第45話 一途(一)
そこは、白い世界だった。
淡く発光しているような、薄く霞がかかったような、足元と空の境目もわからない、不思議な場所。
自分は、いつから此処に居るのだろう?
自分は、何者なのだろう?
「さくら……」
ふと唇から零れ落ちた名前に、はっと自我を取り戻した。
自分の名前は、宇賀田稔流。宇迦の姫神を代々祀ってきた家の、最後の直系だ。
その体に流れる血に導かれるように天道村に来て、さくらという美しい座敷童と再会し、結婚を約束した。
でも、転入先の学校の教師に目を付けられ、体育の時間に校庭で発作を起こしてしまった。……わざと。
「俺、死んじゃったのか……」
しくじった。
本当に倒れてやろうかと思い、実際にそれを試みたのだが、死にたかった訳ではない。
稔流は、あの横暴な教師を年度末を待たずに、社会的に抹殺出来ればそれで良かった。
郷里は、既に前任の学校で罪のない子供達を複数人虐待し、不登校に陥れたことが発覚して懲戒処分が下されている男だ。
左遷された天道村で、今度は喘息の子供を虐待したとなれば、鳥海の権力で免職に追い込める。
二度と教鞭を執れないように、突き落としてやろうと思った。あの男に虐げられる子供が、今後ひとりもいなくなるように。
(良くないぞ!)
(全然良くない!稔流は、自分ひとりが心を閉じ込めれば丸く収まると思ったのか?)
「……そうだよ、さくら。大人を動かすのも社会を変えるのも、必ず『犠牲』が必要だから。俺がそうなればいいい、って……」
しくじったが、稔流は自分が死んだことを悔いていなかったし、両親や祖父母、曾祖母、友人を置いてゆき、悲しませたのだろうと思っても、一瞬ちくりと胸が痛んだだけで、それ以上の感情はなかった。
誰だって、何でも彼でも手に入れることは出来ない。何かを選ぶことは、他の可能性を捨てることと同じなのだから。
そんな場面は、大人に近付くほど、きっと何度でも訪れる。
そして、稔流は、何度でもさくらを選び続ける。
そう決めた。そう約束した。そう誓った。
「さくら!どこにいるの?さくら!」
どうしたら、さくらと結婚出来るのか。
稔流が知っている方法が、ひとつだけある。善郎とあやめがそうだったように、稔流が死ぬことだ。
(私の為に死んで欲しい……と言ったら、どうする?)
(死ぬよ。さくらの為なら、いつでも)
死んで欲しい。
きっと、それはさくらの本心だった。
稔流に、人間の体と命を捨てて、『人間ではない何か』になって欲しい。
それはきっと、『存在しているが生きてはいない』というさくらに近いものなのだろう。
でも、さくらは稔流の人間としての人生を、大切に思ってくれた。まだ死んではいけない。一緒に生きて欲しいと言った。
「さくら!俺はもう、さくらだけでいいんだ!」
さくらは、どこにいるのだろう?
目が覚めたとき、さくらがいなくて寂しかった。会いたかった。今もその気持ちは変わらない。
「さくら!俺は、さくらがいないと寂しいんだ!会いたいんだ!!いつだって、さくらと一緒にいたいんだ!!」
格好悪い告白を、全力で叫ぶ。
一途な想いのままに、白くけぶっているばかりで何も見えない、何も無い空間を走る。
きっと会える。
会えないなら、会えるまで捜す。決して、諦めやしない。
稔流にとって、この世界で、どこの世界でも、掛け替えのない唯一。
両親にとって、『みのり』が永遠でも構わない。稔流の永遠は、さくらなのだから。
「さくら、待ってて、迎えに行くから。必ず見つけてあげるから……っ!」
「……その必要は無いよ」
稔流は、はっとして振り返った。
いつの間に、こんな近くにいたのだろう?
「稔流だけが、私を捜さなくてもいい。私も、稔流を捜すから」
でも、さくらは泣きそうな顔で言った。
「私の所為だ……!私が、稔流の傍にいなかったから。むすびは知らせに来てくれたのに、私が間に合わなかったから……!!」
悪夢に囚われて、自分は稔流の傍にいる資格はないのだと、勝手に後ろめたくなって木造の学び舎に逃げた。
心を閉ざして眠っていて、稔流を失った。座敷童の加護なんて、これっぽっちも役に立たなかった。
「罪でもいい、稔流の傍にいればよかった…!」
「……いいんだよ。さくら、会いたかった。……会えてよかった」
稔流は、さくらを抱き締めた。ふと気付く。さくらはこんなに小さかっただろうかと。……違う。また、稔流が大きくなったのだ。
もう、理由はさくらに聞かなくてもわかる。
焦る必要はないのだと思いつつも、「大人になったら結婚して」と伝えたままに、稔流は無意識に大人になりたいと望み続け、その強い望みが身体の成長という形になったのだと。
きっと、さくらも同じなのだろう。
さくらが急劇に成長したのは、稔流がプロポーズした瞬間だった。さくらも、早く花嫁になりたいと望んでいてくれた。その証だったのだ。
「稔流……しんじゃ、ダメだ」
「え?」
何を言っているのだろう?稔流は、もう死んだからこの不思議な世界にいるのではないのか?
「稔流は、まだ選べる。もう一度現世に戻って生きてゆくか、……ここで、命を捨ててしまうか」
なんて、切ない顔をするのだろう?どうして、さくらは嬉しいと笑ってくれないのだろう?