第42話 最後の犠牲者(一)
ふと、稔流は目を覚ました。まだ目覚まし時計は鳴っていないのに。
「さくら……?」
すぐに、気付いてしまう。自分の隣に、さくらのぬくもりが無いことに。
稔流が学校に行き始めてからだ。時折、さくらが夜中のうちにいなくなってしまうのは。
夏休みの間も、稔流が気が付かないうちに姿を消していることはあったれども、稔流が眠りについてまた朝に目覚めるまでは、ずっと傍にいてくれたのに。
「旧校舎って、楽しいのかなあ…」
現在使用されていないが、歴史的に価値ある建造物として残されている木造の旧校舎は、さくらのお気に入りでちょくちょく出掛けているらしい。
さくらが朝にいない日は、大抵昼間の教室にやって来るので、それは稔流も嬉しい。
――――でも、寂しいよ。さくら……
引っ越してくる前は、自室で独りで寝るのも起きるのも、当たり前の事だったのに。
どうして、成長した今の方が、寂しいなんて思ってしまうのだろう?
格好悪い。それこそ5歳の子供みたいだ。
でも、苦しくなる。意地を張って自分の心を騙すのは。
「だから、俺って、嘘が下手くそなんだよな……」
頑張っても頑張っても、下手くそなままだと嫌いになる。
学校の、体育みたいに。
「……あ」
稔流は思い至って、ごろんとうつ伏せになった。
「今日、体育じゃん……運動会の練習じゃん」
もし、喘息でなかったならば、少しくらい下手でも、体を思い切り動かすことを楽しいと思えたのだろうか。
「稔流ちゃん」
稔流がランドセルを背負うと、曾祖母が言った。
「台風が近付いてくるみたいだから、無理をしないようにね」
「うん、気を付けるよ。行ってきます」
体育は、気が進まない。でも、学校に行けばさくらに会えるかも知れない。
一つ屋根の下に住んでいるのに、こんなに寂しくなるなんて、おかしなことなのかもしれないけれども。
でも、会えたら、伝えたい。
(会いたかったよ、さくら)
会いたい。こんなにも。
気が進まなかった体育の授業の時間になった。
昇降口から外に出れば、まだ風はさほど強くないが生温く、台風が海の湿った空気を運んで来ているのがわかる。
「運動会の練習って、何やるんだろうなー」
「雄太は足速いから何でもいいじゃん」
「運動会の行進とかフォークダンスとかダルい」
友達と一緒に歩きながら、稔流も話に加わった。
「俺は行進とフォークダンスでもいい……走らないなら何でも」
「体育で走らないで何すんだよ。…って喘息か、悪い」
「別にいいよ。今年のシャトルランは20回でやめるって決めてたし」
「いっそ清々しいな」
別に清々しくないし不自由でしかないのだが、見学しているとサボっている、怠けているとクラスメイトから言われるので、一応参加はして途中で時間制限に引っ掛かかり、宇賀田はトロいよな~チビだし、という落し所で自分の体を守ってきたのだ。
「うちの村では、稔流にサボりとか言う不敬な奴いないだろ」
「不敬って何……?神懸からないから。何も降臨しないから……」
いっそ本当に神懸かってくれた方が、助かるかもしれない。でも、
「先生はそういうの、意地でも信じないタイプじゃないかなあ」
「不敬だな」
「ゴリって、胆試しでイキって先頭歩きたがるタイプだよな。でも、ちょっと物音がすると、仲間を置いて真っ先に逃げる奴」
「あいつ、溺れたまんまプールの底にへばり付いてた方が、世界平和に貢献出来たんじゃね?」
稔流はぎくっとした。あれは、郷里の八つ当たりが悪いのだが、溺れたのは『みのるをいじめたわるいおとな』と、河童が盛大に遊んだからだ。
正直助かったけれども、乾いた校庭に河童は遊びに来ない。稔流は見えないが、多分頭のお皿が乾いてしまう。
「整列!」
という訳で、みな格好だけはビシッと立った。特に、男女共に小柄な子は背を高く見せたいので、担任が大嫌いでも一層ビシッと背筋を伸ばす。
結果、稔流は本当に人生で初めて、先頭を免れた。本当に、120cmが135cmになっていたらしい。
でも、ちょうど真ん中の位置だ。ひょっとしたら、また少し伸びたのかもしれない。……いつの間に?
急劇に伸びた身長について、結局さくらには聞けないままだ。
「今日は50メートル走のタイムを計るからな!」
……最悪なのが来た。稔流の心拍数が上がった。
曾祖母が「台風が近付いているから気を付けて」と言ったのは、喘息は低気圧と相性が悪いからだ。
台風のど真ん中にいる時よりも、『近付いて来る』時の方がまずい。救急車で運ばれた時も、そのタイミングで既に風邪を引いていて、咳をしていたのがあっという間に悪化した。
「先生」
どうせ却下される、と思ったけれども、稔流は手を挙げた。
「何だ?」
「見学させて下さい。台風が近付いている時には走れません」
「何だ?それは」
案の定、担任は苛ついた口調で言った。
「雨も降っていないのに、馬鹿を言うな」
「雨は関係ありません。気圧が下がってくると、喘息の症状が酷くなりやすいんです」
「そんな話は聞いたことがないぞ!どうせ足が遅いんだろう。嘘を吐いてないで走れ!」
稔流は黙った。
――――本当に、一度、倒れてやろうか。
犠牲が出れば、世間も動く。
逆に言えば『犠牲が出なければ無視される』ということだ。
「あいつ……社会的に葬った方が、世界平和に貢献出来るよね」
稔流はぽつりと呟き、その瞳が昏い光を帯びた。