第5話 人ならざるもの(一)
どのくらい、時間が経ったのだろう。
8月の空とは違う、少しけぶった春の空を背景に、薄く淡く紅を宿した桜の花が、春の女神のように絢爛に、いつか見た花嫁のように清らかに咲いていた。
突然現れた幻想的な花は、まるで《さくら》そのものみたいだと稔流は思った。
さくらもまた、驚いた様子で桜の大木を見上げていた。
その黒い瞳に、空をいっぱいに埋め尽くすほどの桜の花が映った。夜空から降る星のように、春の空から薄紅の雪が降る。
「姫神様……?」
そう呟いたさくらの体が、花びらと光を纏うやわらかな風に包まれて、ふわりと白い髪が舞った。
くるくる、ひらひら、桜の花びらは風に踊り、さくらは眠るように睫毛を伏せた。
そして、その花びらが光に溶けて消えた時、夢から覚めるようにゆっくり目を開いた。
「ふぅん……?」
さくらが、さらさらした髪を撫でて、首を傾げた。
「また、髪が伸びたような気がする」
「えぇと……髪の毛だけじゃないよ?」
ついさっきまで、白い髪は肩にかかるくらいだったのに、胸まで伸びていた。そして、
「何で、俺と同じくらいの身長になってるの!?」
「大袈裟だな。稔流の方が大きいぞ。……ふむ、このくらいか」
さくらは、親指と人差し指を開いて『このくらい』を見せてくれた。多分、5センチくらい。
「誤差……」
「何故落ち込む?」
「俺でも、男の見栄ってあるんだよ……」
稔流と同じような早産でも、大体6~9歳くらいで差が埋まると言われているのに、個人差があるとは言え遅れている。さくらの方が、数え切れないほど年上なのに、背丈までさくらに抜かれたくないのだ。
「この村のしきたりからするに、私は数え九つほどの姿になったのだろうな。多分、前回からさっきまでの私が、数え七つくらいだったから」
数え七つというと、満年齢なら5、6歳で、実際にさっきまでのさくらの姿がそのくらいに見えた。
今、数え九つとすると、満年齢で7、8歳ということだ。
「村のしきたりって?」
「この村では、子供の数え年が奇数になると祝い事をする。《外》の七五三をもっと長くしたようなものだよ」
さくらが言うには、男女とも数え三歳から数え十五歳まで。今では実年齢で行うことも多いが、昔は数え十五歳で成人と見なされた。
「歳の節目を祝うのは、お祓いを兼ねている。昔は子供は簡単に死んだから、生き延びる度に祝って、災いを祓った。それでも、流行り病が来れば、大のおとなでもあっけなく死ぬのは珍しくなかったよ。……今でも、不便な土地では命が軽い」
「…………」
稔流は、黙ってさくらの言葉を聞いていた。
村の事情を知らなかったのは、稔流の所為ではない。誰からも聞かせて貰えなかったのだから。
本当は引っ越しなんかしたくなかったのに、両親の身勝手なUターンに自分の喘息を利用された気すらして、胸の底に小さな怒りを押し込めていた。
でも、父がこの村の医者になることを望んだのは、決して安請け合いでもお人好しの決断でもなかったのだと、思い知る。
「子供はこの世に生まれてから日が浅いから、あの世とこの世の狭間……神の世界に近い所にいる。大人には見えぬものや、見えぬ方がいいようなものを、子供は見てしまうことがある。だから、神隠しに遭うのは子供だ。……そのまま帰って来ない事が多い」
「え……?さくらは、俺を助けにきてくれたのに」
「昔から、座敷童などいない家の方が多いんだよ。今では戦前に遡るような家はずいぶん減ったから、私が知っている座敷童も片手の指で足りるくらいだ」
さくらは微笑した。柔らかいのに、ゾクリとするような笑みだった。
「稔流を助けたのは、稔流が特別だったからだよ。そうでなければ、知ったことではない。たかが人の子ひとり生きるも死ぬも、私にはどうでもよいからな」
……そうだ。これが、人ならざるもの、そして神に近いものであるさくらだ。
「私は、姫神の宇賀田の本家、今は稔流のひい婆様が住む家に居着いた座敷童だからな。稔流だけが特別だ」
「…………」
――――俺が特別だったのは、さくらが助けてくれたのは、ただ宇賀田本家の子供だったから……?
「いたたたたたた!!」
「勝手に凹むな。私が『喜んで』と答えたことをもう忘れたのか?」
「わ、忘れてないけど!そんなに耳を引っ張らなくても、」
いいのに、と言い終わる前に、さくらは稔流の耳を放してくれた。
「私が人の選り好みをするのは、人間以上だぞ。妖怪にしろ――神でさえも、気まぐれにしか人間を救わないのは、神が人間の為に存在している訳ではないからだ。救われたければ、仏でも拝んでいればよい。依怙贔屓して加護を授けるのも、気に食わねば祟るのも、私のような者には善でも悪でもない。その、気まぐれなはずの私が《座敷童の加護》を授けたのは、私の長い記憶の中でも稔流が初めてだ」
「…………」
「初めてで、このまま最後になる」
微笑んで、真っ直ぐに稔流を見つめる黒い瞳と、真っ白な長い睫毛が綺麗だ――――と稔流はぼんやりと思った。