第44話 鬼神
止まらない咳に混じって、今日食べた物を全部吐き出した。食べ物が無くなると、胃液を吐いた。
苦しみながら、稔流はぼんやりと思った。
(あーあ、汚いなあ……)
子供は、汚物を嫌い、吐いたり下したりした子供を囃し立てたり、ばい菌呼わばりして仲間外れにする。
(せっかく、友達になれたのにな……)
稔流が不登校にならずに済んだのは、大彦を始めクラスの男子とは大体仲良くなれたからだ。
担任が執拗にいびっても、庇ってくれたり慰めてくれたりする友達がいたからだ。
(失敗しちゃったなあ……)
稔流は、周囲に「死んでしまったらどうしよう」と思われる程度の発作を起こすつもりだった。
未来の為に、自分の身を危険に晒した。だからこそ、本当に死ぬつもりはなかった。
(ごめん……稔流)
(私と生きていて……もう少しだけ)
少し寂しげな、優しくて、哀しい声。
さくらの声だ。いつ聞いた言葉なのだろう?
どうして、さくらが謝るのだろう?
わからない。わからないけれども…
(ごめん……さくら)
稔流は、呟いた。
もう声は出ないから、心の中で。
(会いたかったって……会えたら、言いたかったのに)
(本当は、さくらがいなくて、さびしかったんだ)
(さびしいから、そばにいてほしかったんだ)
(かっこわるくて、ごめん)
(一緒に、生きていけなくて……ごめん)
父が、遠くから稔流の名前を叫んでいるような気がした。
それも、もうぼんやりとして、何も聞こえなくなる。
(でも……)
(俺は、やっと、さくらを迎えに行けるのかな……)
(善郎さんが、あやめさんを迎えに来たように)
(俺は、おとなになれなかったけど)
(それでも、俺の花嫁さんになってくれる?さくら――――)
稔流の全身が、力を失った。
もう、咳は止まっていた。
もう、息をしていなかった。
弱々しい心臓の鼓動も、止まった。
その様子を、大彦に殴り飛ばされた後、漸く起き上がった郷里は、茫然と見ていた。
こんな事になるとは思っていなかったと、頭の中は自己弁護と現実逃避の思考ばかりが巡っていた。
「……殺したな」
郷里の耳に、背後から可憐な声が聞こえた。
だが、その声は震えていて、呪わしく響いた。
ゾクリとして、郷里は声の方を振り返った。すぐ後ろに、着物姿の少女が立っていた。
真っ白な髪と、人形のように整った面差し。幻想的で愛らしい姿をしているのに、少女はそれを凌駕する怨念を纏っていた。
「稔流を、殺したな」
「……ち、ちがう」
郷里は、喘いだ。
この少女は、一体何だ?
本能で全身が震え上がり、郷里は逃げ出した。全速力で走った。何処に向って逃げているのか、自分でもわからなかった。
とにかく、《《あの化け物》》遠ざからなければ――――!
「ぐうっ!!」
急に何かが首に巻き付いて、ギリリと締め付けられた。息が出来ず、剛里はその場で膝を折った。
「……ま、……」
まさか、本当に死ぬとは思わなかったのだ。
咳なんて、風邪を引けば誰でも出る、平凡な症状ではないか。それが癖になっているからと言って、一体何だというのだ?
体が弱ければ、鍛えればいのだ。鍛えたからこそ、己の体は強く大きいのだ。
喘息だの何だの、そんな事を理由にして甘やかすから、弱いままなのだ。
弱い癖に生意気な口を利き、生意気な目で大人を見る。
だから、正当な罰を与えたのだ。
なのに、弱いから勝手に死んだ。
だが、息が詰まって声にならなかった。
「うぐ、う、ぐぅ……ッ」
首に巻き付いた何かに引きずられ、郷里は転びそうになりながら、校庭の中央に佇む少女に近付いた。
少女は、真っ白だった。絹糸のような髪も、纏う着物も。
その少女は、真っ赤だった。帯の色も、草履の鼻緒の色も。小さい唇も。――――目から流れ落ちる涙も。
真っ赤な、血の色だった。
「稔流を……!私の稔流を、殺したな!?」
血の涙を流す少女が、跳んだ。
「管、もうよい。私が殺る!!」
うぐ、と担任は唸って、どうと校庭の土の上に倒れた。
少女の力とは思えぬ怪力が、大男の首を締め付ける。白く小さな手を引き剥がそうとしても、全く敵わずに、酸素を求めて喉がヒュウヒュウと冬の風の様に鳴る。
「わかるか!?これが、稔流が、何回も何回も……もっと幼い頃から何回も、感じ続けていた苦しみだ!!」
ゴウ、と音が鳴った。喉の音を掻き消す、本当の風だ。
強い風が校庭の植木を揺らし、空はいつの間にか暗雲に覆われて、世界は日暮れ時のように暗くなった。
「どうして、お前が生きている!?稔流が死んだのに!!」
恐れおののいた男の顔に、首を締め付ける少女の目から流れる血の涙がぼたぼたと落ち、男の顔を血の色に染める。
暗い空から神の怒りのような光が地を差し、爆発のような落雷の音が響いたのは、ほぼ同時だった。
校庭の隅の……春に見たときには、桜の花が咲いていただろうか。
雷に打たれた木は炎を上げながら、衝撃にバリバリと裂けた。
「……ころしてやる」
放心したような、あどけない声だった。
だが、少女の額の上から血が流れ、メリメリと音を立てて裂け始めた。
現れたそれは、般若面のような、鬼の角だった。
「ころしてやる。殺してやる……!!」
強い風に、少女の長い髪が踊った。長く、なったのだ。風に乱れる真っ白な髪は、暗雲の下で蠢く無数の蛇のようだった。
ぐぐ、と更に締め付ける手は、やわらかく小さい少女のそれではなかった。
ゴツゴツとした、大人の女の手だ。鋭く伸びた爪が食い込み、突き刺さり、苦しみ脅えるばかりの男の首からも、血が滴った。
「嗚呼……醜い。罪無き子を殺した癖に、自分だけは生きたいと願う顔は。汚らわしい……お前の血の色は。腐肉の如き臭いがする……!」
赤い鬼が、呪っていた。
少女の小さく華奢な体は、骨張って大きくなり、着物も、般若の顔も、締め付ける腕も、全てが赤かった。
……こんなものが、いる訳がない。
深紅の鬼女など、昔話か怪談の世界の架空の存在だ。
現実に、こんな化け物がいるはずが――――
バラバラと大粒の雨が降り出した。強風に煽られた雨粒が、横殴りに叩き付ける。
「私の稔流を殺した罪……お前の魂に刻んでやる。お前に、死の安息など許すものか。未来永劫、炎熱地獄の業火で焼け続けるがいい!!」
愚かな男の視界に入る空の全てを、黄金の竜のような雷光が幾筋にも裂く。
目も眩む光が、凄まじい轟音を立てて、校庭の中央を貫いた。