第24話 許婚たち(一)
何か、慌ただしい気配がする…と思いながら、稔流は薄く目を開けた。
(おとう、さん……?)
(あれほど、お母さんが、時間外労働は引き受けるなって言ってたのに――――)
隣を見れば、まだ寝息を立てている、あどけない寝顔。
守ってあげたい……なんて。自分には背伸びだと思うけれども、心の中でそう思うことだけは許して欲しかった。
(ご臨終です)
父の声だ。
(お悔やみ申し上げます)
いつの間にか、稔流の意識はその部屋の天井辺りで父を見下ろしていた。
もう二度と目を覚ますことのない老人の枕元に、艶やかな振袖姿のあやめが座っていた。
臨終の場面だというのに、そこだけ華やいでいて、やはり周囲の人々にはあやめの姿は見えていないのだろう。
ふと、あやめが天井を見上げた。
上から見ていた稔流と目が合った。
(私ね、ずっと、この時を待ち続けていたの……このひとが、死んでくれるのを)
あやめは目を細め、紅を差した唇の端を吊り上げた。
美しいのに、どこか昏く、魔性を感じさせる笑みだった。
(酷い女だと思うでしょう?私、今とっても嬉しいの。幸せなの――――)
「稔流」
優しい声に、目が覚めた。さっき、一度目を覚ましたはずなのに、二度寝をしていたらしい。
「夢見が悪かったのか?」
さくらの手が稔流の額に触れて、気が付いた。うっすらと、汗を掻いている。もう一枚、タオルケットを用意して貰えばよかったと思うくらい涼しいのに。
「……さくら」
「ん?」
「お父さんが、ご臨終ですって、言ってた……」
「そうか。稔流がそう言うなら、そうなのだろうな」
さくらが身を起こした。
昨日毟られた椿の花が、白い髪に綺麗に咲いていることに稔流は気付いた。
よかったと、稔流は思った。さくらは嫌いだと言うけれども、真っ白の髪に赤い椿の花は良く似合っていて、さくらが仕種ひとつ変える度にそっと花びらが揺れる、その様がとても綺麗だと思っていたから。
「気が変わった」
「どうしたの?」
スッとさくらは立ち上がり、障子を開けた。背を向けたまま、
「あやめの見送り行く。……出来れば、稔流も来て欲しい。嫌ならいい」
稔流の返事を待たずに、さくらは行ってしまった。稔流に嫌だと思う理由など無いのに、どうしたのだろう?
「待って、さくら!」
稔流は、行儀が悪いと思いながら、パジャマを放り出して普段着に着替え、急いで後を追った。
「あら、おはよう稔流ちゃん。早起きだねえ」
曾祖母は、既に家庭菜園で一仕事終えて戻って来たらしい。
「おはよう、あ、あのっ、後でパジャマ片付けるから!」
「いいよいいよ。どうせ洗濯するからね。お友達とお出かけかい?」
「…………」
雨戸は開け放たれていて、庭に出ていたさくらがこちらを振り向いた。
「友達じゃ、……」
稔流は急いで靴を履くと、さくらに駆け寄って手を握った。そして、曾祖母を振り返った。
「将来、結婚する人!」
黒い瞳が、驚きに見開かれて稔流を見た。稔流は、さくらの手を握ったまま走り出した。
「……稔流」
「何か……ごめんっ!ひいおばあちゃんには、嘘つきたくなかったから……!」
「ごめんじゃない。私は嬉しいよ。でも『大切な人』くらいにぼやかした方が、恥ずかしくなかったのではないか?」
「それ、ひいおばあちゃん世代ではほぼ同じ意味だから!」
嘘は、苦手だ。
嘘を吐くくらいなら、黙っていた方がいい。
これからも、稔流はさくらのことを誰にも打ち明けられない。
だから、せめて、さくらの気配だけは知っている曾祖母には、本当の事を言いたかった。
(今、大人じゃないのが悔しいくらい、俺は、さくらが、好きなんだ――――)
「稔流」
「何?」
「思い切り走っているが、どこへ向っているんだ?」
「…………」
稔流は立ち止まり、その場にしゃがみ込んで頭を抱えた。
……何やってんの俺。
「落ち込まなくてもいい。まだ間に合う」
今度は、さくらが稔流の手を握って走り出した。
「捕まっていろ。落ちるなよ」
「へ?…わあああ!」
いつの間にか稔流はさくらに背負われていて、さくらは身軽に大木の幹を蹴って隣の木の枝に飛び移り、そこから更に飛び移り、どんどん上に向かって走って飛んで行く。
稔流は振り落とされないように、ぎゅっと背中からさくらを抱き締めているしかなかった。近すぎる。柔らかすぎる。
しかし、遠慮をしたら山から谷へと転落する。
「わーっ!わーっ!しぬ!死ぬーーーっ!!」
「まだ早い」
視界が青い。空だ。多分、木を飛び移りながら、山の上の方まで来たのだ。そこで、さくらは戦隊ごっこみたいな口調で言った。
「とうっ!」
「わーーーー!!」
飛んだ。落下した。稔流はジェットコースターが無理なタイプだ。
もう魂が抜けた感じにカクンと首が後ろに倒れたが、さくらの声で我に返った。
「着いたぞ」
へたり込んでいた稔流は、顔を上げた。
「ここって……」
見覚えがあった。
5年前、神隠しの帰りに不思議な《天神様の細道》を通り抜けて辿り着いた場所。
前に来た時には夜明けの直後だったけれども、今はもっと明るい澄んだ早朝の空だ。
「あの時、私は《なし》ではなくなった。稔流が私を《さくら》にしてくれたから」
「……うん。覚えてるよ」
名前はない、だから《なし》と呼べばいいと、何でもないことのようにいうから、悲しかった。
雪の糸のような白い髪を持った、とても綺麗な幼い少女。
小柄な5歳だった稔流と同じくらいの背丈なのに、とても大人びて見えた。
――――それは「この子がもう何かを諦めてしまっているからだ」と気付いたあの日。
稔流は一所懸命に《さくら》という名前を考えた。《さくら》になった少女は、本当に嬉しそうに笑ってくれた。
もう、二度と忘れない。あの時のさくらの笑顔を。
大人になっても、決して諦めない。さくらの笑顔を守ることを。
「あ……」
空は晴れているのに、ぱらぱらと雨が降り始めた。
お天気雨だ。――狐の嫁入り、ともいう。
遠くから、しゃらん、しゃらん、とたくさんの鈴の音が聞こえる。
しゃらん、しゃらん、しゃらん……
しゃらん、しゃらん、しゃららん……
しゃらん、しゃらん、しゃらん……
しゃらん、しゃらん、しゃららん……