第22話 数え十五(一)
(お前が、宇賀田の新しい子か?)
――――いつの記憶だろう。
呼びかけてきた声は、興味津々の子供の声のようなのに、慈しみの響きを持っていた。
(ん?お前、私のことが見えているのか?)
稔流は、仰向けからころんと腹這いになって、その声の|主に向って、何故かずりずりと匍匐前進のように畳の上を進んでいった。
(ふふっ、ずり這いが上手だな。いい子だ)
赤い着物を着た《誰か》の白い手が、稔流の小さな頭を撫でる。
(稲穂のような黄金色だな。後で神社に連れて行ってもらうといい。宇迦の姫神様は、きっとお前を気に入るよ)
稔流は、赤い着物の膝に乗り上げて手を伸ばした。自分の頭を撫でてくれた手よりもずっと小さい、おもちゃのような小さな手が触ろうとしたのは、日の光にきらきら揺れる、真っ白な髪の毛だった。
(珍しいか?)
珍しかったというよりも、初めて見る、きらきら、さらさらした綺麗なもの。
ぎゅっと掴むと、《誰か》は笑った。
(結構力があるな。痛いぞ?)
痛いと言いながら、好きに触らせてくれる。白桃のような頬をぺちぺちと叩いてみても、嬉しそうに笑っているばかりで。
(名前は……)
黒い瞳が、稔流の瞳を、じーっと覗き込んだ。
(みのる……稔流、というのだな、良い名前だ)
(母が真苗で父が豊だから、子供は黄金色の稲穂が稔るということか)
(両親に、愛されて育ったのだな。稔流に会えて、喜一も登与も喜代も、みな嬉しかろうな)
(私も、嬉しいよ。稔流の目に私は見えて、稔流の手は私に触れることが出来るのだな。……とても、嬉しい)
(姫神様より一足早く、私の加護を授けよう。この村を離れても、稔流が幸せでいられるように)
(稔流は、幸せになる為に生まれて来たのだから。愛される為に生まれて来たのだから)
(健やかに育ち、稔りますように。遠く遠く、離れていても。大切な、私の稔流――――)
――――ああ、そうか。
覚えていなくても、忘れてしまっても。
ずっとずっと、俺を許し続けていてくれたんだね。
ずっとずっと前から、俺の幸せを祈ってくれていたんだね。
もう、《なし》じゃない。俺の、――――
「さく、ら……?」
「静かに」
さくらが囁いて、稔流は自分が曾祖母の家に泊まっていたことを思い出した。
眠っていたからか暗闇に目が慣れていて、少し身を起こしたさくらの姿が見える。
「何か来る」
「何か、って……」
壁に目を遣れば、古ぼけた時計は二時過ぎを指している。「丑三つ時」という単語が頭をよぎり、さぁっと血が引く心地がした。
障子の向こうで、カタリ、と雨戸が動く音が聞こえて、さくらは立ち上がった。
「行ってくる。大丈夫だから寝ていていいよ。……心配するな」
さくらは微笑すると、静かに障子を開けて広縁に出て行ってしまった。
「って、無理だろ!」
心配しないなんて。
稔流も肌掛け布団をはね除けて、障子を開けた。自分なんかが追いかけても、きっと何も役に立たないのに。
少し雨戸が軋む音がして、月明かりに幻想的な人形のようなさくらの姿が映し出された。
「気配がまるで違うから、誰かと思ったぞ。――あやめ」
さくらの声に、品のよい風情の少女の声が答えた。
「でも、私だってわかったのね」
「当たり前だ。何年の付き合いだと思ってる」
「さあ……。数えたら、本当の年齢を思い出してしまうもの。嫌よ」
クスクスと、そよ風のように相手は笑った。
「さくらだって、ずいぶん大きくなったのね。成長はしない、例外は一回だけって言ってたのに」
「五月蠅い。その振袖はどうした?」
「ふふっ、最後だもの、怒らないで?この振袖はね、着られるのは今夜だけだから勿体なくて遠慮したのだけれど、姫神様が数え十五のお祝いだからって仰るから、頂くことにしたのよ。……あら、誰かいると思ったら、喜代ちゃんじゃないのね」
ちら、とさくらが稔流を見た。
「厠なら反対側だぞ」
「違うってば!」
「もう、さくらったら知ってる癖に。心配するなとでも言ったんでしょう?――無理よ」
言いたいことを先回りされた。誰だろう?
さくらは警戒した様子で出て行ったが、今はそうではない。何か来る、の何かとは、さくらの知り合いか友人のようだ。
そして、こんな夜更けにやって来る、さくらを知る者ならば。数え十五なのに曾祖母を喜代ちゃんと呼ぶ少女ならば、
――――人間ではない。
来訪者が、さくらに告げた。
「今夜は、お別れに来たの」
「そうなのだろうな。もう逝くのか」
「ええ……わかるの。《あのひと》が、垰を越えることはないわ」
「……私は、おめでとうとでも言えばいいのか?」
「せっかく振袖を着てきたんだもの。おめでとうついでに『綺麗だ』とでも褒めてくれると嬉しいわ」
「そんなもの、いっとう先に善郎に言って貰え」
「できないわ。今際の際に《《見えるようになる》》人もいると言うけど……もう意識が無いの。二度と、目を開けてはくれない」
沈黙が落ちた。リリリリリ、と虫の声が聞こえる。まだ盆に入ったばかりなのに、夜にはだいぶ涼しいこの村には、秋の訪れが近いのだろうか。
「管。草履を持って来い」
「わっ!?」
天井からにゅるりと細長い影が伸びてきて、トトンと広縁に下りた。ピンとした耳にふさふさした尻尾。管狐が二匹いる。
それぞれ片方ずつ、草履の鼻緒を咥えていて、ぴょんと濡れ縁の下におりた。一緒にさくらも雨戸の外に出て行った。
稔流は、追いかけるか迷った。
さくらは淡々としているし、あやめ、と呼ばれた相手は時々笑うような軽やかな声だが、事情はわからない稔流にも、話の内容は重いものだと察しが付いたからだ。
――――きっと、もうすぐ、誰かが死ぬ――――