第41話 座敷童の夢(二)
どうして……どうして。
どうして、私の名前を取り上げてしまうの?
母様、『つばき』はここにいるよ。
きづいて、きづいて、きづいて、母様。
どうして、どうして、どうして……!
イヤだ、イヤだ。こんなの、イヤだ。
その赤ん坊は、私じゃないのに。『ほんとうのつばき』じゃないのに。
どうして、母様、母様、母様――――――!
「か…さま……」
暗闇の中で『さくら』は目を開けた。掠れた呟きは、寝言だった。
「稔流……」
畳の上に転がっていたさくらの隣の布団で、稔流がすぅすぅと安らかな寝息を立てていた。
「どうして、村に戻ってきた?私はあの後、村を出るお前達を、天神様の細道を通して帰してやったのに」
稔流はまだ知らないようだが、昔からこの村に伝わる言い伝えだ。
この村が閉じられているのは、天神様の神域としての加護があるからだ。守られていた村人達は、天神様のお許しなく勝手に村を去ることは出来ない。
田舎なんてイヤだと出て行っても、《天神様の細道》という人間の目には見えない神の道を通れなかった者は、いずれまたこの村に戻ってくることになる。
この村の若者は、大抵は高校進学で村を出て行き、多くは《外》での就職を望む。
農業の苦労は知っているので、あまり継ぎたくないし、天道村という閉ざされた世界よりも、もっと広い世界に心惹かれ、色々なものを見聞きして体験したいからだ。
だが、再びこの村に戻ってくる者は案外多い。これは、過疎問題が深刻な田舎の地方自治体には見られない現象だ。
長い間、|《幾》つかのルーツを持つ者たちが、辿り付き、その子孫が暮らしてきた天道村は、歴史の敗者達の『隠れ里』だった。
たまに《外》から客人が良い物をもたらすこともあるが、客人は感染する病を持ち込むこともある。
また、客人が、ここが隠れ里であるという秘密を持ち出す危険もある。
隠れて暮らす為には、自給自足の生活が不可欠で、天道村は今の時代でも食料の自給自足が可能だ。
一度は村を出て行った若者も、家賃が無料の実家があれば、《外》で|予想外の苦労をしたり、都会に馴染めなくて辛くなったりしても、村に帰ることが出来る。
だから戻ってくるのだろうと、冷静に考える者もいるが、『神様のお許しが無い者は村を出て行くことは出来ない』という昔からの言い伝えは、いまだ根強い。
逆に、天神様の細道を通って村から出ることが出来た者は、自由の身となると言われている。そのような者は、帰省で帰ってくることはあっても、この村に再び住むことはないのだと。
そして、さくらはその言い伝えが、《《本当の事》》だと知っていた。
稔流の父・豊は、高校進学で村を出て、学を積み都会で医師にまでなったのに、天神様の細道を通れなかったから、村に戻るように運命の輪が回ったのだ。
母の真苗の祖父もそうだ。祖父自身が戻れなかったので、その孫娘の真苗の代で再び村へ引き戻された。
寧ろ、豊と巡り会い結婚したのは《《村に戻るために仕組まれた》》とさえ言える。
――――まるで、呪いのように。
そんな事など知るはずもない、愛し合う夫婦の間に、稔流は《選ばれた狐の子》として、生まれるべくして生まれて来たのだ。
でも、さくらはその呪われた運命から、稔流を自由にしてやりたかった。
いくら毟り捨てても自分の髪から決して離れてくれない、血のように赤い椿の花に呪われているような自分と、稔流を同じにはしたくなかった。
神隠しの時に、さくらは稔流と強く惹かれ合ってしまったからこそ、稔流とその両親を《天神様の細道》を通して《外》に送り出したのだ。
稔流の約束と真心を信じていたけれども、人ならざる者である自分と深く関わるのは稔流の幸福にはならない。
だから、胸が張り裂ける思いで運命の糸を断ち切った、はずなのに。
「どうして、戻って来てしまった…?」
さくらは手を伸ばして、稔流の髪に触れようとして、……手を引いた。
「どうして……どうして、私などを、思い出してしまった?」
思い出してもらえて、嬉しかった。
信じられないくらい、幸福だった。
(ぜったい、さくらをむかえにいく!)
(さくらを、ぼくのはなよめさんにする!)
神隠しの後、さくらが稔流と両親を、天神様の細道を通して帰したのには、もうひとつ理由があった。
――――言い訳が、必要だったから。
子供の頃に座敷童の姿が見えた者でも、大人になるにつれ見えなくなってしまうことが多い。
さくらの存在を、さくらとの約束を、いつか稔流が忘れてしまっても、自分がしたことだと思えるように。
――――忘れられてしまったと、傷付くことが無いように。
「稔流……。人間は、人間と結ばれるものだよ。座敷童は……」
誰とも、結ばれない――――
童だから、結ばれない。成長して成人することが出来ても、それはもう座敷童ではなくなり、消えてしまう。
或いは、見知らぬ《何処か遠く》に去らなければならない。
(どうして、どうして、母様――――)
忘れた頃に見る程度の夢だったのに、その回数が増えたのは、5歳だった稔流と結婚の約束を交わしてからだ。再会してからは更に増えた。
稔流は、さくらを選んではいけない。
さくらも、稔流を望んではいけない。
ふたりがどんなに惹かれ合おうとも、その事を思い知らせるかのように、訳の分からない悪夢が現れる。
「ごめん……稔流。私と生きていて。……もう少しだけ」
あそこに行こうと、さくらは思った。
小学校の、木造の旧校舎。
かつて、さくらが人間の子供達の遊びに混じる生活を、座敷童として心から楽しんでいた場所へ。
名前は無くても、名前が無かったからこそ、自分が何ものでなくても構わなかった、毎日笑っていた、もう誰もいない遊び場へ。