第46話 一途(二)
「私は、こんな形で稔流の命が壊されるなんて、一度も望んだことはなかった!私が守れたはずの命を、私が守りたかった!……もっと、あの家で一緒に暮らしたかった。稔流に、もっと友達と遊んでほしかった。大人になっていく稔流の姿を、傍で見ていたかった……!」
さくらは、泣いていた。
死んで欲しいと言ったさくらは、本気だった。
でも今、稔流に死んで欲しくないと、もっと生きていて欲しいと、そう望むさくらも、本当だった。
「……笑ってくれないんだね」
稔流は、ほろ苦く微笑した。
命を終えるには、若すぎる――幼すぎる。痛ましくて、喜ぶことなど出来ない。
さくらを迎えに行くのも、遠い何処かへ旅立つのも、あまりにも早すぎる。
だから、さくらは慟哭する。稔流の命があまりにも大切で。幸せだとは、決して言ってくれない。
「わかったよ。俺は、自分に出来ることなら全部、さくらの願いを叶えてあげたいから」
「稔流……」
涙に濡れた長い睫毛に、涙の粒が光る。
「生きて……くれるのか?」
「さくらが、嬉しいって笑ってくれるのなら」
「……うん」
さくらは、あどけない頬に涙を伝わせながら、笑った。
「嬉しい。だから、待ってる……ずっと」
「……!」
稔流は、驚いた。
背伸びをしたさくらが、赤味を帯びた柔らかな唇を、そっと、稔流の唇に重ねたから。
びっくりして、目を見開いて。でも、そっと目を閉じた。口移しで、ゆっくりと流れてくる《何か》。
(甘い……)
神隠しに遭った時。そして、転校初日にさくらと走った時。
どちらも喘息の発作を起こした時に、さくらが飲ませてくれた金色の丸い飴のようなものと、同じ味だった。
でも、今はあの時のビー玉のようなひとつぶではなく、蜂蜜のようにとろけた液体が、稔流の喉を通って、体の中に落ちてゆく。
(さくらみたいだ)
その甘さそのものが。優しく心と体を満たしてくれるあたたかさが。胸がキュッと締めつけられるような気持ちさえ、全てが甘く感じて。
コク、コクと、何度も飲み込んだ。
この真っ白な世界で、気が付かないうちに自分の存在が曖昧になっていたことに気が付いた。
稔流の体が、命が、魂が、金色の光に満ちて、自分自身の存在の形を取り戻してゆく。
そして、今までは稔流が持っていなかった力が、確かにこの身体に宿るのを感じる――――
「……私があげられるものは、これで全部だ」
その声で、稔流ははっと我に返った。
さっきまで、自分は何をしていたのだろうか。
すぐ間近で、つぶらな黒い瞳が稔流を見つめている。近い。
でも、もっと……
「――――っ!」
稔流は、思わず目を逸らした。
危うく、衝撃のあまりに、さくらの両肩を掴んで遠ざけそうになったのを、寸前で止めた。いつか、恥ずかしいからと慌てて身を離したら、怒っていると勘違いされて、さくらに泣きそうな顔をさせてしまったのを思い出したからだ。
「稔流、どうしたんだ?」
目を逸らしたのに、素直な眼差しでさくらに顔を覗き込まれた。
(わあああああああ!!)
稔流は心の中で叫んで、心の中で頭を抱えた。
「え、えっと……」
「何だ?」
「今の、……キ、……」
たったの二文字なのに、残りの一文字を言えない。
「接吻のことか?」
「わ─────!!」
稔流は、今度こそ本当に叫んだ。顔から火が出る。絶対出る。
「いくつも飴玉みたいに舐めるのは大変だろうし、溶けているものを口移しにする方が、たくさん飲むにはいいと思ったのだが」
「………………」
うん、それだけだよね……と稔流は遠い目になった。
自分だけ思いきり意識して挙動不審になったなんて、恥ずかしいし虚しい。
「でも、こういうことは、私は稔流にしか出来ないよ」
稔流は、改めてさくらを見つめ返した。
今度は、さくらの方が目を逸らして仄かに頬を染めている。
「私に出来ることは、これだけしかなかったけれども……でも、何も飲ませることがなくても、……接吻は、稔流だけだ」
「……。俺もだよ」
稔流は、やっと微笑みを返すことが出来た。頬は火照って熱いけれども、胸の中は、甘くてあたたかい。
「これで全部だ」
さくらが言った。それは、唇が離れて、すぐにさくらが口にした言葉と同じだった。
「全部……?」
稔流は、言い知れぬ不安に襲われた。
これで全部……なんて。まるで、お別れみたいだ。
「お別れではないよ。稔流が、望まない限りは」
さくらが、笑った。哀しそうに。罪悪感に耐えるように。
「ただ、反魂の術には、大きな代償が必要だ。」
「…………!」
稔流の心臓が、ドクンと音を立てたような気がした。
やはり、自分が死んだという感覚、命の火が尽きた感覚は、本当だった?