第47話 姫神(一)
「現世に戻った稔流は、以前よりも大きな力を持って目を覚ます。……その代わりに、私の命を使って稔流を助けてあげることは、二度と出来ない」
稔流は、とっさに声が出なかった。あの、不思議な甘いものは、さくらの命そのものだった……?
「妖怪は、存在しているだけで、生きている訳ではない。生きていないから、死ぬこともない。死なないから、消滅するだけだ。……なのに、消えるまでは命がある。稔流を生かす為に、私の命を使った」
「じゃあ、俺に命をくれたさくらは、どうなるの!?」
「代償を払う。それだけだよ。私は私の代償を。私が勝手に助けた稔流も、稔流の代償を、それぞれ払う」
「俺の代償なんて、どうでもいい!さくらは……」
言えなかった。
さくらの細い指が、そっと稔流の唇に触れて、止めたから。
「これ以上、私の命を分け与えると、稔流は人間ではいられなくなる。……そうなるのには早すぎるのに。稔流、もう、自分を粗末にしないで欲しい。これ以上は、天地の理に背いてしまうから。……もう、十分背いたのだから」
「それだけ?俺は元々、さくらとずっと一緒にいる為に、いつだって人間の命は捨ててもいいと思っていたよ」
死んだ人間は、生き返ることはない。どんな病気にも効く万能薬など存在しない。
それは、どの人間でも同じことなのに、稔流は特別に、さくらの命を分け与えられてこれから蘇る。
その『特別』が、どんなに不自然なことで、有り得ないことなのか、稔流にもわかる。本来は助かるはずがない命だったのだから、今後はもう助けてもらえないということが、大きな代償とは思えない。
「だけ……ではないと、分かる時が来る。……う、あ……!」
さくらが、雪の糸のような繊細な髪を、ぐしゃりと両手で鷲掴みにして、がくんと膝を付いた。
「さくら!?」
「……み、るな」
さくらは、苦痛に震えながら叫んだ。
「稔流……みの、る、見るな、見ないで……っ!!」
それは、悲鳴だった。哀願だった。
メリメリと、聞いているだけで鳥肌が立つ音がして、白い手とその手が掴む真っ白な髪が、血の色に染まった。
「さくら!」
「見ないで!見られたくない……ッ」
さくらが、血に濡れた手で、稔流の手を振り払った。
――――その時に、見えた。
さくらの頭を裂いて現れた、角を。まるで――――
稔流は、思い出した。曾祖母の家に飾られている、恐ろしい異形の般若面を。
「うあ……!ああああッ!!痛い、いた、い……っ、う、あああああ!!」
肉を裂いて生えてくる角の根元を掻きむしって、さくらは悲痛な叫びを上げる。
「さくら!!」
稔流は、どうすればいいのか分からなかった。
分からなくても、この手を伸ばして、再びさくらを抱き締めようとした。
でも、稔流の手は空を切り、触れることは叶わなかった。
(みのる、みないで……)
儚い声が、聞こえたような気がした。
さくらの姿が、消えていた。
「さくら!」
さくらもまた、『座敷童ではない何か』になり果ててしまうのか。
「待ってて、追いかけるから……迎えに行くから……っ」
でも、何処に行けばいい?この、ただ白いばかりの世界に、稔流はたったひとり、取り残された。
ぽつりと、稔流は呟いた。
「かみ、さま……?」
初詣に行った時さえ、願いを心の中で念じはしても、本気で信じたことはなかったのに。
喘息が治りますように……と、願ってはみたものの、あまり期待はしていなかった。
でも、さくらは違う。
(天神様の細道)
(宇迦の姫神様の……)
さくらは、これらの神というものを、とても身近に口にしていた。狐たちを神の使いと言っていた。
そして、さくら自身も妖怪でありながら、小さな神様なのだと。
――――さくらがいるのなら、神様は、いる。
稔流は初めて、本気で祈り、願った。
「神様、俺を、さくらの所へ連れて行って下さい。俺は、さくらを迎えに行かなきゃいけないから。さくらに、そう約束したから……!」
全身全霊で、願い、祈り、叫んだ。
「俺は、さくらを独りにしたくない!だから会わせて下さい、お願いします、神様……!!」
稔流の祈りに応じるように、白い靄のようなものが薄らいだ。
眩しい光が差し込み、世界の色が、変わった。
空気も、変わった。 山の中、森林と土のにおいだとわかった。
(わが末裔よ。私を呼んだか?)
美しい音楽のような、典雅な声が聞こえた。
見上げると、大きな磐座があった。その上に誰かが腰掛けていたのだが、木々の間から差し込む光が眩しくて、その顔は見えなかった。
見えなくても、わかる――――とても美しい女神なのだと。
(この磐座は、姫岩と呼ばれている。宇迦の姫神が降る岩だと)
(禁域ゆえ、宇賀田の当主のみ此処へ通しているのだが……そんなにも私を信じ祈るのなら、真の当主であるそなたに会ってみたくなった)
ざあっと風が吹き、薄紅色の花びらがふわりと稔流の掌に舞い落ちた。
いつの間に、こんなにたくさん咲いていたのだろう?桜の巨木が、美しい夢のように咲き誇っていた。