第20話 無事カエル
土間に続く玄関の引き戸は、やはり開けっぱなしだった。
天道村の家の殆どは、夏は鍵をかけるどころか戸を開け放ったままなのが標準だ。
「……ひいおばあちゃん、いる?」
「ああ、稔流ちゃん。やっぱり帰って来たね」
「え?あ、ただいま……」
稔流がさくらと一緒に墓地から出て行ってしまってから、多分2時間くらい経っていると思うのだが、それでも神隠しの前例があるにしては曾祖母はいつもと変わらない。
稔流は曾祖母が怒った所を見たことがないのだけれども、ちょっとは心配されるだろうし、母なら心配極まって怒るだろうし、既に大人達が捜索活動をしていたらどうしようと思っていたのに。
「稔流ちゃん、そこ気を付けて。踏まないでやってね」
「うわっ!」
稔流は、踏み出そうとした足を引っ込めた。大きなカエルが、土間の真ん中にどっしりと座っている。
稔流の後ろから、さくらがひょこんと覗き込んだ。
「この家の辺りに棲んでいるヒキガエルだよ。雨が降ってる訳でもないのに、昼間に出てくるのは珍しいな。お前、こんなところで何をしている?」
都会っ子の稔流は、両生類も爬虫類も得意ではないが、さくらはカエルを撫でながら話しかけている。
「ああ、稔流。コイツには触るなよ。毒があるから危ないぞ」
「思い切り触ってない!?」
「座敷童には効かないよ。まあ、この手で稔流に触るとかぶれるかもしれないから洗ってくるか」
タタタ、とさくらは走って行ってしまった。
「ひいおばあちゃん、この辺りに手を洗う場所ってあるの?」
「台所で洗って構わないよ」
「えぇと、そうじゃなくて、外にある?」
「井戸があるよ。でも深くて危ないからこっちにおいで」
稔流は、さくらの行き先を知りたかったのだが、一応山道を歩いたり管狐をもにもに揉んだりしたので、おとなしく台所で手を洗うことにした。
「……ひいおばあちゃん」
「何だい?」
「騒ぎになってなくてよかったけど、あんまり心配してなかったんだね」
「豊と真苗ちゃんは、稔流ちゃんを追いかけようとしていたよ。でも、あれがひょっこり墓石に乗っかってきたもんだから、追いかけなくても大丈夫だと言っておいたよ」
あれ、とは。土間に戻ると、まだいた。
「……このカエル?」
「そうだよ。カエルは『無事帰る』っていう縁起の良いものだからね。法要の間もずっとお坊さんの傍にいたし、終わったら私に付いてきて、土間に居座ったものだから、稔流ちゃんが帰ってくるならこっちの家だと思っていたよ」
「…………」
そんな縁起担ぎで誰も捜さなかったのか……田舎ってどこでもこんな?天道村が特殊?と思いながら、稔流はまだのっそりと土間にいるカエルを見遣った。
「そうか、お前お手柄だったな。もう心配いらないから、お前もお帰り」
井戸から戻って来たらしいさくらが話しかけると、ヒキガエルはさくらの言葉を理解したかのように、ぺたりぺたりと歩き出し、外に出て行った。
「さ……」
むぐ、とさくらに口を塞がれた。
「私に話しかけるとひい婆様に聞こえるぞ?」
それまでずっと普通に会話していたから忘れていた。ひとりで喋り続ける変な奴に見えてしまう。
「ずっと手を繋いだまま話すのも不自由だな。……これでも持っていろ」
さくらは、髪に飾っている椿の花から、花びら一枚をぷつんと抜いて稔流の手のひらに載せた。
「私が気に入らないものを押し付けるのは申し訳ないが、それも私の一部には違いない。懐に入れておけば、稔流の心の言葉が私に届くよ」
「…………」
赤い花びらは確かに稔流の手の上にあるのに、稔流とさくらにしか見えないのだろう。
そして、さくらは以前言っていた通り、本当に椿の花が嫌いなのだろう。無造作に引き抜いたから、綺麗な白い髪に残った花姿も歪んでしまっていて、悲しいと稔流は思った。
「どうかしたか?」
(この花びら、懐に入れるって言われても、俺は着物じゃないから入れる場所ってポケットしかないんだけど……)
「どこでもいいよ。ポケットとやらでも」
(しわくちゃになりそう)
「しわくちゃでも千切れても平気だ。私の一部には違いないから」
「…………」
さくらの一部なら、稔流は大事に持っていたいのに。たとえ、さくらが嫌いなものであっても。
「稔流ちゃん」
曾祖母が台所から戻ってきた。スイカを載せたお皿を持って。……何故かふたつ。
畳に上がると、今は掛け布団が無い掘り炬燵の上にコトリと置いた。
「これでも食べていなさいな。稔流ちゃんが帰ってきたって豊と真苗ちゃんに言ってくるから」
「……お父さんとお母さんが、こっちに来るの?」
「帰って来たって言うだけだよ。会いたなら呼んで来るよ」
「ううん」
稔流は首を振った。
「会いたくない。何も、聞きたくない」
申し訳なさそうにする両親の顔を、見たくなかった。稔流が耐えきれなくなって叫んで拒絶するまで、何も気付かなかった癖に、今更。
でも、今まで黙っていたのは稔流自身だ。7歳から誕生日に作り笑いをしていたのは母だけではない、自分もだ。
それでも、今の稔流には、両親が何を言っても取り繕う言い訳にしか聞こえないと思った。
そして、大人の巧みな言い訳に、稔流はいとも簡単に傷付くことも、わかっていた。
悔しいくらい、悲しいくらい、稔流は子供だった。
だから、聞きたくない、何も――――
「そうかい。稔流ちゃんはゆっくり休んでなさいな。スイカも冷たいうちにお食べ」
曾祖母は全開の引き戸から出て行った。