第36話 すねる座敷童(二)
「稔流君」
二人掛けの椅子に座った狭依が、罪の無い笑顔でぽんぽんと椅子を叩いた。
「スクールバスって、誰がどこに座るか何となく決まってるの。私の隣は空いてるから座っていいよ」
「…………」
善意の塊だ。断りづらい。断ったりしたら、このバスに乗っている全員から白い目で見られるんじゃないか。
仕方無く、稔流は狭依の隣に座った。
さくらはさくらで、稔流の片膝に|乗っかって通路側を向いて座っている。
稔流に見えるのは、小さな背中と椿の花が揺れる白い髪が頬にかかる様子だけで、顔は見えないが不機嫌な顔をしているに違いない。
もし、さくらが普通の女子の格好をして可視化すれば、美少女ふたりにヤンキーみたいな髪色の男子が挟まれている、という小学生の謎の修羅場に見えるかもしれない。
稔流は、バス停に到着するまで無言を貫きたかったが、大彦が言っていた通りに世話好きな狭依は、積極的に話題を振ってくる。
内容は、クラスメイトの話や学校行事の話だったので、親切に教えてくれているのだろう。
でも、担任の名字が郷里なのだが字面と見かけでゴリと呼ばれているとか、何もしなくても大彦が笑いながら言ってくれそうだし、特に狭依でなければいけない話題でもない。
稔流は、何も返事をしないのはまずいと思って、適当に相槌を打って聞いているだけだ。
それだけだ。ただそれだけだ。
それ以外の何ものでもないので、さくらはこれ以上怒らないでほしい。
稔流がバスさっさ進め制限速度は10キロオーバーくらいなら警察は見逃してくれるんだからと祈っていると、やっとバス停に着いた。
(さくら!)
稔流は、心の声で叫ぶと、さくらの手を引いて出口までダッシュしたが、背後から幼稚園の先生みたいな狭依の声がした。
「稔君、バスの中で走っちゃ危ないよ?」
「……はい」
とにかくバスから降りることが出来た、が。
今までの人生で、これほど気まずくこれほど緊迫感溢れる場面があっただろうか?いやない反語。(中学か高校の古文の参考書をパラ見した時にあった気がする)
バス停はちょうど波多々家の前で、元々狭依やその兄姉の為にあったのだろう。稔流は少し引き返さなければいけない。
「……わ!?」
稔流の手を引っ張って、さくらが走り出した。知ってはいるが素晴らしい俊足だ。
「また明日ね~!」という狭依の声が、あっという間に遠ざかる。
「さくら!速い!転ぶ!|転ぶってば!!」
本当に転ぶ、と思ったが、限界は別の所に来た。ヒュウ、と喉の奥が鳴る。
|喘息の発作の前兆だ。
「稔流!?」
「さくら……」
やっと、声で呼べる。
「やっと、俺を、見てくれた……」
稔流は、掠れた声で言うと、膝を折って屈み込んだ。
吸入薬はランドセルの中に入っている。
体育の時間ならポケットの中に入れておくのに、急劇に咳き込んで息が苦しくて、体がうまく動かない。
やっとランドセルのベルトから腕を抜いたけれども、ランドセルはごろんと転がって遠ざかり、錠前に手が届かない。
「稔流、これを飲め!」
さくらが袂から取り出したのは、淡い光を帯びた丸い飴玉のようなものだった。
稔流が震える手で受け取る前に、さくらの指が稔流の唇に触れて、ころんと口の中に入れた。
それは、すぐにとろりと口の中で溶けると、あたたかな甘みが口の中に広がった。
(これを飲め。楽になる。頑張れ)
脳裏に、懐かしい声を聞いた。神隠しの時、泣いていた稔流を安心させようとしてくれた、優しく励ましてくれた声。
「稔流!飲み込め!頑張れ!」
でも、今聞こえる声は必死で、泣きそうなのはさくらの方だった。
こくん、と稔流はどうにか飲み込んだ。口の中から喉を通り潤して、そのまま体全部があたたかくなる。
まだ残暑の季節なのに、ただ稔流の体を労るようにあたたかくて、暑いとは感じなかった。
こほ、こほ、と咳が静かになってゆき、すぅっと体が楽になった。もう、ヒュウヒュウという音はしない。
「稔流、ごめん。私の所為だ……」
稔流は、ふと気が付いた。呼吸が整うまで、ずっとさくらに抱き締められていたということに。
「……っ!!」
稔流は、ぐいっとさくらの肩を押して体を放した。
今のは、近すぎた。というか距離がゼロだった。
「怒ってるのか?」
さくらが、本当に泣きそうな顔をしていた。
「ちっ、違うよ!全然!!」
稔流は、多分茹で蛸かトマトかスイカになっているのに、さくらは気付いていないらしい。
「そうじゃなくて…」
嘘は、苦手だ。
「照れた……だけだよ」
稔流は、格好悪いなぁ、と思いながら白状した。
それでも、さくらを泣かせるよりもずっといい。さくらが笑顔になってくれるのなら、からかわれて笑われてもいい。
さくらは、不思議そうな顔をした。
「今までも、私は稔流に結構くっついていたぞ?」
「今までも、俺は結構照れてたんだけど……」
ああ、格好悪い。でも、照れてしまっても、さくらが自分を見てくれるだけで、嬉しかった。
「そうなのか?」
「そうだよ……トマトとスイカの次は、何言われるんだろうって思ってたよ」
「そう言えばそうだな」
さくらは納得したようだった。
「リンゴの旬にはちょっとかかるな」
「その辺り来そうだと思ってたんだよ!」
「……あははっ」
さくらは、笑った。
「秋が楽しみだ」
「……そうだね」
さくらが、笑ってくれるなら、それでいい。
稔流は立ち上がって、自分の|膝とランドセルに付いた砂をパンパンと払うと、さくらに笑いかけた。
「帰ろう」
「うん」
どちらともなく、手を繋いだ。
一緒に帰ろう。一つ屋根の下へ。