第43話 最後の犠牲者(二)
「おい、稔流?」
涼介がコソッと声をかけてきた。
「大丈夫か?雄太に頼めばどうにかなるぞ。雄太は校長よりも偉いから」
「すごい権力構造だなあ……」
稔流は、遠い目になった。でも、
「どうにかする」
静かだが、稔流は言い切った。
「どうやって、……」
涼介は言いかけたが、言えなかった。
稔流のきつね色の瞳が金色の光を帯びて、その奥に昏い炎が揺れているように見えたから。
「いつも大彦君を頼る訳にはいかないから、俺がやる」
――――追い出されるのは、俺じゃない。
でも、追い出すだけじゃ、意味がない――――
男子19名、女子16名。男子は5人ずつ走って最後は4人という4組。女子は4人ずつで割り切れて同じく4組。タイムは2回計って良い方を記録するというルールだ。
稔流はざっと計算した。1回目と2回目の間に稔流が休息を取れるのは、7組分だ。
50メートル走は、遅くても他の子は稔流が休めるのは10掛ける7で70秒より少し長めに見積もって80秒。記録の記入時間その他を考慮しても、2分を切る。
「結構短いな……」
稔流は2組目なので、すぐ走ることになった。一斉にスタートしたのに、あっという間に他の4人の背中が遠ざかる。
「11.5秒?怠けるな稔流!」
予想通り、怒声が飛ぶ。
ふざけてなどいない。今のが全速力だった。
稔流はあまり走ったことがないのだし、以前計ったときには13秒台だったのだから褒めてほしいくらいだ。――――両親がこの場にいたなら、褒めてくれるし心から喜んでくれるだろう。
(もう、1ヶ月会ってないな……)
両親が先に謝るべきで、赦すかどうかも決める権利は自分にあると思っている稔流と、稔流が親恋しさで会いに来るのを待とうという両親の心は、すれ違ったままだ。
(稔流、すごいぞ!頑張ったな!)
ふと、鈴を振るような声が、聞こえたような気がした。
(でも無理は駄目だぞ。2回目は走るな。もう息が切れているんだから――――)
さくらなら、笑って褒めてくれて、そして止めてくれるだろう。
さくらは、稔流をとても大切に思ってくれているから。
幼い日の稔流を苦しめた河童と狐に激しく憤り、業火で燃やし尽くそうととした程に。
「稔流君」
走って近付いて声をかけてきたのは、狭依だった。珍しい。
稔流は、登校2日目に、スクールバスで隣の席に座るのは避けたいと伝えた。『噂』を立てられたくないから、転校生だからと特別扱いしないでほしい、学校のことなら大彦が教えてくれるから大丈夫だよ、と。
狭依は、2人の間に縁談が進んでいるという噂もしくは事実を既に知っているようだったが、面と向かって距離を置きたいとはっきり言われたことには、ショックを受けた様子だった。
(うん……ごめんね。噂なんて気にしないようにすればいいって思っていたけど、稔流君がイヤなら、無理に一緒に座らなくていいよ)
きっと、本当は傷付いたのに、狭依は笑った。
(でも、友達でいてね。他の友達と同じようにするから)
それで普通のクラスメイトになったと稔流はホッとしたのだが、その日から明らかに、ふたりの間には見えない壁が出来た。
狭依は稔流を嫌いになった訳ではなさそうなのに、明らかに話しかけるのを遠慮しているし、それは稔流も同じだった。
結局、『普通のクラスメイト』というのは、特に問題は無いけれども特に親しくもない、話をするのは必要な時だけなのだと、気付かされた。
「稔流君、苦しそうだよ?もう休んで、1回目のタイムだけにしてして貰った方がいいよ」
「……どうやって?」
稔流は、整わない息のまま――――笑った。
その瞳に、金色の光と昏い炎を宿して。
「郷里は、俺を生かさず殺さず苛め倒したいんだよ。何を言っても聞きやしない」
狭依は、立ち尽くした。これ以上、言葉が出てこなかった。
――――稔流君じゃ、ない…?
「でも、《《何かあった時》》には証人になってね、狭依さん」
……ううん、これが稔流君だ。本当の――――
稔流の息が完全に整う前に、2回目がやって来た。
「稔流!ボケッとしてないで位置に付け!」
「…………」
好きに言えばいい。
――――だって、もう、これで終わらせてやるから。
スタートから、稔流は少しの手抜きもなく、全力で走った。
苦しい。ヒュウ、ヒュウ、と喉が悲鳴を上げても、最後まで走り切った。
「今度は12秒か?本当にのろまだな」
その侮蔑の声と、発作は同時に来た。
稔流は、激しく咳き込んで、膝を付いた。コン、コン、コン、と狐の声のような咳が止まらない。
呼気ばかりで、なかなか息が吸えない。
(苦しい。苦しい、苦しい――――)
ヒュウ、とやっと息を吸った。でもすぐに咳の連続になり、ドサリと地面に倒れ込んだ。
「この野郎!!」
大彦の怒声と共に、何か重いものが倒れた音に、ズザザっと砂の上を擦ったような音が重なった。
「おい!誰かなっちゃん先生呼んでこい!!」
大彦は叫ぶと、自分は校舎近くの植木へと走った。隠していたスマホで電話をかけて怒鳴った。
「豊先生呼べ!急患だ!!すぐに小学校の校庭に来い!!はあ?診察中?知るか!自分の息子が死んでもいいのかって言ってこい!!」
天道村は救急車を呼んでも、来るのに時間がかかる。
待っている間に、患者が息絶えてしまうことは、これまで何度も有った。
「稔流!お前の父ちゃんを呼んだ!!来るまで頑張れ!!」
稔流の耳に、大彦の声は聞こえたけれども、苦しみの余りに涙を伝わせながら咳き込むばかりで、返事をすることは出来なかった。
稔流は、命の危険を垣間見ながら、ひとつの名を想った。
……さくら――――