に変えることを選んだんだ。二年の時間を早送りするくらい、簡単な事だったよ。…やっぱり、さくらはただの妖怪じゃない。河童でも狐でも、何百年も消えずにいるのは難しいはずだよ」
稔流の言う通りだ。
消えたくなくても、消えていく妖怪もいる。
死にたくなくても死んでゆく人間がいるのと、同じように。
でも、さくらは長すぎる時間と去って行くものを見送り続ける事に疲れ果てて、もう消えてしまいたいと思っても、消えることは出来なかった。
「人間の姿と人間に近い心を保ちながら長い時を渡り続ける命を、さくらは呪いだと思っていたかもしれない。でも…そうじゃないんだ。さくらは、さくらが思っている以上に本当の『神様』なんだ。俺が貰ったのは、神様の力なんだよ」
稔流が手を伸ばし、さくらの白い髪に触れ、鬼の証の角に触れた。
「この角が生えてくる時…、いっぱい血を流しながら、痛い、痛いって、泣きながら苦しんでいたね。そんな目に遭ってまで、俺のことを大切に思って、俺の幸せを願ってくれていたんだね」
「…………」
「ありがとうって言ったのは…、俺が近いうちに人間ではなくなって、さくらを迎えに行けるようになれるから。でも、それは俺の我が侭で…人間として生きて欲しいと願ってくれたさくらの心を、裏切ってしまったね。俺は、さくらを泣かせてばっかりで、…ダメだね」
「…ダメじゃない!」
さくらが強く首を振った。抑え切れなかった涙が散った。
さくらは、そっと稔流を見上げた。
随分、背が高くなった。両親共に平均よりも背が高いから、稔流もいずれ背が伸びると言ったのはさくらだが、本当にそうなった。
神隠しでの出会いから、8年経った。
幼かった小さな男の子が、こんなに成長するまで、真っ直ぐにさくらだけを想い続けてくれた。
「私が選んで私が好いた男を、勝手にダメ呼わばりするな!」
「………………」
稔流はきょとんとして、…その表情は少年のあどけなさを残していて、でも以前よりも大人びた表情で笑った。
「わかったよ。もう言わない。だからさくらも、もう自分を責めないで。…《約束》だよ?」
「うん…約束する」
稔流はさくらの手を取った。
「帰ろう。ひいおばあちゃんが待ってる」
「…うん」
ふたり歩き出した時、どこからか細長いふさふさが飛んで来た。そして、『いつも通りに』稔流の首にしゅるんと巻き付いた。
「むすびも、俺達を待っていてくれたの?」
むすびはコンと一声鳴いた。
稔流は、満足げなむすびの頭を撫でながら言った。
「ただいま、むすび」
今、9月下旬なら、稔流が数え十五を迎える正月まで3ヶ月と少し。
この世界で残された短い時間を、精一杯に生きていきたい。
そんな自分の姿を、隣にいるさくらに見せたいと、ひと回り小さな手のぬくもりを感じながら思った。
「思い出話でもしようか?」
「何だ?いっぱいあるぞ」
「……そうだね。あの時はさくらがすごく不機嫌になって困ったよ。2月の……」
「まだ根に持ってるのか!?いい加減忘れろ!」
「無理だよ」
稔流は笑った。
「困っただけじゃなくて、嬉しかったんだから」
ふたりで過ごした時間は、いつだって、どんなに困ったって、嬉しくて、幸せだったから。
試運転で1日2回投稿を再開しております。需要があるようでしたらがんばってみます。