第39話 可愛い
児童達が面白がってわいわい騒ぐ声に交じって、河童達がはしゃいでいる声がした。
「おとな!おとな!」
「こどもじゃない、おとな!」
「みのるをいじめたおとな!」
「わるいおとな!」
「わるいの、ひっぱれ!」
「わるいの、しずめろ!」
「おい稔流。今のうちに逃げんぞ」
大彦の声と共に、稔流のバスタオルがもふっと飛んで来た。
「え、あれっていいの?」
「ゴリ?ほっとけ。あいつ簡単に死ななそうな顔してるじゃん」
大彦がずんずん出口に向って歩いてゆくので、稔流は本当にいいんだろうかと思いつつも、実際これ以上体を冷やすのは良くないので、大彦を追いかけた。
「心配するな。お人好しめ」
いつの間にか、稔流の後ろに来ていたさくらが言った。
「あの男は死なんよ。あいつにここで死なれると、この学校の子供がプールを怖がってしまうからな。そのくらい河童もわかっているよ。……チッ、ここが沼なら底まで沈めてやるのに」
さくらの心底残念そうな舌打ちと、呪いそうな口調が怖い。
「ああ、沈めるのは私じゃないぞ。河童に頼む。私は泳げないから」
泳げないから浮き輪を持っていたのか……
さくらは男子更衣室にいては駄目なことは知っているようで、そのまま先に行ってしまった。
「保健室はやめとこ。ゴリが寝に来たら最悪だし。家に帰ってあったかくしてる方がいいって」
大彦は、荷物からスマホを取り出した。
「あー、なっちゃん先生?稔流が具合悪くってさ、ゴリに何か聞かれたら、メチャメチャ咳き込んで、ヤバいから帰らせたとか言っといて」
大彦は慣れた様子で、また別の所に電話をかけた。
「雄太坊ちゃん言うな。大彦様だよ。学校の正門前まで車よこして。友達が具合悪いんだわ。宇賀田の本家までな。そーそー、神懸かるから丁重にしろよ」
大彦は通話を切って、スマホはまた荷物に放り込んだ。
「……この学校って、スマホ持ってきていいの?」
「必需品だろ。うちの村って割と電波がいいんだぜ。俺のじいちゃんと父ちゃんが何かしたらしくてさ」
「何かって、……いや、いいよ……」
スマホは稔流も持っているが、それは塾に行く時に連絡がつく方がいいからと買って貰ったものだ。この村なら、小学校高学年でも所持率は一割にも満たない気がするのだが。
「さっき言ってた、神懸かるって何?」
「あれ?知らなかったのか。稔流が転校してきた時さ、拓が突っかかって玉砕したじゃん?そん時の稔流に、神様が降臨してきて怖かったとか誰かが言ったらしくてさ、宇賀田の狐の子は神懸かりするって、その辺のじーちゃんばーちゃんが田んぼで噂話してるぜ。年寄りは降臨ってピンとこないみたいでさ、神懸かりっていう方が分かりやすいんだろ」
「分からなくていいよ……」
噂は広がるものだ。背びれと尾びれが付く上に、最長七十五日も続くのだ。勘弁してほしい。
大彦が教室からランドセルその他を持って来てくれて、校門前には黒光りする大きな車が待機していた。小学生ひとり送って行くには高級感と威圧感がありすぎる。
「鳥海さんって、ベンツ好きなの?」
「じいちゃんが免許取る時に、死にたくなかったら日本車よりベンツ乗っとけって自動車学校の教官に言われたんだってさ。本当かどうか知らねーけど」
という訳で、稔流は鳥海家の立派なベンツに乗って帰ることになった。
勿論、隣の席にはちょこんとさくらが座っている。
浮き輪はちゃんと空気を抜いて畳んであって、白いワンピースの水着のままだが、どうやったのか既に乾いているようだ。
いつやり方を覚えたのか、お行儀良くシートベルトもしている。運転手さんがミラーを見て、ベルトの位置を不審に思わないか心配だ。
(着物は家に置いてきたの?)
今は、ポケットの中に椿の花びらが入った巾着袋があるので、心の声で会話が出来る。口パクは、もう避けたい。
「置いてきた。学校に行ってから着替えるのは面倒だ」
家から水着!?と稔流は動揺したが、座敷童はほぼ人間には見えないことを思い出して、何だかホッとした。
「稔流がこの格好を気に入ったようだから、しばらくこれで過ごしてやってもいいぞ」
(ええ!?それはダメだよ!)
「何故だ?稔流が私を『可愛い』と言ったのは初めてだが、嘘だったのか?」
初めてだという事に、さくらは気付いていた。言われたことがないと気にしていたのだろうか?
じろりと睨まれたが、仄かに頬が染まっているのが、……可愛い。
そして、間近で見ると、水着なのだから当然に肌の露出が多くて、見たいような、見てはいけないような、とにかく心臓が落ち着かない。
(水着は、普段着じゃないから…)
嘘は苦手だが、今から伝える気持ちは、本当だ。
(……また、夏が来たら、着てくれる?)
「うん。稔流がそう言うなら、また着るよ」
隣で、さくらが笑った。眩しくて、小さなおひさまみたいだと思った。
「これ、邪魔だ」
さくらが、シートベルトを外した。しゅるっと動いたシートベルトとその音に、運転手さんは気が付かないのだろうか?気付かないでほしい説明に困る。
「えいっ!」
と可愛い掛け声と共に、さくらが稔流に飛び付いた。
「わあああ!!」
やわらかい。とにかくやわらかい。肌がすべすべする。すべすべで困る。
「どうかしましたか?稔流坊ちゃん」
「えぇと……」
稔流は言った。
「坊ちゃんじゃなくて、ただの稔流でいいです……」
「それは難しいですね。本家の方のお名前を呼び捨てとは、畏れ多いことです」
畏れ多いって何……?神様でも降臨するのだろうか。
「稔流。私は可愛いのか?」
稔流は、走る車のタイヤの音で、きっとさくらにしか聞こえないだろうと思いながら、小さな声で返事をした。
「さくらは……綺麗で、可愛いよ」
咳が出るよりも、熱が上がりそうな気がした。